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赤井さんの発言が冗談ではないと分かったのは、ジョディさんの発した一言からだった。翌日、私の家にやってきたジョディさんの口からは重い言葉が飛び出した。

「シュウ、記憶喪失みたいなの」

息が止まるかと思った。
全て夢なのではないかと抱いた淡い期待は、その一言で儚く散りゆく。ジョディさんは続ける。

「……名前に関することだけ、覚えていないそうよ」

残酷な言葉の連続に耳鳴りがする。「シュウのことであなたに嘘はつきたくないから」と、謝罪の言葉と共にそう付け足した。

「記憶は……戻るんですか……」

辛うじて口にできた言葉だった。私の弱々しい声にジョディさんは目を伏せて、小さく首を横に振る。息ができなかった。頭が真っ白になり、何も考えられない。

「……それは分からないわ。すぐに戻るかもしれないし、もしかしたら……一生戻らないかもしれない……って」

深い悲しみが沸き起こり、目の前が少しずつ滲んでいく。ジョディさんの言うことが信じられない。信じられないけれど、昨日の赤井さんの視線が頭をよぎる。
冷たくて、鋭い目だった。全て夢だと思いたいのに、あの目がどうしても頭から離れない。

もう赤井さんが私に笑いかけてくれることはないの?
ただ赤井さんの笑顔が見たいだけなのに、それさえも許されないの?

じわりと涙が滲む。今まで過ごしてきた日々がどれほど幸せなものだったのか、痛いほど思い知らされる。胸が痛い。苦しい。

「これからシュウのところに行くんだけど……名前もどうかしら。辛いのは分かっているから無理にとは言わないわ」
「……行きます」

思い出してくれるまでお見舞いには行かないという選択肢もあったけれど、家でこのままじっとしてはいられなかった。昨日はだめだったけど、もしかしたら今日は何かが変わるかもしれない。私のことを思い出してくれる可能性がほんの少しでもあるのなら、諦めたくなかった。



ジョディさんについて昨日と同じ病室へと向かう。どうして恋人に会うのにこんなに緊張しなければならないのだろう。そう思ったけれど、今の赤井さんにとって私は恋人なんかじゃない。ただの部外者だ。

部外者=c…この言葉を思い出すだけで胸がズキンと痛む。

病室の前で立ち止まる私に、ジョディさんは「大丈夫?」と声をかけてくれた。震える私には、小さく頷くことしかできなかった。

ジョディさんが病室のドアを開けると、昨日と同じように包帯を巻かれた赤井さんがベッドを起こして座っていた。ジョディさんの後ろにいる私を視界に入れた直後、赤井さんの目が鋭くなったような気がした。

「調子はどう?」
「悪くはないが、これからいくつか検査をしなければならないそうだ」
「これを機に少し体を休めるといいわ。シュウは働きすぎよ」
「嫌だ、と言ってもどうせしばらく退院させてもらえないんだろう」
「あら、よく分かってるじゃない」

ジョディさんと話す赤井さんは、いつもと変わらない様子だった。でも彼の瞳に私は映っていない。おそらく、あえて瞳に映さないようにしているのだろう。赤井さんにとって部外者≠ナある私を。

「あ、ごめんなさい。ちょっと電話してくるから、名前はここにいて」

仕事の電話だろうか。ジョディさんは携帯を片手に慌てて病室を出ていってしまった。

……気まずい。

今までの赤井さんならきっとこういうときには私に微笑みかけ、「心配かけてすまない」と手を差し伸べてくれそうなのに、今の赤井さんは無表情のままだ。こちらに向けた視線は相変わらず鋭い。思わず後退りしてしまいそうなほどに。

「……なぜまた君がここにいる? 俺に何か用でもあるのか?」
「あの……赤井さんが、心配で……」
「そうか……」

一度会話を交わしたっきり、再び沈黙が続く。赤井さんとの距離をこれ以上縮めることもできず、私はその場に立ち尽くしていた。赤井さんは時折こちらを気にしながらも、やはり私だけを見つめてくれるようなことはない。

