雪の日のわすれもの
「寒っ」

かじかむ手を擦り合わせながら自然と口から出た言葉は、白い息とともに街の中へと消え入った。昨晩から一日中しんしんと降り続いた雪の影響で、辺り一面はすっかり銀世界。

普段は都会の喧騒に包まれている駅前通りも、今日は降り積もった雪が音を吸収しているのか静けさが漂っている。滑らないようにと足元を確認しながらたどたどしく歩く姿は、まるで最近歩けるようになったばかりの子どものようだ。


帰宅時間はいつもと変わらないのに、白に包まれた街はいつもより明るい。街灯やビルの照明、車のライトなどを雪が反射し、より一層幻想的な世界を作り上げている。

なかなか見ることのできない雪景色に浸りたい気持ちはあるものの、今は転ばないように歩くのが先決。また足元に視線を落としながら、再び歩き出したときだった。

「おかえり」

後方から突如聞こえた声。顔をあげなくても誰のものかなんてすぐに分かったけれど、その声を耳にすればすぐに顔が見たくなる。私は歩く足を止め、声のする方へと振り返った。

「秀一さん!」

やはり声の主は私が思った通りの人だった。大好きで、常に会いたいと思っている恋人。真っ白な世界の中では彼の黒っぽい服が際立ち、より一層存在感を放っているようにみえる。

 やっぱりかっこいいなぁ。彼を見て最初に思ったことだった。ポケットに両手を入れてこちらを見ている秀一さんの佇まいは、思わず目を奪われるほど。彼が好んでよく履いている黒いズボンは、彼のスタイルの良さをより強調している。

秀一さんの姿を確認した私はすぐにでも彼の元に駆け寄りたくなって、考えるよりも先に身体が動き出していた。……足元の状態も忘れて。

「きゃっ!」

降り積もった雪の下では路面凍結が進んでいたらしい。あんなにも滑らないようにと気を付けていたのに秀一さんを前にしたら彼のことしか見えなくなって、雪が積もっていることもすっかり忘れてしまった。

つるりと足が滑ってバランスを崩した身体は、スローモーションのようにゆっくり後ろへと傾いていく。
このまま尻餅をついたらきっと痛いだろうな。これから襲いかかる痛みを覚悟して目を閉じたけれど、どれだけ経っても一向に痛みはやってこない。

痛みの代わりに腰の辺りにあるのは人の腕の感触。はっとしてゆっくり目を開くと、私の身体は秀一さんに支えられていた。

「大丈夫か?」
「はい……すみません……ありがとうございます」
「本当に名前は危なっかしいな」

 そう言う秀一さんの口許がほんの少し緩んでいて、その表情を間近で見てしまった私の心臓は大きく高鳴った。私の好きな表情だったから。

付き合って間もないわけでもないのに未だに彼の表情一つでときめいてしまうなんて、一体私はどれほど秀一さんに惚れているのだろう。

「あれ? そういえば秀一さん、なんでここにいるんですか……?」

秀一さんに預けた身体を元の位置へと戻しながら、ふと抱いた疑問を投げかける。秀一さんの自宅はここから離れているし、今日は会う約束をしているわけでもない。偶然会えたことはとても嬉しいのだけれど、用事がなければ秀一さんがここにいるはずなんてないのだ。

「この雪で仕事の予定が変更になったんだ。ちょうど名前の帰宅時間だろうと思って寄ってみたが、予想通りだったな」
「そうだったんですね。あ、じゃあせっかくだからどこか寄ってから帰りますか?」
「いや、今日はこのまま帰った方がいい。また雪がひどくなれば帰れなくなるかもしれないだろう。家まで送るよ」

せっかく会えたのに、家に着くまでの十数分しか一緒にいられないんだ。久しぶりに会えたのだから積もる話もあったのに。どこか行きたいところはあるか、とか言ってくれるものだと思っていたけれど予想とは正反対の言葉が返ってきたので、秀一さんに気付かれないよう小さく肩を落とした。

でも、わがままは言えない。秀一さんに迷惑をかけることになってしまうから。内心に残念な気持ちを抱えながらも仕方ないと言い聞かせながら、表面上は平静を装って「分かりました」と返答をした。


