雲間月が見えたら
結局、赤井さんの家での初めてのお泊りで何かが起きることはなかった。赤井さんの腕の中で眠っただけ。好きな人に抱きしめられながらなんて絶対に眠れないと思っていたのに、背中に感じるぬくもりが心地よくて、目が覚めたときには窓から陽の光が差し込んでいた。

あのときは何もないことに対して不安を抱いてしまったけれど、今になって改めて思い返してみるとあれは赤井さんの優しさ以外の何ものでもなかったのだと理解できる。きっと今までの会話を通して赤井さんは私が未経験──処女であることに気付いているだろう。少なからず体を重ねることに対して恐怖心を持っているということも。

たしかに家では何も起きなかったけれど、その前に大きな進展があったことは事実。甘くて熱い、大人のキスを赤井さんが教えてくれた。たった一回の大人のキスで腰砕け寸前だったというのに、緊張の中であれ以上のことを求められていたとして私は応えられただろうか。……きっと無理だった。もしかしたら赤井さんを拒んでしまったかもしれない。赤井さんはたとえ私が拒んだとしても私を責めることはしないと思うけれど、私が自分の心を隠して、強がって、赤井さんに嘘をついたのは事実。

──謝りたい。赤井さんに嘘をつき、本心を隠してしまったことを。



赤井さんに会えたのは、それからちょうど一週間が経った日のことだった。いつものように赤井さんの部屋で他愛もない話をしながら、いつ話を切り出すかタイミングをうかがう。ソファーで隣同士に座ればスキンシップがあるのは当然のことで、赤井さんの手が私の肩を抱き寄せた。

肩に頭を預けながらふと赤井さんの顔を見上げると、注がれていたのは優しい眼差し。目が合った瞬間に赤井さんは僅かに口角を持ち上げて、ふっと息を漏らした。そして頬に手が添えられれば、次に何をしようとしているのかすぐに分かる。キスの気配を感じた。

「ちょっと待ってください……!」

この間のことを謝ることなくこのまま流されてしまうのはいけないような気がして、近づく赤井さんに制止をかける。彼の口に手を添えて。

まさか私がこのタイミングでキスを拒むとは思わなかったのだろう。目を丸くした赤井さんにはきょとん、という言葉がぴったりだ。

「どうした?」

口にあてた私の手を取り、赤井さんが不思議そうに問いかける。可愛い……なんて思っている場合ではない。ちゃんとわけを話さなければ。

「えっと、その……この間はすみませんでした……」
「ん? 名前が謝らなければならないようなことがあったか?」
「私……赤井さんに嘘をつきました」
「嘘?」

赤井さんの目を見続けることができなくて、赤井さんに握られた手元に視線を落とした。

「……私、男の人とそういうことするの……というか、付き合うのも赤井さんが初めてで……こわいというか、緊張してて……」
「あぁ」
「心の準備も、してたつもりだったんです。でも、本当は……」

準備なんて全然できてなかった。そう口にしようとしたところで、私の体はすっぽりと赤井さんの腕の中に閉じ込められていた。

「それは嘘とは言わないだろう」
「え……?」
「名前が強がっていることには気付いていたよ。すまない、急かしてしまったな。この間も言ったが、名前が本当に大切だからこそ傷付けたり、怖がらせたりしたくないんだ。初めてなら尚更な」

ひどく優しい声で伝えられた言葉が心にしみる。赤井さんが私を大切に思ってくれているのが痛いほど伝わってきた。

「でも……何もないのも不安だったんです。私に女としての色気や魅力がないから、赤井さんは何もしないんじゃないかって……」

あまりにも優しく私の心に絡まった不安の糸を一本ずつほどいてくれるものだから、口にするつもりのなかった感情までもがこぼれ落ちる。顔を上げることができなかった。ドラマでよく見る、面倒な女の典型とも言えるようなことを口走ってしまったから。分かっている。こういうとき赤井さんなら私の言葉を否定して、代わりに欲しい言葉をくれるのだと。分かっていて聞く私はなんて愚かなのだろう。

