桜色の記憶 1
「赤井さんって、本当に私のこと好きなのかなぁ……」

ベッドに寝転がってスマホを眺めながら一人ぽつりと呟いた言葉は、誰の耳に入ることもなく静かな部屋に響いて消え入った。

私が頭を悩ませる原因の人物──赤井秀一は、誰がなんと言おうと私の恋人。……なのだけれど、胸を張って「私が恋人です!」と簡単に口にできるほどの相手ではない。

ずっとアメリカ暮らしをしていた彼は女性の扱いになれている。いい意味で。レディーファーストは当然のことで、いつも紳士的な振る舞いをしてくれる彼はとても優しい。
そして眉目秀麗、高身長。恵まれた体格にしっかりと鍛えられた体。落ち着いたテノールの声。恋人の贔屓目もあるかもしれないけれど、すれ違って振り返らない女性はいないのではないかと思えるほど素敵な人だ。

そしてそんな彼はアメリカの警察機関である、FBIの捜査官だそうだ。バブル時代の言葉を借りればまさに「三高」と呼ぶのに相応しい人。今の時代に求められていないとは言っても、そこに整った顔立ちと優しさが加われば彼に寄ってくる女性は数知れず。


そんな彼とはひょんなことから出会い、トントン拍子で交際にまで発展した。優しい彼を私が好きになるのはほぼ必然。だけど私はどこにでもいるようなただのOLで、なんの取り柄もない。そんな赤井さんが私のような凡人を彼女にするだなんて、一体どういう風の吹き回しだろう。

赤井さんは何度も私に愛の言葉を囁いてくれた。もちろん私もそれに応えて同じように好きだと伝える。私の気持ちに嘘偽りなんてないけれど、赤井さんも同じ気持ちでいてくれるのか、ずっと不安を抱えていた。

今は日本で捜査を行っているのでこっちに滞在しているけれど、本拠地はアメリカなのでこちらでの任務が終われば向こうに帰ることになるだろう。以前赤井さん本人がそう話してくれた。そしてそれがいつなのかは彼自身にも分からないそうだ。

アメリカとの遠距離恋愛──国境を越えての恋愛が上手くいくはずなんてない。彼がアメリカに帰るときは破局を意味するだろう。向こうの美女たちが赤井さんを放っておかないと思うし、そもそも遠距離に耐えられる自信がない。
もしかして、本当は向こうに本命の彼女がいるのではないか。その彼女に会えないから、私を側に置いてくれるのではないか。


赤井さんになかなか会えないことに対しての不安もあり、相変わらずネガティブなことばかり考えながらスマホを触っていると、着信音と共に画面の表示が変わった。画面に表示されているのは、先程から私の頭を悩ませている人物の名前。突然のことに驚き、慌てて体を起こしてからスマホを耳に当てた。

「もしもし……」
『突然すまない。名前、今大丈夫か?』

そういう赤井さんの声はいつもより優しくて、穏やかで。ついさっきまで悪い方向にしか考えられなかった私の思考を簡単に溶かしていく。

「大丈夫です。何かありましたか?」

赤井さんが私に電話をかけてくるのは何か用事があるときだけだった。「今から会えるか?」とか、「会えそうになくなった」とか。内容は良いことも悪いこともあるけれど、赤井さんの声が聞けるのが嬉しくて、会えないと言われても素直に「分かりました」と言えた。

でもそこには赤井さんに嫌われたくないという思いもあった。面倒な女だと思われたくない、捨てられたくない。いつもそんな気持ちと隣り合わせ。だから、赤井さんが次に発した言葉を聞いて驚いた。

『いや、特に用はないんだが……名前の声が聞きたくなったんだ。用がないと電話をしてはいけないのか?』

いつもは用事がないと電話をかけてくることなんてない赤井さんが、「私の声を聞きたい」と言うなんて。

「そっ……そんなことないですっ! 私も赤井さんの声聞きたかったから、嬉しくて……」
『そうか。今日は何をしていたんだ?』
「今日は友達とランチしました。それで、そのあとに……」

今日あったことを電話越しの赤井さんに話すと、ふっと息を漏らす笑い声が聞こえた。私ばっかり話しているので呆れられたのかと思ったけれど、「そうか」と言ったときにも同じような声が聴こえたのと、その声色がとても優しかったので呆れられたという訳ではなさそうだ。

『楽しめたようで何よりだ。最近会う時間が取れず、悪いと思っている。すまない、もうしばらく会えそうになくてな』
「忙しいんですか……?」
『少し大きなヤマがあるんだ。それが片付いたら真っ先に君に会いに行く』
「はい……!」

赤井さんが忙しいことは知っている。こうして長い間会えないことも、今までに何度もあった。けれど、今回は今までの比じゃないくらい会えないような気がした。寂しさは更に増すことになり、そして不安もどんどん膨らんでいく。

