瞑色の中の金星
"店の前で待っている"

確かにあの人はそう言っていた。それなのに。

「いない……」

辺りを軽く見回してみても、お店の中をちらっと覗いてみてもやっぱりあの人の姿は見当たらなかった。人混みの中に紛れているのかと思い、通りすぎる人たちを追って何度か左右に首を振ってみても、人の波に酔いそうになるだけで探し人の姿はどこにもない。

なんだ、やっぱりあれは冗談だったのか。あんな店先で交わした口約束を真に受けて、メイクまで直して、あの人に会えるかもしれないと期待して。一人で勝手に浮かれて、舞い上がって。

「馬鹿みたい……」

そもそもあんな約束自体社交辞令に決まっている。私とあの人はただの店員とお客さん。それなのにあんな言葉を信じる方がどうかしていたんだ。すっかり沈んでしまった心に比例するように、緊張して固まっていた顔からも力が抜けていく。
目は自然と伏し目がちになり、口角は重力に逆らえず下がっていった。丸まった背中、ゆっくりとした足取り。端から見たら"とぼとぼ"という言葉が妙なほどしっくり来るだろう。たったこれだけのことでこんなに落ち込むなんて思いもしなかった。

「帰ろ……」
「なんだ、帰ってしまうのか?」

誰にも聞こえないような声で呟いた言葉は、突如どこからか現れたこの人にははっきりと聞こえてしまったらしい。下を向いていたためその存在に気付かなかったが、目の前に立ちはだかる男性は、まさにたった今私の心を沈めた原因の人物。

「わっ! …………赤井、さん……」

いないと思っていた人が突然姿を見せ、頭上から声が降ってきたせいで、私は思わず色気も女性らしさも全くない声をあげた。声につられてすぐに顔を上げると赤井さんは納得がいかないとでもいうような怪訝そうな顔をして、私のことを高い位置から見下ろしている。

「俺との約束が不服だったか?」
「や、あの……赤井さんみえなかったので……冗談かな、って……」

あはは、と誤魔化しながらそう答えると、赤井さんがほんの少しだけむっとしたような気がした。気がしただけかもしれないけど。

「仕事の電話が入ったんだ。それにしても、冗談だと思われていたとは心外だな。俺もそこまで暇ではない。それにお礼をすると言ったのは君の方だろう?」

それもそうだ。お店にやってきた彼に向かって、傘のお礼をしたいと私から申し出たんだ。でもお礼をするとは言ったものの、一体何をすればいいのだろう。あのときは勢いに任せて口走ったので、どうお礼をするかなんて全く考えてもいなかった。

「言いましたけど……何すればいいのか分かんなくて……」
「君の時間をくれと伝えただろう。お礼はそれでいい」
「えっ……!?」

"お礼が私の時間"と言われても、正直意味が分からない。そんなものがお礼になるとも思えないし、仮に百歩譲ってお礼になるのだとしても結局何をすればいいのだろう。もし彼の言葉の中に"私を好きなようにしていい"という意味が含まれているのなら、さすがにこの要求はNOだ。

私がこの人に対して抱いている感情は多分、いや、きっと恋心。まだ小さな蕾かもしれないけど初めて抱いたこの感情はおそらく本物で、この人がどんな人なのか、名前以外のことももっと知りたいと思う。
でも、だからといってこの人とどうこうなりたいわけでもないし、なんなら時々お店に来ていつもみたいに微笑んでくれるだけで十分幸せを感じている。年齢=彼氏いない歴の私にだって"彼氏"という存在に多少憧れはあるけれど、そもそもこの人と私みたいなちんちくりんとでは不釣り合いもいいとこだ。高望みはしない。

それに、夢見すぎだと言われるかもしれないけど、初めて誰かを好きになったというのに弄ばれて終わるなんて以ての外。嬉しいはずなのに、私の心はすでにどんより曇り空。

「そんな顔をするな。君が嫌がるようなことはしない。少し君と話がしてみたいと思っただけだ、安心しろ」

どうやら考えていることが顔に出てしまっていたらしい。赤井さんの表情はとても穏やかで、単純な私はすぐに「この人の言葉なら信じてもいいかも」という考えに至った。

「どこか行きたいところはあるか?」
「えっ……と、」

そんなことを急に聞かれても、行きたいところなんてすぐに思い付くはずもなく。返事に困って視線を落としながら口ごもっていると、赤井さんの手が私の頭にぽんと乗せられた。

「すまない、困らせたな。では少しこの辺りを歩くとしよう」

何事もなかったかのように歩き出す赤井さんと対照的に、私はこの場から動けずにいた。いつも私たちの距離を一定に保っているカウンターがないせいでただでさえ彼を近くに感じているというのに、追い討ちをかけるように赤井さんに触れられれば、当然心臓はバクバクと音を立てるし顔だって熱くなる。

「どうした? 行かないのか?」

人の波に逆らって立ち尽くしたままなかなか歩き出さない私を案じた赤井さんは、数歩先で同じように立ち止まってこちらに振り返った。赤井さんにとってはなんてことないことなのかもしれないけど私にとっては大きなことで、軽く流せるほどこの行動に対する免疫力はない。でも赤井さんが不思議そうな目で私のことを見つめているのでその視線に耐えきれず、やっとの思いで言葉を返した。

「いき、ます……」

ドキドキしながらも赤井さんがいるところまで足を進めると、追いついたのを見届けてから進行方向へと体を戻し、さっきよりもペースダウンして歩き始めた。そのせいと言うべきか、そのおかげと言うべきか。私と赤井さんは間に微妙な距離を保ちながら、隣同士に並んで行くあてもなく街の中へと歩き出した。

話がしたいと言っていたわりに赤井さんはそれほど口数が多いタイプではないみたいで、もちろん私から上手く話題を振ることなんてできるはずもなく時折沈黙が続く。黙って隣を歩くなんて気まずくなるのかと思いきや、実際はその逆だった。

もちろん緊張はするし、最初より落ち着いてきてはいるものの相変わらず心拍数は高い。けれど、こうやって何も話さずに過ごす時間でさえも妙に心地よく感じていた。同じように街を歩く人々の話し声や足音も、時々通りすぎる宣伝カーの大きな音でさえも気にならないほど、二人だけの世界に落ちたような感覚に飲み込まれる。

何もかもが初めての経験で、初めての感情だった。



そうこうしているうちにどれくらいの時間が経ったのだろう。茜色に染まっていた街は徐々に色を失い、代わりにネオンや街灯の人工的な光が辺りを照らし始める。結局どこへ行く訳でもなくぽつぽつとお互いのことを探るように話しながら街中を巡り歩いていると、いつの間にかその足は私の帰路を辿っていたようで、あのコンビニの前を通り過ぎるところだった。

あの日と違って今日の空には雲ひとつなくて、あの日よりも満ちた月はあの日よりも低い位置で、あの日と同じように幻想的な光を放っている。すっかり日の沈んだ西の空にはあの日には見えなかった一番星──金星が瞑色の中にひとつ、瞬きながらキラキラと輝いていた。

あの雨の日を思い浮かべながらぼんやりと空を眺めながら歩いていると、隣にいる赤井さんが突然足を止めたので、つられて私も同じように歩みを止めた。

「君にひとつ頼みがある」
「何ですか……?」

急に立ち止まった赤井さんは私の方に体を向き直し、真剣な眼差しで私を射抜く。突き刺さるような視線に少しだけ怯えながらもその視線から当然逃れることはできず、でも何をお願いされるのか分かるはずもなく。恐る恐る口を開いた。


「連絡先を教えてくれないか?」


──君に、名前にまた会いたい。



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