星に寄り添って
途中に寄ったコンビニでお泊まりに必要なものを一通り買い揃え、再び赤井さんの家へとお邪魔した。今日最初にここに来たときはほとんど緊張なんてしていなかったのに、今は桁違いに緊張している。今にも心臓が飛び出しそうなほどバクバクと大きな音を立てており、初めてここにやってきた日を思い出す。
あの日も今みたいにドキドキしていた。いや、あの日以上に今のほうが緊張しているかもしれない。だって今日は大好きな恋人と、とうとう結ばれるかもしれないのだから。
お風呂を済ませたあと、赤井さんに案内されながら私たちは寝室へと部屋を移した。室内には二人くらいゆうに寝転がれそうなほど大きなベッドが置かれていて、それを見てまた鼓動が速くなる。ベッドの端に腰掛けただけなのに思うように体が動かない。体がガチガチにこわばっているのは赤井さんが先にベッドに上がってからも変わることはなかった。
「どうした? 来ないのか?」
「えっと……」
「ずっとそこにいては風邪を引くぞ」
「はい……」
そうは言われてもすぐ行動に移せるほど経験があるはずもなくて、さらに緊張のせいでどうしても躊躇ってしまう。だって、好きな人と一緒にベッドに入ったら次は──
ベッドの端に座ったまま動けずにいる私の頭に赤井さんは手を乗せて、優しくぽんぽんとたたいた。大丈夫だ、とでも言うように。
赤井さんに促されるがまま、過去一番の緊張を抱えながら私は彼の隣にゆっくりと横になった。大人二人が並んで寝ても充分広いベッドで、お互いの肩が触れ合っている。
「電気、消してもいいかな?」
小さく頷くと赤井さんは外側に体をねじって、サイドテーブルに置いてあるライトの灯りを落とした。仄かな橙色の灯りが私たちを見守るように包み込んでいる。
――とうとうこのときがやってきた。
私にとって、恋人と過ごす初めての夜。このあと何が起こるのだろう。あまりにも緊張しているせいか未だに体が硬直しているし、ドキドキしすぎて心臓がうるさい。隣にいる赤井さんの顔を見ることなんて全くできそうにもない。
肩が触れ合ったまま身動きもとれずただただじっとしていると、赤井さんの手が私の手に重ねられた。そのまま指を絡められたので、おそるおそる手を握り返す。手を繋ぐという行為自体は今までに数えきれないほどこなしているはずなのに、今日だけはいつもどおりにはいかなかった。ほんの少し触れ合うだけで心臓が破裂してしまいそう。
隣から熱い視線を感じる。いつもならこの視線に応えるべくすぐに彼の方を向くのだけれど、今日、今この瞬間だけはどうしても顔を向けることができなかった。
「名前」
緊張が限界値を突破するのではないかというところで、赤井さんがいつもと変わらない穏やかな声で私の名前を呼んだ。突然名前を呼ばれて思いっきりびくっと肩が跳ね上がる。きっと私がこれでもかというほど緊張していることに赤井さんは気付いているだろう。ふっと息を漏らす声が聞こえた。
「天体観測は楽しめたかな?」
「えっ、あ……はい……すごく楽しかったです……」
予想外の問いかけに反応が遅れる。必要以上に赤井さんを意識していたところに普段と何ら変わらない会話。拍子抜け……ではないけれど、少し、ほんの少しだけ体の力が緩んだ。そのおかげだろうか。私は自然と赤井さんのほうに体を向けていて、すぐに視線が絡み合う。目を細めて微笑む赤井さんを見て、きゅっと胸の奥が締め付けられた。
「天体望遠鏡でもあればよかったんだが、あいにく持っていなくてね」
「いえ、あの綺麗な星空を見れただけで充分です。どれがどの星かまでは分からないですし……あっ!」
「どうした?」
「北極星……探すの忘れてた……」
今の今まですっかり忘れていた。赤井さんとプラネタリウムでデートをしたときの展示でせっかく見つけ方を覚えたのに。本物の星空があまりにも壮大で、あの中から一つの星を見つけようだなんて思いもしなかったのだ。
都会の空では見られない星を見つけるチャンスだったのに。見ていた無数の星の中にはあったのかもしれないけれど、「あれが北極星なんだ」とたった一つの星を意識して見てみたかった。昔から方角の目印とされていた星を。……なんて今更思ってももう遅い。
「次回に持ち越しだな」
「また連れてってくれるんですか!?」
「もちろん。君が望むのなら」
「ふふ、嬉しいです」
赤井さんの言葉に自然と頬が緩む。今日みたいに一緒に星空を見に行けるのは今回が最初で最後だと思っていた。けれどそんなことはなくて、どうやら次の機会もあるらしい。
「次は夏の大三角のリベンジかな?」
「あ、いいですね! この辺りでは見えなかったからリベンジしたいです!」
「了解」
赤井さんは穏やかに微笑みながら、私の頬にそっと手を伸ばした。お風呂上がりだからだろう、星空の下で触れられたときとは正反対のぬくもりを感じる。私の全てを包み込んでくれるような温かい手のひらだった。
また緊張で心臓が大きな音を立てている。だんだん近づいてくる赤井さんに鼓動の音が聞こえてしまいそう。キスの気配を感じてゆっくり瞼を下ろすと、予想通り赤井さんの唇が私の唇に触れた。
──またさっきみたいな大人のキスをするのかな。
星空の下で交わした、腰砕け寸前の甘い大人のキス。数時間経った今でも舌が絡み合った感覚が残っていて、思い出しては体が熱くなる。赤井さんのキスに応えなきゃ、と心の準備をしていたのだけれど、私の期待に反して赤井さんの唇はゆっくりと離れていった。
「おやすみ」
「あ……おやすみなさい……」
眠気を誘うような優しい声だった。赤井さんは私の頭を撫でてから軽く抱き寄せると、そのまま目を閉じた。
──え……? 本当にこれで終わり……?
