素直になりたい夜の空
左ハンドル。あまり……どころか全く見かけることのないような種類の外車。そして当然の如く革張りの内装と来れば、おそらく私の給料では何年かかっても購入することができないような高級車であることは間違いないだろう。
赤井さんがドアを開けたのにつられて何も考えずに乗り込んだけれど、本当にこれで良かったのだろうか。運転する赤井さんの隣で膝を揃えて縮こまっていれば、隣からは息を漏らすように小さく笑う声。
「何が可笑しいんですか……?」
「いや、あまりにも君が緊張しているようだからな。まさか男の車に乗るのが初めてという訳でもないだろう?」
赤井さんは冗談っぽくそう言ったけれど、むしろ図星を突かれて返す言葉もないくらい。生まれてこのかた異性の運転する車に乗り、二人でどこかに出掛けるなんてしたことがない。だから緊張はするし、落ち着かないのは当然だった。しかもその相手に恋心を抱いていることを自覚した以上、緊張しない方が不可能に近いだろう。
「わ、悪いですか!? しょうがないじゃないですか……。本当に初めてなんですから……」
経験がないことを馬鹿にされたような気がして、それが悔しくて。咄嗟に口から出てしまったのは開き直ったような言葉。どうしてこんな可愛くない言い方しかできないのだろう。赤井さんが誘ってくれて嬉しかったのに、私の言い方一つで全部台無しになってしまう。
「ホォー、それは光栄だな」
後悔で俯く私とは対照的に、赤井さんの悦に入るような声が聞こえた。赤信号で止まった車の運転席に視線を移してみれば、にやりと口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる赤井さんがじっと私を見つめていて。とても赤井さんの目を見ることはできず、ふいと目を逸らして再び俯いた。
すると突然、私の頭に感じたのは微かな温もり。赤井さんの手が私の頭に乗せられたのだ。ぽんぽんと二回、私の頭に軽く手を置くとその直後に再び信号が青に変わり、赤井さんは手を退けて車を走らせた。
こんなのずるい。ずるすぎる。赤井さんは狙ってやっているのか、それとも素でやっているのか分からないけど、こんなことをされてしまってはまた鼓動が早くなってしまう。
ただでさえさっきから運転する赤井さんにときめいているというのに、これではいつまでたってもときめきが収まることはない。今からこんな状態で、これから彼と過ごす時間、私の心臓はもつのだろうか。
どこに行くんですか? そう聞こうと思ったけれど、以前も同じようなことがあったのを思い出して口を開くのをやめた。
「他の男とこうして出掛けたこともないのか?」
「それ、は……」
赤井さんは前を向いたまま私に問いかけた。こういうとき、どう答えるのが正解なのだろう。他の男性と出掛けたことがあるか。その問いに対する本当の答えはNOだ。でもいい歳した女が一度も男性と出掛けたことがない、というのは男性側からしたらどうなのだろう。
面倒くさい? それともバカにされる? だからと言って本当は経験がないのにYESと返事をするのも如何なものか。嘘をついてまで見栄を張る必要がどこにあるのだろう。
「あぁ、すまない。余計なことを聞いたな」
なんと返せばいいのか考えている間に赤井さんが言葉を遮ったので、結局私は返事をすることができなかった。昨日といい今日といい、さらにはこの間からずっと赤井さんに気を遣わせてばかり。
「男の人と二人で出かけるの……赤井さんが初めてなんです……!」
言葉を濁してばかりのつまらない女だと思われたくなくて、やっとの思いでその言葉を口にしたけれど、私が気になったのは赤井さんの反応。呆れられたかもしれないとおそるおそる赤井さんの方を見てみると、赤井さんはまた不敵に笑っていた。
笑顔に含まれる意味。今の私にはまだそれを理解することはできず、ただその笑顔に目を奪われるばかり。でも見惚れているなんて思われたくなくて、赤井さんがこちらを向きそうになったところでまた視線を元の位置に戻した。
「そんなに堅くなる必要はない。以前も言っただろう。君が嫌がるようなことはしない、と」
赤井さんは何食わぬ顔でそう言うと、先程までと変わらない様子で運転を続ける。緊張するなと言われても自分ではどうしようもないけれど、せっかく赤井さんが誘ってくれたんだ。今はこの場を楽しまなきゃ。
「君とまた話がしたいと思ったんだ。無理に誘って悪かった」
「そんなことっ……! びっくりしたけど……その、嬉しかったです……」
寂しそうに笑いながら話す赤井さんを見て、咄嗟に口から出てしまった“嬉しい”という言葉。これでは私が赤井さんに好意を持っているのがバレてしまうのではないか。そんなことを心配したところで、発した言葉は取り消すことができないのだからもう遅い。「それなら良かった」と赤井さんも嬉しそうに言うので、私もつい期待しそうになってしまう。
「このまま食事に付き合ってもらっても?」
「は、い……」
◇
「あの……まさかここ、ですか……!?」
「ああ。気に入らないか?」
「そうじゃなくて!」
赤井さんに連れてこられた場所、それは都内でも有数の高級レストランと呼ばれるようなところだった。まさかこんなところに来ることになるとは思わず、場違い感は否めない。いつもより少し背伸びしたけれど、お洒落をしてきて本当に良かった。でも、恋人でもないのにこんなところで一緒に食事をするなんて。
「名前に喜んでほしかったんだ」
笑顔でそんなことを言われれば、私もこれ以上何かを言うことはできず。先に車を降りて助手席側に回ってきた赤井さんが、助手席のドアを開けて手を差し出した。手を乗せるべきなのか躊躇ったけれど、一向に赤井さんは手を引くことはなく、更にまた私に微笑みかける。こうなってしまえば否が応でも彼の手に自分の手を重ねることしかできなかった。
手のひらに赤井さんの手の温もりが直接伝わり、それが私の鼓動を高めていく。早い鼓動が赤井さんにも聞こえてしまわないだろうか。私の手が震えていることに気付かれてしまないだろうか。
私の手を赤井さんがゆっくりと引き、彼にエスコートされるように車を降りると、赤井さんは私の手を離すことなく車のドアを閉めた。そしてそのまま歩き始めるので、私の手は赤井さんに握られたままとなってしまった。
こんな形で異性と、ましてや恋心を抱いた相手と手を繋ぐことになるなんて。あまりの緊張に思わず口から心臓が飛び出してしまいそう。振りほどこうと思えばいくらでも振りほどくことができるのに、私にはとてもそんなことはできなかった。
せっかく好きな人の温もりを感じることができたのに、それを自ら手放すなんてできるはずがなかった。
赤井さんに私の気持ちが気付かれませんように。心の中でそう願いながら、無意識のうちに赤井さんの手をぎゅっと握り返していた。
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