「行こうか」
「はいっ」

秀一さんの右腕に左手を軽く添えて、隣に並んだ彼とともに足を進める。雪道なのでいつもよりゆっくり、いつもより狭い歩幅で。相変わらずたどたどしく歩く私のペースに、秀一さんは自然と合わせてくれた。

「ふふっ」
「どうした?」
「秀一さんが会いに来てくれたと思ったら……嬉しくて」
「普段なかなか時間がとれないだろう? だから、時間が許す限りは名前と過ごしたいんだ」
「私も……です」

さっきは少しがっかりしたけれど、せっかく秀一さんと一緒にいられるんだ。がっかりしている時間が勿体ない。わざわざ会いに来てくれたのだから、とびっきり幸せな時間を過ごそう。そう思い直し、ほんの一瞬だとしても今のこの時間をおもいっきり楽しむことにした。

ふかふかの雪の上をサクッ、サクッと音を立て、他愛もない話をしながら白い絨毯に二人分の足跡を刻んでいく。普段なら既に家に着いている時間だけど、今日はゆっくり歩いているのでようやく帰路の半分程度。家に着くまでの時間が長くなるということは、その分秀一さんと一緒にいられる時間も長くなる。

すごく幸せなことだけど外にいる時間も同じように比例して長くなっているので、心は温かくても確実に身体は冷えていった。

その中でも特に冷たいのが手の指先。朝から雪が降っていたというのに手袋を忘れてしまったため、冷たい空気が肌に刺さる。いくら秀一さんの腕に掴まっているとはいっても、外気に直接晒されれば冷える一方だ。たまにひゅっと冷たい風が肌を撫でるので、思わず身震いをして秀一さんの腕にしがみつく。

「随分と寒そうだな」
「もともと寒さには弱くて……手もだいぶ冷たくなっちゃった」

すると秀一さんがポケットからするりと手を出したので、彼の腕を掴んでいた私の左手は急に行き場を失った。かと思えば、彼の右手が私の左手をとって指を絡ませる。いわゆる恋人繋ぎ。こうして手を繋ぐのもなんだか久しぶりのような気がして、手のひら、そして全ての指が秀一さんに触れていると思うとそれだけで鼓動が速くなる。

「秀一さんの手、あったかい……」
「名前の手は冷たいな。だが……こうすると寒くないだろう」

私の手は秀一さんの手と繋がれたまま、言葉と同時に彼のコートのポケットへと吸い込まれた。冷えきった私の手を包み込むのは、秀一さんの温もりだけ。

「はい……とってもあったかいです」
「そうか、よかった」

直接触れた手からは秀一さんの気持ちも伝わってくるようで心も満たされた。





「着いちゃった……」

歩き続ければいつかは自宅に到着する。そんなことは当然だと分かっているけれど、やっぱり数十分では全くと言っていいほど時間が足りない。今日はこれでお別れなのかと思うと自然とため息が漏れ、白い息を長く吐き出した。

本当はもう少し一緒にいたいのに。もう少し一緒にいたいと、素直に言えたらいいのに。

「あぁ、そういえばこの間、名前の部屋に忘れ物をしてしまったようだ。すまないが、今から取りに行っても構わないか?」
「え? あ、はい」

思い出したように口を開く秀一さん。一体何を忘れたんだろうと疑問に思いながら、玄関の鍵を開けて秀一さんを部屋の中へと招き入れた。リビングをざっと見回してみても、秀一さんの物だと思われるものは視界に入らない。

「何を忘れたんですか?」

煙草、マッチ、鍵、携帯。秀一さんの持ち物はいつも限られている。再びリビングを見回しながら私の後ろに立っている秀一さんに問いかけると、突然私の身体が秀一さんの腕にふわりと包まれた。長身の彼に抱き締められれば私の身体はすっぽりと覆われ、ぴたりとくっつく背中には彼の温もり。

「君と過ごす時間だ」

腰を屈めた秀一さんの声が、私の耳に直接届いた。大好きな声に耳が熱くなる。振り返って秀一さんの方に身体を向けると秀一さんはとても優しい眼差しで私のことを見つめていて、あぁ、本当に愛されているんだと心から実感した。

幸せを噛み締めて思わずはにかむと秀一さんはまた腰を屈めて、私に甘い口づけを落とした。



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