流れ星どこへゆく
そんなことがあった翌々日、私はまたいつもと同じ早番勤務に戻してもらっていた。やっぱりこの時間の方が慣れているからか、なんとなく落ち着くし働きやすいような気がする。お客さんにも知った顔が多いので余計にそう感じるのかもしれない。今日も始業前だと思われる朝のこの時間に、佐藤さんはやって来た。

「苗字さんおはよう。やっぱり朝から苗字さんの顔見れるとやる気が違うなー」
「もう、相変わらず調子いいですね」

佐藤さんとこういうやりとりをするのも最早日常と化している。よくこうも毎回調子のいい言葉ばかりを並べられるものだと関心してしまうくらい。そして相手が佐藤さんだとそれも軽く流せてしまう。……あの人のときはそうは行かなかったのに。

あのときのあの人の表情、声、言葉。二日経った今でもはっきりと覚えている。まだ二日、されど二日。昨日だってせっかくのお休みだったというのに、ほぼ一日中あの人のことが頭から離れなかった。

「あれ、苗字さん顔赤いけど大丈夫? 風邪でも引いた?」
「えっ、あ、そんなことないです。はい、お待たせしました」
「大丈夫ならいいけど。ん、ありがと」

熱はない。でも本当に風邪を引いているときのように顔が火照っている。絶対あの人のせいだ。あの人がこのお店に来てから、私の体はどこかおかしい。自分の意思とは関係なく体温は上昇するし、初めて会ったときの"怖い"、"関わりたくない"という感情はいつの間にかどこかに消え去っていた。私、本当にどうしてしまったのだろう。





ようやく朝のラッシュが落ち着いた頃。

──あの人がまたこのお店にやって来た。


「本当にこの時間にいるんだな」

一昨日お店の中に入ってきたときと同じ、無表情とも言えるような状態のまま、男性は私に話しかけた。一昨日会ったときからずっとこの人のことを考えていたせいだろうか。なんとなく気まずくて、この人がここに来た瞬間からずっと心中は穏やかではない。

「へ、へんた……っ! …………すみません……」

あぁ、やってしまった……。

慌てて口を手で覆ってみるが、既に言葉を発してしまっている以上もう遅い。突然この人が現れたせいで、言うつもりもなかった言葉が飛び出してしまった。まさか本当にこの時間に来るなんて思いもよらず、驚きと緊張のあまりつい咄嗟に口からついて出たのは、この人と出会ったときに思わず投げつけてしまったトゲのような言葉。

「こんなところでその呼び方はさすがにやめてくれ。職務上問題がある」
「職務上……ですか?」
「いや、こっちの話だ」

呆れたように大きな溜め息をつく男性を見ていると、本当に失礼なことを言ってしまったなぁ、と心の奥から罪悪感が込み上げる。あの雨の日のことも、今の失言も。

「あの……失礼なこと言ってすみませんでした……。あのとき、私に気付かせてくれたんですよね? その……服のこと……」
「あぁ、別に気にしていない。他の言い方をしてやればよかったな」

できるだけ平静を装いながら男性の話に耳を傾けるけれど、内心は心臓が飛び出そうなほどドキドキしていて、正直男性の言葉はほとんど耳に入ってこない。あんなに怖い、関わりたくないと思っていたのに、一昨日を境目にまるで別人と話しているみたいだ。
そもそも男性と話していてこんな感情を持ったこと自体が初めてのような気がする。私の中で何か大きな変化が起きている、それだけは分かっていた。

「それより後ろに並んでいるが大丈夫か?」

その言葉にはっとして男性の後ろを見てみると、確かに数人お客さんが縦に列を作っている。

「あっ……すみません……!」

慌ててオーダーを取ってコーヒーを渡すと、受け取った男性はそのまま何も言うことなく帰っていった。


その去り行く背中を見て少し寂しく思うこの気持ち。
あの人に会うたびに胸の奥から沸き上がる、どうしようもないほど嬉しくて、ドキドキして、また会いたくて、それでもどうしようもないほど苦しいこの気持ち。

今まで抱いたことのないこの感情。


もしかして、もしかすると。

私、あの人に恋をしてしまったのかもしれない。





次の日も、そのまた次の日も、男性は同じような時間にお店にやって来てはいつも同じようにコーヒーを買って帰っていく。あの人の姿を見る度に私の鼓動は早くなり、あの人の声を聞くだけで顔が熱くなる。
彼に対する恋心に気づいてしまった私は、何事もなかったかのように会話するだけで精一杯。逆に彼が来ない日は、なんとなく心が満たされずにまた姿を見たいと思ってしまう。彼が来るか来ないかで一喜一憂する毎日。その繰り返し。

そんな毎日に変化が訪れたのは、昨日のことだった。

「前に借りた傘お返ししたいんですけど……」

彼があまりにも頻繁にコーヒーを買いに来るので、それならあのとき借りた傘を返そうと思い、勇気を出してこちらから話しかけた。

「あれは君にあげた物だ。好きにするといい」
「や、でも……。あの、じゃあせめて何かお礼をさせてくれませんか……?」

失礼なことを言ってしまったお詫びも兼ねて。

自分でも似つかわしくない、思い切ったことを提案をしたと思っている。でもそれを聞いた彼は口元に緩く弧を描き、軽く目尻を下げた。最初に見たときからずっと頭から離れない、彼の笑顔。

「そうだな、少し考えておこう。君、名前は?」
「っ……、苗字、名前……ですけど……」
「俺は赤井秀一だ。明日また来る」

……赤井、秀一さんって言うんだ。
聞きたかったけど聞けなかった彼の名前を思いがけずに聞けたこと。そして"明日また来る"という言葉。その両方が嬉しくて、つい笑みがこぼれた。



そして今日。彼……赤井さんは本当にやってきた。

「今日、仕事は何時に終わる?」

昨日よりも少し早い時間にやってきた赤井さんは、来るが早いか私にそう問いかける。いつもより心なしか穏やかそうに見えるのは、きっと私が自ら作ったフィルターを通して赤井さんを見ているからだと思う。

「五時くらいには終わると思いますけど……」
「そうか。では終わってからでいい。少し俺に時間をくれないか?」

赤井さんの思いがけない言葉に胸を突かれ、「えっ……!?」と驚きの声をあげた。一体どういう意味だろう。今までの人生でこういう経験をしてこなかったせいで、こういうときになんて返事をしたらいいのか分からず、どうしても続きの言葉が出てこない。

「傘のお礼、してくれるんだろう?」
「…………はい」

そう言いながら赤井さんが微笑みかけるので、これ以上赤井さんの顔を直視することができず、火照った顔を隠すためにうつ向きながら返事をした。

「君の仕事が終わる頃、ここの店の前で待っている」





予定どおり五時に仕事が終わり更衣室に戻った私は、心臓が口から飛び出そうなくらい緊張していた。こんなことになるのならもっと可愛い服を着てこれば良かった、なんて後悔したところで今さらどうしようもない。とりあえずメイクだけは整えてみたものの、そもそも本当に彼は待っているのだろうか。あんな社交辞令のような約束、真に受けてしまっていいのだろうか。

あの人の言葉を半信半疑に思いながら、再度メイクの確認をして更衣室をあとにした。裏にある従業員用の出入口から外に出て、ドキドキと高鳴る鼓動を感じながらお店の表側へと回り込む。



しかし、そこにあの人の姿はなかった。



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