『どこか行きたいところはあるか?』

そんな私の気持ちを汲み取るかのように、赤井さんは私のことを気遣ってくれた。電話越しだとしても、赤井さんの声を聞くだけでどんな表情をして話しているのかは想像がつく。今はきっと口元に優しい微笑みを浮かべているだろう。声を聞くだけで分かるほど、赤井さんが好き。赤井さんも同じ気持ちでいてくれたらいいのに。

「えっ、と……どこでもいいですか……?」
『もちろんだ』
「あの……じゃあ、私たちが出会った場所……もう少ししたら桜の時期じゃないですか。またあの桜を赤井さんと見たいなって……」

丘の上にある、大きな一本桜が綺麗な公園。そこで私たちは偶然出会った。感傷に浸って涙する私に声をかけてきたのが赤井さんだったのだ。なぜあのとき赤井さんが私に声をかけたのか、なぜあの場に赤井さんがいたのかは分からないけれど、あの桜が私たちを繋いでくれた。私たちの、思い出の場所。

『そういえばもうそんな時期か。そうだな、行こうか』
「ありがとうございます!」
『楽しみにしていてくれ。……すまない、キャッチが入った。また連絡する』

躊躇いもなくプツリと切られてしまった電話に、再び不安が襲いかかる。たった今幸せを感じていたはずなのにもう不安がよぎるなんて、一体私はどれほど欲張りな女なのだろう。
でも赤井さんを信じなきゃ。きっと赤井さんも同じ気持ちでいてくれる。私は赤井さんの彼女なんだから、彼の帰る場所になりたい。信じて待っていよう。


しかしこの日を最後に、赤井さんからの連絡は完全に途絶えてしまった。
赤井さんと最後に電話で話をしてから、一ヶ月ほど経った頃のことだった。

──ジョディさんから信じられない電話がかかってきたのは。





「赤井さんっ!」
「しっ! まだ意識は戻らないけど、幸い命に別状はないそうよ」

ジョディさんからの突然の電話を受けた直後、居ても立ってもいられなくなった私は大慌てで米花中央病院へとやって来た。赤井さんが任務中に爆発に巻き込まれて意識不明だと言われれば、心配のあまり病院に飛んでくるに決まっている。

赤井さんの職業を聞いたときから、いつかこんな日が来るのではないかと危惧していたけれど、心のどこかで赤井さんに限ってそんなことはないと思っていた。そう思いたかった。

ジョディさんに教えてもらった病室へ駆け込むと、ベッドで横になった赤井さんの頭や腕には痛々しく包帯が巻かれていた。思わず目を瞑りたくなったけれど、それでも命に別状はないという言葉を聞けたことによって、私の心は安堵に包まれる。あとは赤井さんが目を覚ますのを待つだけ。

「すぐ……目を覚ますんですよね……?」
「……それは分からないそうよ。もしかしたら何日も先になるかもしれないし、あるいは……」

ジョディさんがそこで言葉を飲み込んだので、続きの言葉を想像して私も絶句した。

赤井さんが目を覚まさない?
このままずっと目を閉じたまま、二度と赤井さんと見つめ合うことも、赤井さんの声を聞くこともできないというの?

そんなの嫌だ。信じない。いくら命に別状はないと言っても、目を覚まさないなんて、二度と赤井さんに会えないなんてとても考えられない。

「赤井さん……っ」
「シュウの側にいてあげて。意識を失う直前まで、あなたの名前を呼んでいたそうよ」

病室にいる、おそらくFBIの捜査官だと思われる外国人の横をすり抜け、ベッドの横に置いてある丸椅子へと腰を下ろす。いつも私を射抜いていたモスグリーンの瞳は、完全に瞼で覆われていた。目の下の隈が最後に会ったときよりも濃くなっており、赤井さんがどれほどの激務をこなしていたのかを物語っている。


お願い赤井さん、目を覚まして。このままずっと赤井さんと会えないなんて嫌。会いに来てくれるって言っていたでしょう?

赤井さんの左手を両手でぎゅっと包み込んで、赤井さんが目を覚ますようにと願いを込めた。最悪の事態なんて考えたくもないけれど、その最悪の事態というのが頭をよぎり、私の目には自然と涙が浮かぶ。反応がない赤井さんの手を握りながら、何度も何度も願った。


ここに来て、こうして赤井さんの手をとってからどれくらい経った頃だろう。なかなか目を覚まさない彼を見つめながらぎゅっと手を握ると、ほんの一瞬、赤井さんの手が私の手を握り返したような気がした。

「赤井さん、赤井さんっ……!」
「名前、どうしたの?」
「今、赤井さんが……私の手をぎゅっとしてくれたんです……!」
「本当!? シュウ!」

まだ意識は戻っていないかもしれない。私の声なんて赤井さんには届いていないかもしれない。でも赤井さんが私の声に反応したかのように握り返してくれたことだけで、私の目にはじわりと涙が滲む。

