キスで奪い去って
「ごめんなさい、お先です!」

ようやく今日の仕事も一段落ついたので、そそくさと一人後片付け。腕時計をちらりと確認してみれば、時刻はすでに午後八時を回っていた。

「お疲れ様。あら、そんなに慌ててどうしたの?」
「同級生の集まりがあるんです。珍しくこっちにいるときだから少しでも顔出したくて……」

開始時刻は午後七時。すでに一時間以上も遅刻している。ここから法定速度で車を飛ばしても三十分はかかるけれど、渋滞さえしていなければお開きになる前には到着するだろう。お酒を入れるつもりもないし、本当に少し、少しだけでも顔を出せればそれでいい。

「だから今日はいつもよりおしゃれしてるのね。お目当ての彼でもいるのかしら?」
「そんなんじゃないです! もう、からかわないでくださいよー!」

確かに今日はいつもの機能性重視のパンツスタイルではなく、レースをあしらった、いかにも女性らしい洋服とスカート。でもそれは同性から可愛く見られたいからであって、決して異性のためではない。女性同士で出掛けるときの方が気合いを入れておしゃれをするのと同じ。それに、私の好きな人は今ここにいるのだから。

「冗談よ。気を付けてね」
「はい! お疲れ様でした」

少し離れたデスクで資料を確認している想い人をちらりと盗み見た。そうしたら彼──赤井さんが不意に顔を上げたので思いがけず目が合ってしまい、心臓が大きな音を立てる。

失礼しますの意味を込めて小さくお辞儀をすると、赤井さんは「おつかれ」と声を出さずに口だけ動かした。なんだか二人だけの秘密の合図みたい。自然と頬が緩んでしまうのをなんとか抑えながら、もう一度ぺこりと頭を下げて小走りで駐車場に向かった。赤井さんからもらった幸せを噛み締めながら。





「よかった、間に合った!」
「もう、名前遅いよ〜! ずっと待ってたんだからね!」
「ごめんごめん、仕事長引いちゃって」

お開きになる直前、私は滑り込みでみんなが集まっている居酒屋に到着した。当時の親友、部活の仲間。久しぶりに会う友人ばかりで懐かしい気持ちが蘇る。元彼もいて少しばかり気まずいところはあるけれど、今ではもう過去の人。風の噂で結婚したことも聞いた。幸せになってくれたのならそれでいい。

「ねぇ、このあと二次会行く? 近くのお店、予約してあるの!」
「ごめん、行きたいけど今日はパス! 明日早いんだよね。みんなに少しでも会いたかっただけだから、会えてよかったよ」
「え〜、いいじゃん。ちょっとでいいから行こうよ〜! ……ね?」

だいぶ酔いが回っているのか、少し舌っ足らずになった親友に可愛く甘えられればさすがの私も断りきれない。

「……じゃあちょっとだけね? 車だから飲めないけど」
「やったぁ!」

彼女はぎゅっと私に抱きついて、全身で喜びを表現した。なんだか子犬みたい。彼女に尻尾があったら、今にも取れそうなくらいぶんぶんと左右に振っている様子が目に浮かぶ。私にもこれくらいの可愛げがあったらよかったのに。


どうやら席の時間が来たようで、みんなでぞろぞろとお店を後にする。二次会に行く者、駅に向かう者。「またね」とか「あっちだよ」とかいろいろな声が飛び交う中、私の隣に一人の男性がやってきた。

「久しぶり。……二年ぶりだっけ」
「……うん。そうだね」

二年前に別れた元彼。別れた理由は、彼に好きな人ができたから。その後私は渡米。どのみち遠距離恋愛になっていたので、遅かれ早かれ彼とは破局していただろうけど。

「元気そうじゃん。なんか……変わったな」
「何が?」
「見た目。名前いい女になったよ」
「それはどーも」

別れた元彼に言われても全く響かない言葉ナンバーワン。そもそもこの物言いは褒めているのか見下されているのか。結局、この男にとって女の判断材料は見た目だけ。なんでこんな空っぽの男を好きだったんだろう。