「ジョディと一緒に来たということは、君は俺たちの関係者か?」
「いえ……私は──」

赤井さんの恋人です

そう言うことができたなら、どれほど気持ちが楽になっただろう。でも、もし自ら恋人だと名乗り出たとしても、赤井さんが私の言葉を信用するとは限らない。むしろそう伝えたことによって、赤井さんが更なる警戒心を抱く可能性もある。

こういうときに限って頭の回転は速く、赤井さんがどんな反応をするのか、何という言葉が返ってくるのか、いくつもの可能性がどんどん頭に浮かぶ。もちろん一つとしていい方向の可能性は浮かばない。

『私は──』

結局その続きを口にすることはできず、私は言葉を飲み込んだ。途中で言葉を止めたことを赤井さんも不思議に思っているようで、私の心の内を探るようにじっとこちらを見つめている。

全て見透かされてしまいそう。それならいっそ、私の想いも見透かしてほしいとさえ思った。そうしたら、赤井さんはもう一度私を見てくれる。睨むのではなく、気持ちがこもったような優しい眼差しで。

「君は一体──」
「いいんです。私、待ちますから。……また来ても、いいですか……?」

赤井さんにしてみれば、私が何を言っているかなんて分からないだろう。

何を待つ?
関係のない人間が何故ここに来る?
何のために?
──そして、私が誰なのか。

私のことを覚えていない赤井さんが、すぐに答えを導き出すことができないのは分かっている。でも私はほんの僅かな可能性があるのなら、諦めたくなかった。赤井さんと過ごした日々をなかったことにはできない。赤井さんがどう思っていたのかは分からないけれど、私にとってはかけがえのない日々だったのだから。

「勝手にしろ」

返ってきた冷たい言葉。でも最初に言葉を浴びせられたときよりかは、幾分穏やかな口調。私に対する警戒心が、ほんの少し緩められたような気がした。何度も足を運べば、もしかしたら思い出してくれる日が来るかもしれない。

そう信じたかった。





その後も私は足繁く赤井さんのところへと通った。さすがに毎日とまではいかないけれど、時間の許す限り病室に足を運び、ただただ赤井さんの回復を祈った。

「聞きたいことがある」

彼の方から私に話しかけたのは、意識が戻ってから二週間が経とうとした頃のことだった。赤井さんはベッドの端に腰かけて、こちらに視線を送りながら問いかける。
赤井さんの傷はだいぶ治っているけれど、今退院すれば無茶をしかねないというFBI側の意向もあって入院期間が少し長引いているそうだ。記憶の一部が欠けていることも理由の一つだとジョディさんは教えてくれた。

二週間通いつめた結果、赤井さんはようやく私という存在に興味を持ったようだ。

「何ですか?」
「君の名前はなんと言うんだ?」

赤井さんが私という存在に興味を示し、受け入れ始めているのかもしれない。それは嬉しくもあり、同時に淋しさが募った。赤井さんの今の記憶に私が存在することによって、記憶を失う前に赤井さんの中にいた私の存在が上書きされ、消えてしまうような気がしたから。

「……苗字、名前です」

それでも名前を告げてしまうのは、一縷の望みを捨てることができなかったから。私の名前を聞いたら何か思い出すかもしれない、と。

私が名乗った瞬間、赤井さんの表情が一瞬歪んだような気がした。何か思うことがあったのだろうか。もしかしたら本当に何か思い出したのかもしれない。僅かな希望を抱きながら赤井さんに手が届きそうなところまで恐る恐る近づき、「赤井さん……?」と話しかける。

「大丈夫だ。……すまない、やはり知らない名だ」

ズキンと大きな針が胸を突き刺した。分かっていた。赤井さんが私のことを何一つ覚えていないことなんて。それでもやっぱり、はっきりと「知らない」と言われてしまったことに心が悲鳴を上げる。