大の大人が同じベッドの上で手を繋いで、キスをして、体を寄せ合っているというのに。赤井さんに「泊まっていかないか?」と言われた時点で覚悟を決めていた。きっと今日、私はこの人に初めてを捧げることになるのだと。なのに何をするわけでもなく、同じベッドでただ眠るだけ。初めてのお泊りってこんなものなのだろうか。
「あの……赤井さん……」
「ん?」
「えっと……」
どうしよう。本当にこのまま眠ってしまっていいのか気になって声をかけてみたけれど、いざ言葉にしようと思うとまったく言葉が出てこない。自らそういう話題を切り出すことに対する恥じらい、赤井さんがどう思うのかという懸念。さらには緊張、不安など様々な感情が交錯しているせいでどうしても言い淀む。
「どうした?」
私を気遣う優しい声で、赤井さんは問いかけた。一度閉じた目は開かれていて、心配そうに、でも包容力に満ちた眼差しで私を見つめている。赤井さんなら私がこれから言おうとしていることを受け止めてくれるかもしれない。そう思わせてくれる眼差しだった。
「……その……何も、しなくていいんですか……?」
とうとう聞いてしまった。胸の中で渦巻いていた感情が声にも表れてしまったのだろう、自分でも分かるほどに声が震えていた。赤井さんの眼差しに誘導されるようについ口にしてしまったけれど、赤井さんは私の言葉を聞いてどう思ったのだろう。返事を聞くのが怖い。
私の言葉を聞いてもなお、赤井さんは微笑んでいた。
「あぁ。名前が隣にいるだけで充分だ。それに名前にも心の準備をする時間が必要だろう?」
赤井さんは本当にそれでいいのだろうか。今日だって本当はそういうことをするつもりで誘ったのではないだろうか。不安が緊張を上回る。
「でも……」
「焦る必要はない。名前が大切だからこそ、傷付けるようなことはしたくないんだ」
微笑みを絶やすことなく、赤井さんが私の頬に手を伸ばした。彼の手はやっぱりあたたかかった。
「私……心の準備、できてます……」
頬に触れた赤井さんの手に、おそるおそる自分の手を重ねる。私の意思とは関係なく、手は小刻みに震えていた。
心の準備ができているなんて嘘。本当はまだ全然できていない。体を見せるのも恥ずかしいし、全てを曝け出して赤井さんにどう思われるのかを考えるだけで目を瞑りたくなる。想像もつかない初めての痛みに耐えられる自信もない。何より、赤井さんに幻滅されるのがこわい。準備ができているなんてただの強がりだ。自分でも分かっているけれど、強がらずにはいられなかった。赤井さんから求められないことに対しても不安を抱えているから。
「だとしても、今日はもう遅い。名前も疲れているだろう?」
「……分かりました」
あぁ、そうか。やっぱり私に魅力がないから赤井さんは手を出そうとしないんだ。赤井さんの本心が見えてしまったような気がして、途端に心に雲がかかる。重ねた手と繋いだ手を離し、赤井さんに背を向けた。
どうしたら赤井さんにその気になってもらえるのだろう。大人の女性の色気が私にもあれば、それとも今までにそういう経験をしておけば。どれだけ考えたとしても答えは出ない。今更どうにもならないことなのだから。
すると突然、後ろから赤井さんの腕が腰の辺りに巻きつき、落ち込む私をぎゅっと抱きしめた。
「名前が本当に心の準備ができるまで俺はいつまでも待つつもりだ。だから焦る必要も無理をする必要もない。名前のことが大切だからこそ、傷付けたり、怖がらせたりするようなことはしたくないんだ」
嘘偽りのない言葉だと、声だけですぐに分かった。色気が足りないとか、魅力がないとか赤井さんが実際にどう思っているのかは分からない。分からないけれど、私のことを一番に考え、大切に思ってくれているということだけは紛れもない真実だと分かる。
赤井さんがこんなにも私に嫌な思いをさせないようにと考えてくれているのに、強がって、嘘をついているのは私だけ。こういうとき、やっぱり本心を打ち明けたほうがいいのだろうか。悩む私を赤井さんがもう一度きつく抱きしめる。
「今夜、こうして眠ることだけは許してくれ。おやすみ」
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