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今日も疲れた。いや、今日はかなり疲れた。月末近くになっていくと売上の計上が多くなるし、経費やら色んな物の支払処理も増える。それに加えて、ちょこちょこヘルプでバレーチームに顔を出しているからか休まるものも休まらず、疲れが溜まる一方ってもんだ。その上、最近引っ越したばかりで新生活にもまだ慣れない



「隣が宮さん、だし…。」



顔見知りが隣ってだけで気を遣うのに、宮さんだし。弱味でも握られようもんなら何されるか堪ったもんじゃない。しかも、親衛隊がいるらしいし、同じマンションに住んでることがいつ周りにバレてしまうかヒヤヒヤする。それなのに、宮さんときたらそんなことはどこ吹く風で、やたらと一緒に帰りたがるし、夕飯時に、突撃隣の晩御飯をしては帰って行くし。随分と迷惑過ぎる隣人だ



「左隣の人も不気味だし…。」



なぜか時々隣から叫び声というか、呻き声が聞こえるのだ。最初は幽霊かと思ったが、隣人の仕業だとわかると、やはり左隣の人は要注意人物としてわたしの中のブラックリスト入りした。本当に極力関わり合いたくない。まあ、関わることがそうないけど、願うなら騒音はどうにかしてもらいたいものだ

ふう、と何に対してなのかわからない溜め息を吐いてエレベーターを降りる。目指すは「1004」のナンバープレート。わたしの部屋だ。疲労蓄積で凝り固まった首を軽く回しながらエレベーターホールを右に曲がる手前で、どんどんとけたたましい音が響き、ぴたりと足を止める。音がした方は自分の部屋がある方だ。何事かとそっと角から顔を出し、音がした方を確認。綺麗めカジュアルな服装の眼鏡の男性がわたしの部屋の左隣「1003」のナンバープレートを掲げた部屋のドアをどんどんと叩いている



「開けてください。」


「あれ…。」



ドアを叩く合間に聞こえた微かな声にハッとする。暗がりでこちらからは姿がよく見えない。ゆっくり近づいて、蛍光灯に晒された姿を認めて、やっぱり、と思った



「あの、赤葦さん……?」


「え、あれ、都築さん…?どうしてここに?」


「あの、わたしの部屋、そこで…。」


「隣…?ああ、もしかして引っ越したの?」


「はい。えっと、赤葦さんはどうして。お隣さんとはどういう…。」


「あー…実はここの住人の担当なんだ。」


「担当…?」


「あれ、もしかして知らない?漫画家なんだ、ここの住人。」


「漫画家さん?!」


「連載打ち切り間近だけどね。」


「それを言わないでくださいよ、赤葦さーん!」



突如響き渡った声にびくりと肩が跳ねる。そして微かに「やべっ…」と聞こえたが後の祭りだ。赤葦さんがすかさず「ヤバいも何も居留守バレてますからね」とツッコミ。ああ、それでずっとドアをどんどん叩いていたのか…借金取りか何かかと思ったよ

どうやら中の人が観念したらしい。がちゃりと開くドア。暗がりから出てきた姿は、以前見た幽霊のような姿ではなく、きちんと人の形をしていた。…我ながらすごい失礼な話ではあるけど。ドアが開く瞬間、思わず赤葦さんの後ろに隠れてしまったのはどうやらバレバレで、赤葦さんに「都築さん、どうかした?」と言われたが、上手い言い訳が思いつかず、愛想笑いで乗り切る。ドアから現れた漫画家さんは長い髪をヘアバンドでまとめていて、前は見えなかった猫目がよく見えた。マンションの廊下の明かりがちらりとその猫目を光らせる。その姿はどこか、日向に似ているような気がした



「赤葦さん…あの。」


「締め切りは厳守です。」


「ですよねー…って、あれ、どなた?」


「宇内さん、お隣さんの顔も覚えてないんですか?」


「お隣さん…え?あれ、隣に人入ったんですか?」


「先週ご挨拶したんですが…。」


「あー…えっと、あはは…先週は締切に追われてて何徹したか…あれ、でもなんか紙袋くれた……えっと。」


「都築真緒です。」


「すみません、覚えてなくて。改めまして宇内天満です、よろしく。」



先日とは違い、ペコペコとしっかり頭を下げあって挨拶。頭を下げながら先日幽霊みたいで怖いと思ったことを心の中で謝罪した。思ったよりも普通の人でホッと安心。思わず「変な人じゃなくて良かった」と口にしてしまい、スルーしてくれれば良いのに赤葦さんがそれを目敏く拾い、「宇内さんが何か変なことしました?すみません」なんて謝ってきて、居た堪れず、「いや、あの、時々呻いているようなので…」と話せば時々呻き声を発していたのは締め切り間近で追いやられていた時のことらしく、またもや深々と宇内さん、赤葦さんの両名に謝られた



「それで、原稿は?」


「いや、あの、ですね…ものすごーく、心苦しいのですが。」


「はあ…まだ、なんですね。」


「いや、あ、あとトーン貼れば、すぐに!」


「困りましたね…原稿もらうまで帰れないんですけど。」


「本当にすみません…。」


「そこら辺で時間潰してくるんで、出来たら連絡くれますか?」


「あのー…赤葦さん。それなら、ウチで待ってます?」


「は…え、いや、一人暮らしの女性のところにお邪魔するわけには。」


「実はちょっと頼みたいことがあって…。」


「え?」


「じゃ、じゃあ、おれは原稿片付けるんで!また後で連絡しますっ!!」


「あ、ちょっと!」



赤葦さんの気が逸れたことをこれ幸いと宇内さんは急ぎ部屋の中に逃げ込み、また立て篭もる。タイミング悪かったかな、と反省をするわたしに、赤葦さんは少し居心地悪そうにして首の後ろをかりかりと掻きながら、「じゃあ、お言葉に甘えようかな」と困ったように笑って言った