「なぁ、俺とヨリ戻す気ない?」
「何言ってるの? あんた結婚してるじゃん」

冗談じゃない。百歩譲ってこれが冗談だったとしてもあまりにもひどい、ひどすぎる。私に対しても、奥さんに対しても。人をバカにするのも大概にしてほしいところだ。

それに私にはもう好きな人がいる。この男には一ミリたりとも愛情を感じないのだから、今更どうにかなりたいなんて気持ちはこれっぽっちもない。

「まぁ……そうだけど、お前別れた後もずっと俺のこと好きだっただろ? 可愛くなったし、また俺と付き合わない?」
「はぁ!? 私に浮気相手になれって言うの? そんなのこっちから願い下げよ! それに私、好きな人いるから。……片思いだけど」

そう、片思い。きっと永遠に私の気持ちが赤井さんに届くことはない。

「片思いならよくね? 報われない恋するより楽しいと思うけど」
「そんなのあんたには関係、っ、ん、!?」

私と彼との会話を遮るように、突然背後から現れた誰かに抱き寄せられたと思ったら、勢いのまま唇を奪われた。息が止まるかと思った。いや、キスしているのだから実際に止まっている。

そしてキスの相手が誰なのか分かった瞬間、私は心臓までも止まりそうになった。だってその相手はさっきまで一緒に仕事をしていて、ここにいるはずのない人で、私の片思いの相手──赤井さんだったのだから。

「俺の一番を二番にするとはいい度胸だな」
「あかい、さん……?」
「……誰?」
「名前の恋人だ。今はまだ予定だが、このあと正式に恋人になるつもりだ。もういいだろう、行くぞ」

言うが早いか赤井さんは私の肩をぐっと抱き寄せ、それ以上元彼の方をちらりとも見ることなく横を通り過ぎた。突然赤井さんと私のキスを見せつけられた彼がどんな表情をしていたのかは知らない。私はというと、未だに状況が理解できなくて思考なんてものは存在しなかったけれど、「二次会、断りの連絡入れなきゃ」なんて頭の隅っこでぼんやりと考えていた。


「赤井さん、あの、なんでここに……っていうか、さっき……キス……」

人気がほとんどない、閑静な通りまでやってきたところで赤井さんはようやく足を止めた。赤井さんの腕の力が弱まり、解放されて向き合ったのがほぼ同時。顔を見た途端にさっきのキスを思い出してしまって、また息が止まる。

「すまない。順番が逆になってしまったな」

緊張と期待で胸が高鳴る。赤井さんが言おうとしていること、それが私の想像したとおりだったとしたら。

「──好きだ」

低くて心地よいテノールの声が耳に、そして胸の奥に響いた。

「名前が誰を好きなのかは知らないが、」

真剣な翡翠色の瞳が私を見つめる。目をそらせない。そらしたくない。

「俺を選べ」

まっすぐな赤井さんの想いに心臓を撃ち抜かれ、本当に心臓が止まるかと思った。そしてその直後、私の目の前は黒で染まった。赤井さんの腕の中に閉じ込められたから。赤井さん愛用の香水と煙草の匂いがいつもより深く私の中に染み込んでくる。ただでさえドキドキしすぎて心臓が痛いくらいなのに、更に彼の匂いまでこんな至近距離で感じてしまえば満足に呼吸すらできない。

でも私も赤井さんの想いに応えなきゃ。私だってずっと好きだった。叶わない恋だとは思っていたけれど、こうなる日を夢見なかったわけじゃない。

「……はい」

緊張で震える手を、そっと赤井さんの背中に添えた。いつも見ているだけだった大きな背中。先輩としても異性としても憧れ、追い続けた背中。まさか手の届く日が来るなんて。

「あの、私の好きな人……赤井さん、なんです……」

胸に顔をうずめたまま赤井さんにしか聞こえないくらいの声で呟けば、頭上から聞こえたのは赤井さんの優しい吐息。赤井さんは今、どんな表情をしていて何を思っているのだろう。

気になって赤井さんの顔をゆっくりと見上げると、目に飛び込んで来たのは今までに見たことのないような柔らかな笑顔。見つめ合った私に今度はとびっきり甘い口づけをくれた。



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