知らない星の瞬き
「はぁ……」

もう何度目のため息になるのだろう。さっきから動作の一区切りごとにため息をついているので、もう何度大きく息を吐き出したのかも分からない。

赤井さん、今日は結局お店にはやって来なかった。今頃、朝見かけたあの女性とのデートを楽しんでいるのだろうか。まじまじと見つめる勇気はなくて少ししか見ていられなかったけれど、遠目から見ても分かるほど綺麗で大人っぽい女性だった。まさに美男美女。きっと誰が見てもお似合いだと口を揃えて言うだろう。

「はぁ……もう帰ろ……」

やっぱり私なんかが赤井さんと釣り合うはずがないんだ。更衣室のロッカーに掛けておいた薄手のカーディガンを羽織り、また深くため息をついた。

彼女がいると知ってしまった以上、もう私から今までのように赤井さんに連絡することはできない。せっかく好きになれそうな人……いや、好きな人に出会えたのに、やっぱり素敵な男性には既に相手がいるのだと思い知らされる。

でも早く知ることができてよかった。もし恋人がいることを知らないまま、今よりももっと赤井さんのことを好きになり、のめり込んでしまっていたら。
私はきっと、簡単に立ち直ることはできなかっただろう。

でも今ならまだ大丈夫。ちょっと胸は痛むけれど傷は浅い。まだ忘れられる。取り返しのつかないところまで深みにはまる前に、現実を知ることができてよかった。



従業員の通用口から大通りへ出ると、薄暗くなり始めた街中は少しずつ人工的な光を灯し始めていた。その光が妙に寂しく感じ、また大きくため息をつく。

帰り道なんていつも一人なのに、今日は何故か一人が寂しかった。まだ初夏だというのに、まるでひとりぼっちで過ごすクリスマスのように心が寂しくてしょうがない。仲睦まじい恋人たちとすれ違う度に、私の視線は足元へと落ちていく。

「あれ、苗字さん。今帰り?」

突然よく知った声に呼び止められ、声のする方に向かって顔を上げた。思ったとおり、そこにいたのは常連の佐藤さんだった。

「あ、佐藤さん。そうですよ。こんな時間に会うなんて珍しいですね。これから外回りですか?」
「いや、俺ももう帰るところだよ。ほら、最近残業しすぎるとうるさいからさ」

ははっ、と冗談っぽく笑う佐藤さんにつられて、私もクスクスと小さく笑い声をこぼした。

「よかった。なんか今日は朝から元気なさそうだったからちょっと心配だったんだ。何か嫌なことでもあった?」

……まさかお客さんにまでバレてしまっていたなんて。

店員としてあるまじき行為。できるだけ表には出さないようにしていたつもりだったのに、負の感情は自然と溢れ出してしまっていたようだ。でもまさか仕事にプライベートなことを持ち込んで落ち込んでいるとは言えるはずもなくて。

「そんなことないですよ、大丈夫です」

無理に笑顔を作り、当たり障りのない返事をした。

「苗字さん頑張りすぎだから、あんまり無理しないでね。いつも苗字さんの笑顔に元気もらってるからさ」
「もう、また調子いいことばっかり! でもちょっと元気出ました。ありがとうございます」

今の今まで落ち込んでいたはずなのに、ほんの些細なことだけれど誰かに認められたという事実が嬉しかった。私にもちゃんと居場所があるんだと言ってもらえたようで、すっと心が軽くなったような気がした。

恋なんかしなくても、恋人なんかいなくてもやっていける。今までだってそうだったんだ。今更恋愛にこだわる必要なんかない。


まだ心は痛むけれど、なんとなく心に晴れ間ができたような気がした。そう思ったところで私の頭は僅かな重みを感じ、何かが乗せられたことに気が付いた。

「あの……佐藤さん?」
「なんか苗字さんって妹みたいでほっとけないんだよね」

私の頭の上に乗せられたのは、佐藤さんの手。ぽんぽんと数回私の頭に軽く手を置いたあと、わしゃわしゃと激しく頭を掻き撫でた。

「わっ! もー、ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないですか!」

いたずらっ子のように笑う佐藤さんに乱された髪を、雑な手ぐしで元に戻していく。このあとはもう家に帰るだけなので髪が乱れたところでさほど影響はないけれど、これでは妹というよりもペットを愛でるみたいじゃないか。

……妹?
あぁそうか。もしかしたら赤井さんにもそう思われていたのかもしれない。ほっとけない妹、とでも赤井さんが思っていたのなら、彼の行動にもなんとなく全て納得がいく。

なんだ、そうだったのか。だから赤井さんは私に構っていたんだ。全部、私の勘違い。ほんの僅かでも期待した私が間違っていた。

そうだ、あんなに素敵な人が、私なんかを相手にする訳がない。結局私は、からかわれていただけだった。

全て合点がいったところで、私はまた「はぁ……」とため息をついた。


「名前?」

ちょうど肩を落としたところで、聞き慣れた低い声が後ろから私の名前を呼んだ。まさか彼の声が聞こえるなんて思いもしなくて、反射的にびくりと肩が跳ね上がる。
誰の声かなんて振り返らなくても分かる。

一番聞きたくて、でも今だけは一番聞きたくなかった、唯一の想い人の声。


どうして彼がここにいるのだろう。驚きながらもおそるおそる振り返ると、ポケットに手を突っ込んで無表情で立っている赤井さんがいた。

「あ……赤井さん……」
「……君に触れていいのは俺だけだと思っていた」

ぼそりと呟く赤井さんの言葉は、驚くほど鮮明に私の耳に届いた。でも赤井さんがそれをどういうつもりで口にしたのかは、私には到底理解することはできない。

「それって……どういう……」
「そちらの方は? 知り合い?」

どういうことですか……?
そう問いかけようとしたけれど、佐藤さんが横から口を挟んだことで私の言葉は途中で遮られしまった。

「あ、分かった! 苗字さんの彼氏だ!」
「ち、違っ……!」

突然の、そして思いがけない佐藤さんの発言に動揺が隠せない。赤井さんが私の彼氏だと思われるだなんておそれ多くて、ただ否定することしかできなかった。
必死に否定をすることで逆に不自然にさえ思われてしまいそうだけれど、否定する以外の言葉は全く思い付かない。

赤井さんに迷惑をかけたくなくて、赤井さんには私の気持ちに気付かないでいてほしくて、首を振って佐藤さんにNOだと伝えた。気持ちがバレたところで私にはほんの僅かな可能性もないなら、今までどおりでいた方がいい。

佐藤さんにも、そして赤井さんにも変な誤解をされるのが嫌で、"違う"と否定の言葉を発したのに。

「何が違うんだ?」
「……え?」

まさか赤井さんに聞き返されるなんて思いもしなかった。更に訳が分からない。私が否定したことがさも間違いであるかのように、赤井さんはあからさまに不機嫌さを滲ませた。


いつも優しくて紳士的な赤井さんがムッとするなんて今までになかったので、私もどんな反応をしていいか分からず、彼をじっと見つめることしかできない。ここに来た瞬間から今日の赤井さんはどこか様子がおかしくて、いつもの赤井さんとは雰囲気が違うような気がした。

「あ、もしかして彼氏と喧嘩中だったから落ち込んでたの? ちゃんと仲直りしなよ。じゃあ俺もう行くから」


佐藤さんは私にそれだけ言い残し、私と赤井さんとの間に流れる変な空気を気にすることもなく、嵐のように去っていった。




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