「いや、名前は充分魅力的な女性だ」

やっぱり、思った通りの言葉をくれた。でも何も言えなかった。そう言ってほしいと思っていたはずなのに、無理矢理言わせただけのような気がして心が痛む。こんなの、赤井さんの優しさに甘えているだけだ。

赤井さんの腕が緩められると、私の両肩に手を置いてそっと体を引き離した。そうすると自然と赤井さんと向き合うことになってしまい、再び視線が絡み合う。目尻を下げながら細められた目は私の心の痛みを和らげ、さらに心にぬくもりを与えてくれた。

「俺は名前のすべてを愛したいと思っているよ。だが、心が伴わない行為は名前を苦しめるだけだ。いくら恋人同士だとしても、相手を傷付けてまですることではない。愛し合う行為に苦痛は必要ないだろう?」

私を諭すような言葉が次々と降ってくる。赤井さんの声はずっと穏やかなままで、春のひだまりのように優しかった。こんなにも私のことを大切に思ってくれているのに、その想いに応えられない自分が情けなくて申し訳なさが募る。

「ありがとうございます……。すみません、我慢……させてますよね……?」
「俺にしてみれば名前に無理をさせるほうがよほど堪え難いことだ。気にすることはない。仕事柄、待つのは得意なんだ。名前が心から先に進みたいと思えるまで待つ。だから安心してほしい」

優しくて、でも真剣な眼差しに吸い込まれるかと思った。赤井さんの言葉に胸がきゅっと締め付けられて目の奥が熱くなる。どうしてこの人はこんなにも私の心に響く言葉をくれるのだろう。この人になら──赤井さんになら身を委ねてすべてを捧げることができる。そう思わせてくれる言葉だった。

でも。

「めんどくさくないですか……?」

──経験のない女って。

こんなことを直接聞くのは正直憚られたけれど、どうしても聞かずにはいられなかった。口にするのを躊躇いながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。口先からこぼれ落ちたような小さな声で。部屋全体には響かなくとも、赤井さんの耳には届いているだろう。

返ってくる言葉を想像してはキリキリと胸が痛む。自分から問いかけたくせに、返答を聞くのが怖くて耳を塞ぎたくなった。私を気遣ってくれる赤井さんがストレートに面倒だと言うことはないと思う。でも、本心が表情に表れることはあるかもしれない。

不安に思いながらじっと赤井さんを見つめる。少しの表情の変化も見逃さないために。赤井さんは私の全てを受け止めるかのように、表情を変えることなく穏やかに微笑んでいた。

「愛する女性が俺を初めてに選んでくれたのなら、これ以上に嬉しいことはない」

赤井さんの表情を見て、言葉を聞いて、憑き物が落ちたかのようにすっと心が軽くなったのが分かった。赤井さんと愛し合うことに対しての緊張や恐怖心、恥じらいが全てなくなったわけではない。けれど、少なくとも赤井さんに幻滅されるかもしれない、女性としての魅力が足りないから求められないのかもしれないという不安は払拭された。

重ねられたままだった赤井さんの手を、今度は私からぎゅっと握り返す。赤井さんの気持ちに応えたい。その一心で。

「赤井さん……正直、こわいって気持ちがまだ全部消えたわけじゃないです。でも、赤井さんのことが好きだから……私に、大人の恋愛を教えてください……!」

まっすぐに赤井さんを見つめたまま、今の私の本心を包み隠すことなくはっきりと口にした。今回はまったく嘘偽りのない言葉。こわいというのも本当。でもそれ以上に赤井さんと今より深い関係になりたい。赤井さんが私にそう思わせてくれた。

「少しでも嫌だと思うことがあれば言ってくれ。必ずやめると約束する」

その言葉を合図に、赤井さんの顔がゆっくりと近づいてくる。さっきは自分の気持ちがまとまっていなかったので遮ってしまったけれど、今は違う。もう心は決まっている。

返事をする代わりに、私はゆっくりと目を閉じた。


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