バチが当たったんだ。赤井さんが私のことを本当に好きでいてくれるのか疑ったから。赤井さんの気持ちを心から信じることができなかったから。

「……そう、ですよね……」

目の奥から熱いものがじわりと込み上げてくるけれど、記憶を失った赤井さんの前では泣かないと決めていたのでぐっと涙を堪える。今ここで私が泣いたところで、赤井さんが手を差し伸べてくれるわけじゃない。余計困惑させるだけ。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、突然赤井さんの手が私の腕を掴んだ。そしてぐいっと引っ張ったかと思えば、あっという間に背中をベッドに預けることになっていた。

一瞬のことすぎて何が起こったのか分からない。手を引かれて小さく悲鳴を上げた直後、私の視界に入ったのは病室の天井と無表情な赤井さんの顔。一瞬の間に私と赤井さんの位置は逆転し、私の手首は赤井さんの大きな手に掴まれてシーツに縫い付けられている。

「あ、かい……さん……?」

感情を読み取ることができない冷たい視線が私を見下ろす。

──怖い。赤井さんに対してこんな感情を抱いたのは初めてだった。こんな赤井さん知らない。私の知っている赤井さんじゃない。

知らない人に突然自由を奪われ、身動きもとれないまま氷柱のような視線が突き刺さる。この人に対する恐怖が体を震わせ、先ほどまで堪えていた涙が自然と溢れ始めた。

「苗字、と言ったな。分かっているとは思うが、いくら怪我人とはいえ俺も男だ。男の病室にいつも一人でやってきて、君は俺を警戒することなく無防備に振る舞う。君がどこの誰だか知らんが、こういうことでも期待していたのか?」

嘲笑するような口調。蔑むような目。突き刺さる視線は相変わらず凍てついたまま。恐怖──それ以外の感情を抱くことができず、私はただただ目の前の男性に慄いた。

振り払って逃げ出したいのに、恐怖が先に立つせいで思うように体に力が入らない。そもそも赤井さんとの体格差では簡単に振り払えるはずもないのだけれど。

こぼれた涙は目尻を伝い、シーツに向かって流れ落ちる。彼の左手が私の手首を解放したかと思えば、すぐさま頭上でひとつにまとめられ、左手と一緒に彼の右手に捕らえられてしまった。スカートの裾から彼の手が侵入し、私の太股辺りをゆっくりとなぞる。

「……ッ、やっ……! 赤井さん、っ……いやッ、やめてっ……!」

彼が何≠しようとしているのか手つきで分かり、必死で彼の手から逃れようとする。力の差が歴然としているので何の抵抗にもならないかもしれないけれど、私にとってはせめてもの抵抗だった。

恋人という関係なら当然である行為も、記憶を失った彼と、というのは恐怖でしかない。一切愛なんてものは感じられず、恋人として扱ってくれる訳でもない。愛のない行為は、ただただ苦しくて辛いだけだ。

「これ以上こういうことをされたくなければ、もう二度とここには来るな」

太股を軽く撫で上げた手も、私の自由を奪った手も、見下ろす位置にいた赤井さんも、言葉と共に私から離れていく。未だに恐怖が先導する私は、彼が怪我人だということも忘れて力いっぱい押し退けた。

「……っ、赤井、さんの……ばかっ……!」

止まらない涙を拭うこともしないまま、震える足で病室を飛び出した。

飛び出した勢いのまま病院内で走ることは憚られ、ゆっくりと赤井さんの病室から離れていく。もしここが病院じゃなかったとしても、走る気力なんてない。病室から少し離れたところの廊下の隅で立ち止まり、ようやく溢れた涙を拭った。

「あら、名前……ってどうしたの!?」

赤井さんのもとを訪れたジョディさんが私に気づいたようだ。よりによってこんなところを見られてしまうなんて。泣き顔をごまかそうにも、どんどん溢れる涙を止めることができない。でも先程の出来事を言葉にするなんて到底できず、「すみません……」とだけ告げてジョディさんの横を通り過ぎた。



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