くるりと踵を返して、部屋の前まで数歩移動し、ドアの鍵を開ける。「どうぞ」と後ろに控えていた赤葦さんに声を掛けながら玄関の明かりをつけ、中へ招き入れると、丁寧に頭を下げて「お邪魔します」と入室する赤葦さん。揃えて置かれた靴に赤葦さんらしさが垣間見えて思わず笑った



「それで、頼みごとって?」


「実は、ベッドを買ったんですけど、組み立てが難しくて。」


「……ふっ。了解、ちょっと見せて。」



リビングへお通しして、早速と言わんばかりに切り出された話題にちょっと申し訳なさを滲ませつつ答えれば、赤葦さんは一瞬きょとんとした顔をして、次いで笑い出し、二つ返事で頷いてくれた。笑われてしまったことに恥ずかしさを覚えて、何だかなあとは思ったが、あまりお待たせするのも良くないと思い直して、こちらです、と案内する寝室。男の人を寝室に入れるなんてどうかと思ったが別にやましいことなどないのだしいいかと開き直る



「家具の組み立てやってくれるサービス付けたら良かったのに。」


「それはそうなんですけど…3000円も取られたら堪ったもんじゃないというか。つまりは、自分でできるとタカを括ってこのザマです。」


「ははっ。都築さんって面白い子だね。」


「最近よく言われるんですけど、全然嬉しくないですよ、それ。」


「そうなの?褒め言葉なんだけどなあ。」



本当に褒め言葉なんだろうか…まあ、赤葦さんのは他意がなさそうではあるけど。今までその言葉を吐いてきた人たちの顔を思い出してムカムカしてきた。宮さんは嫌味ったらしい感じで言ってくるし、佐久早さんに至ってはどんな感情を込めて言ってるのかよくわからない。馬鹿にされていることは確かだと思う…やっぱり褒め言葉として受け取れないな、うん

頭の中を過ぎった面々を勢い良くぶんぶんと頭を振って消し去り、ベッドフレームの組み立て説明書を手渡す。ふむふむとそれを見ながら、実物を確認する赤葦さん。次いで赤葦さんが「これならすぐできるよ。ドライバーある?」と聞かれて、赤葦さんの頼もしさにわたしは心の中でガッツポーズを決めて「持ってきます!」と玄関の靴箱に隠していた電動ドライバーを手に戻れば「備品はしっかりしてるね」とこれまた赤葦さんに笑われてしまった


赤葦さんって、意外とよく笑う人なんだなあ。


高校の時はそこまで関わりなくて、遠くから見ている程度だったけど、どちらかと言えばポーカーフェイス気味だったと思う。笑う顔はあまり見たことがなかったけど、木兎さんのことを話すときは表情が柔らかくなってたことはよく覚えている。その彼が、今わたしの目の前で朗らかに笑っていることが、何だか不思議で少しだけドキッとしてしまうのはギャップ萌えというやつなのだろうか、なんてコーヒーを淹れながら考える



「赤葦さん、コーヒーで、わっ。」


「ちょ、うわっ。」



コーヒーでもどうですか?なんてマグカップ片手に移動した自分が馬鹿だった。コーヒーに気がいっていて、足元がよく見えておらず、いつの間にか展開されていたベッドフレームの部品に足を取られる。宙を舞うマグカップ。ちなみに熱々コーヒー入り。つんのめって前のめりに倒れていく体。ギョッとした赤葦さんがわたしの体を支えるために腕を出してくれたのも虚しく、熱々のコーヒーを赤葦さんにぶっかけた上に二人仲良く床に雪崩れ込み、密着する心音に何とも言えない空気が流れた。



配役A、脚光を浴びる
突如、浮かび上がる濃い影


(あの、あ、赤葦さん…?)
(え、あ、ごめん。)
(いえ、わたしの不注意で、その。)
(あー…うん、大丈夫。)
(本当、ごめんなさいっ。)


事故なんです!わざとじゃないんです!!と必死で弁解をするわたしに、大丈夫大丈夫と宥める赤葦さん。「それよりも、退いてくれる?」と言われてハッとした。いつまで赤葦さんの上に乗っているつもりなのか、自分の馬鹿と自責して、慌てて飛び退けば、赤葦さんは「そんなに慌てるとまた躓くよ」と笑った。そんな赤葦さんの格好を見て余計に居た堪れなくなる。わたしが放り投げてしまったコーヒーのせいで上から下まで全身真っ茶色。熱々のコーヒーもすぐに冷めて、「っくしゅ」と小さく赤葦さんのくしゃみが聞こえてさあっと血の気が引いていく。風邪を引かせては大変だ!と戸惑う赤葦さんの背中を押してバスルームに押し込み、ホッと息を吐き出した瞬間、ピンポーンとけたたましい音が騒々しい来客の訪れを告げた

あとがき


赤葦さんと。相変わらず影山影薄い…。



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