「赤井さん……」

もう何度彼の名前を呼んだのかも分からないほど、私は彼の名前を呼び続けた。赤井さんに私の声が届きますように。どうか、赤井さんが目を覚ましますように。私が願うことはそれだけ。


「ん……」

私たちが何度も赤井さんの名を呼ぶ声が聞こえたのかは分からないけれど、赤井さんが魘されるように小さな声を漏らすのが聞こえた。そして眉間に皺を寄せたかと思えば、赤井さんはゆっくりと瞼を持ち上げ、その隙間から翠色の瞳を覗かせた。

「赤井さん!」
「シュウ!」

ジョディさんと同時に彼の名を呼ぶと、赤井さんは少し顔をしかめてからゆっくりと瞬きを繰り返す。良かった。赤井さんが、意識を取り戻した。

「赤井さん……! よかった……もう会えないかと思った……!」

握る手にぎゅっと力を込め、彼の手に自分の頭を近づける。私の、そしてみんなの願いが通じたんだ。赤井さんが目を覚ましたことに安堵した私の涙腺は簡単に崩壊し、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。後ろにいたFBIの捜査官の人たちも同じ気持ちだったのだろう。赤井さんが目を覚ましたと分かった途端、続々と歓喜の声が上がった。

「本当によかった……」

涙ぐみながらそう漏らすジョディさんは、そっと私の肩に手を添えて、「良かったわね」と優しく声をかけてくれた。

病室にいた捜査官の一人が、先生を呼びに行ったのだろう。ネイティブな発音だったのでなんて言ったのかは分からなかったけれど、慌てて部屋を飛び出していった。

ようやく目を覚ました赤井さんは私の方をじっと見てはいるが、先程から一度も表情が変わることはない。いつものように優しい笑顔を見せることもなく、睨まれているとさえ感じてしまう。まだ意識がはっきりとしていないのだろうか。

「……誰だ?」

私を視界に捉えてから赤井さんが初めて発した言葉は、私にはとても予期しないものだった。

「え……?」
「お前は誰だと聞いている」

赤井さんの言葉に、身体中の力がどんどん抜けていく。目を覚ましますように、とずっと握りしめていた手。赤井さんはそれを易々と振り払ってしまった。行き場のなくなった手は宙を彷徨う。

一体何の冗談……?

いや、赤井さんの目は本気だ。本気で私を拒絶している。
今までにこんな冷徹な目を向けられたことがなくて、目の前にいる赤井さんがまるで別人のようで。それでもやっぱり目の前にいるのは赤井さん本人で。

言葉にならない感情は、涙となって私の中から溢れ出る。

「ジョディ、なぜ部外者がここにいる?」
「部外者? 一体誰のことを言ってるのよ」
「この女だ。医者でもなければ仲間でもないだろう。どこのどいつだか知らないが、早く追い出したらどうだ」

赤井さんが私を見る目だけが、ジョディさんや他のFBIの捜査官に向けるものと明らかに違う。まるで敵でも見るかのような鋭い目。赤井さんの目は本気だ。本気で私をこの場から、この空間から追い出そうとしている。

「シュウ、さっきから何を言ってるの? さすがにその冗談はキツすぎるわ」

ジョディさんが困ったように笑いながら赤井さんに話しかけるけれど、赤井さんは全く表情を変えることはない。目を覚ましてからずっと、赤井さんの目は私を拒絶しているのだ。

「冗談? 何を言っているんだ。俺はこんな女知らない」
「ちょっとシュウ! あなた本気で言ってるの!?」

ジョディさんもさすがに赤井さんの様子がおかしいと思ったのだろう。ジョディさんの顔がどんどん青ざめていく。

「ジョディさん、っ、も、いいです……私、今日は帰ります……っ」

もうこれ以上ここにはいられない。
これ以上ここにいたら、これ以上あんな目で見られたら、私はもう二度と赤井さんに会いに来られないような気がしたから。

ジョディさんの制止を振り切り、私は病室を飛び出した。


安心して流した涙は、すぐに悲しみの涙へと変わっていく。嗚咽を噛み殺しながら病室を離れ、おぼつかない足取りで病院の出口へと向かった。

病院の外へ出た瞬間、抑えきれない涙が次々と溢れ出す。
なんで? どうして?
赤井さん、私のことが分からなくなってしまったの?
あんなに意識が戻ればいいと思っていたのに、まさか意識が戻った赤井さんにあんな目で見られることになるなんて。

赤井さんの笑顔が見られると思った。赤井さんの手が優しく包み込んでくれると思った。


でも現実は、真逆だった。

「あか……いさ……っ、嘘だって……言ってよ……っ」


私の言葉は、もう赤井さんには届かない。



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