星空がなじる
青天の霹靂、寝耳に水、藪から棒。
私の人生に一体何が起こっているのだろう。今まで起こり得なかったことが次々と私の身に降りかかっている。好きだと自覚した相手と仕事終わりに待ち合わせをすること自体思いがけないことだったのに、更に連絡先まで交換することになるなんて一体誰が予想できたというのだろう。


──名前にまた会いたい。


彼の言葉がさっきからずっと頭の中でリフレインしている。いくら恋愛経験が乏しいからといって、その言葉の意味も分からないほど鈍感でもなければ知識がないほど子供でもない。赤井さんの言葉をそのままの意味で受け取って、期待なんかしてしまってもいいのだろうか。

そして赤井さんの言葉に驚きすぎてそちらにばかり気をとられていたけれど、今、赤井さんが初めて私の名前を呼んでくれた。いつも友達に同じように呼ばれているはずなのに、好きな人に名前を呼ばれるとこうも感じ方が違うのか。赤井さんの声で脳内再生される自分の名前に、顔に一気に熱が集まったと思ったらその直後には全身がカッと熱くなり、自分が自分じゃなくなるような感覚に陥ってしまう。

「嫌なら断ってくれて構わない」

赤井さんが立て続けに予想外の言葉ばかり投げかけるので、私の頭は混乱状態。そのため、何も言葉を返すことができずにいる私の答えが、赤井さんには"拒否"なのだと思わせてしまったようだ。身体は驚くほど素直に反応していて未だに顔は熱を持っているのに、恥ずかしさに耐えられずに俯いた私の顔は赤井さんにはきっと見えていない。

好きな人に連絡先を聞かれて嫌な訳がないし、むしろこれほど嬉しいことなんてないくらいなので当然断るはずもなく。でもまだ赤井さんの顔を直視できるほど心が穏やかではないので、言葉を発するよりも先に首を左右に振り、嫌ではないことを態度で示した。

「よかった」

ポケットからスマホを出した赤井さんにつられるように鞄の中からスマホを取り出し、震える指で操作をしながら彼の連絡先を登録すると、"赤井秀一"の文字が電話帳の最初に刻まれた。

「これでいつでも名前に会える」

赤井さんがふっと息を漏らし、微笑んでいたような気がした。





「はぁ……どうしよう……」

やってしまった。実は連絡先を交換した後、これ以上一緒にいたら私の心がもたないと思い、「遅くなるのでもう帰ります」と告げて逃げるようにあの場から走って駅へと向かってしまったのだ。せっかく好きな人の連絡先を入手したというのに、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。

「悪いことしちゃった……」

連絡先を交換したとはいっても数日経った今でも赤井さんから連絡が来ることはなかったし、その間赤井さんがお店に姿を見せることもなかった。

「私から連絡するべきなのかなぁ……」

そうは思っても私から彼にメッセージを送ったり電話をかけたりする勇気なんて正直持ち合わせていないし、そもそもあのときの"また会いたい"という言葉自体、ただの社交辞令だった可能性だって十分にある。

変に期待してはいけない。何度も自分にそう言い聞かせるが頭の中から彼のことが消える日などなく、むしろ赤井さんの存在感は日に日に大きくなっていくばかり。何度もメッセージアプリを開いて赤井さんの名前を選んでみては、また元の画面に戻っての繰り返し。

「あぁ……やっぱり無理……」

結局"送らない"という選択に軍配が上がったので、スマホを裏返してテーブルの上にそっと置いた。"送らない"ではなく、"送れない"の方が正しいけれど。勇気が出ないのはもちろんだけど、そもそもこういうときに何を送るのが正解なのか分からず、文面が決まらないのだ。

これはきっと学生時代にこういう青春を送ってこなかったツケが今になって回ってきたのだろう。恋人とメールのやり取りをする友達に羨ましさを感じつつも、"恋愛には興味がない"風を装って自ら行動を起こしてこなかったせいで、異性との連絡の取り方が分からない。

あのとき素直になれなかったことでこんなに悩むことになるなんて。せめて好きな人へのメッセージの送り方くらい、友達から教えてもらっておけばよかった。

天邪鬼なのは今も昔も変わらない。自分の本質というのはそう簡単に変化するわけもなく、当然のように赤井さんに対しても同じような態度をとってしまう。会いたいと言われて嬉しいはずなのに、素直になれない私は"逃げる"という道を選んでしまった。

「だめだ……私には向いてない……」

友達に相談しようにも事の成り行きを一から説明するのは少し手間だし、何より自分の恋心を人に話すなんて恥ずかしすぎる。それに相談したところで、どうせ得られる答えはひとつ。

『自分から行動を起こせ。悩む前にさっさと連絡しろ』

彼女ならきっとそう言うに決まっている。そんなこと、言われなくたって分かっている。でもそれができないから悩んでいるのだ。簡単にそれができるなら何も苦労しない。

ソファーの上で両膝を抱えながら、はぁ……と大きく溜め息をついて膝に顎を乗せたところで、テーブルの上に置いたスマホのバイブが大きく響き、何かメッセージが届いたことを知らせた。誰だろう、と思いつつもちょっとだけ期待しながらテーブルに手を伸ばし、再度スマホを手に取ってメッセージを確認する。……送り主は友達登録している企業からの広告メッセージだった。

「何、期待してるんだろ……」

自分に呆れて乾いた笑いしか出てこない。もう一度スマホを操作し、彼の名前を選択してメッセージのやりとりをされてないトーク画面を開く。

"こんばんは"? "お久しぶりです"?

出だしの言葉すら決まらない。いろいろな言葉を並べてみてはまた全て消去して……という動作を一体何度繰り返せば気が済むのだろう。結局文面が決まることもなく、メッセージ欄は空白のまま指先がスマホの上で宙を舞っていると、突然画面上に白い吹き出しが現れた。

『今月の休みを教えてほしい』

表示されている一文のメッセージ。たった一文。しかし私の思考が停止するには十分すぎるほどのメッセージだった。一瞬の間に既読をつけてしまったことなんて気にする余裕もないほど、今の私にはとても理解が追い付かない。スマホを持った左手も、操作しようとしていた右手もそのままの位置でフリーズし、やっと思考が戻ってきたときには思わずスマホを放り投げそうになる始末。

「え、待って、嘘……どうしよう……」

信じられない。赤井さんと待ち合わせをしたあの日から今日まで、以前のようにお店で姿を見ることもなく、連絡先を交換したのにも関わらず何の音沙汰もなく。あのとき赤井さんが並べた言葉は社交辞令、もしくは冗談だとずっと思っていたのに。

「ほんとに……? 相手間違えてない……?」

これは本当に私宛のメッセージで間違いないのだろうか。赤井さんからこんなメッセージが送られてくるなんて、夢でも見ているようだ。既読をつけてしまった以上早く返信をしなければならないと心は焦るが、いざ文字を入力しようとすると驚きと緊張のせいか指が震えて思うように動かない。やっと休みを入力し終わったところで私は再び頭を抱えることになる。

「こんなんでいいの……?」

入力スペースには私の休暇日が並んでおり、日付の最後に"です"と付け加えただけだ。質問の答えにはなっている。でもそれが好きな人へのメッセージとして正解なのかは分からない。もっと女の子らしく可愛い絵文字でも付けた方がいいのだろうか。

メッセージを送り返すことができないまま、どれくらいの時間が経ったのだろう。赤井さんからのメッセージの送信時間と現在の時間を見比べてみると、既に一時間近くは経過している。再び焦りが生まれてうーんと唸っていると、新たなメッセージが届いた。



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