「おい、篠山大丈夫か?」


「何が?」


「……今のなし。心配して損した。」


「ちょ、ちょっと何それ!」



いつも通りの朝。あまり寝起きが良くない二口のことを朝迎えに行くようになったのは中学の頃からの習慣で。早い時間に家に迎えに行っても、まるで家族同然かのように普通に二口家に受け入れられて、何の違和感もなく二口の部屋の前まで行くあたり色々バグっている気がする。こんこん、ときちんとノックをして部屋の扉を開ければ、珍しくちゃんと起きていたらしい。「ちゃんと起きられるじゃん」と言えば、帰ってきたのはそれに対する返事ではなく、なぜかわたしを心配する言葉。訳がわからなくて首を傾げたわたしに向かって溜め息を一つ返す二口にご立腹である

「その溜め息はどういうことよ」と言えば、「もういいっつーの!」と朝から耳がキンキンするほど大声で言われてなんだようと唇を尖らせる。訳のわからない奴め

いつまでも二口に構っていたら朝練に遅刻してしまう。訳がわからないのはいつものことだ。わたしがいてもお構いなしで制服に着替えようとする二口にギョッとして、「ちょ、わたしいるんだけど!」と言えば、何言ってんだといった顔で「関係ねえだろ」なんて言う。どういう意味だ、それは。気になることは色々あるけれど、目の前で着替えられるのは勘弁願いたい。着替える手を止める気がなく、ついにはスウェットのズボンに手を掛け始めた二口に歯噛みして、慌てて部屋を退出。二口家のリビングで待つことにしよう



「あ、小夜ちゃん。おはよー。」


「茉子ちゃん、おはよう。あ、寝癖ひどいよー?」


「あれ、あー、本当だー。」


「ちょっと待ってね。あ、ごめん、少し屈んでほしいな。」


「うん。」



二口家のリビングに続く廊下で不意に後ろから掛けられた声。振り返れば、何ともまあ芸術的な寝癖をしている二口の妹の茉子ちゃんが目に入って、やれやれと肩を竦める。二口家はどの子も手が掛かるなあ、なんて思いながらポケットに忍ばせていた女の子の必需品、櫛を取り出して、茉子ちゃんに屈んでもらえるようにお願いをする。さすが二口の妹なだけあって、高身長。羨ましいと思いながら茉子ちゃんの髪に通してみる

さらさらして折角きれいな髪の毛なのに。「こんな風に雑に扱っていたらもったいないよ」なんて笑って言えば「そう?」と興味なさげな返事が返ってきて苦笑。二口に似ず、おっとりした雰囲気で可愛いのに本当にもったいないと思いながら何度も櫛を通して寝癖を直してあげた



「うん、可愛い。」


「小夜ちゃん、ありがとー。」


「どういたしまして…って、やばいやばい!ちょっと、二口早くしてってばー!」


「朝から大声出すなよ、うるせぇ!近所迷惑だろーが!」


「何だと?!そんなこと言うなら先に行っちゃうからね!…茉子ちゃん、それじゃまたね。」


「うん、またねー。」



これから顔を洗いに行くらしい茉子ちゃんに手を振って、再度二口の部屋に向かって声を掛ければ、「今行くっつーの!」と返ってくる言葉にムッとしながらも待ってあげる優しいわたし。待っている間に櫛をポケットにしまい、今日の部活の練習メニューを確認するために鞄からノートを取り出してパラパラとめくる。数分後に制服姿の二口が階段から登場



「篠山、早く行かないと遅れんぞ。」


「誰のせいで?!」


「……おい、指切ったのか?」


「え?」


「え、じゃなくてぱっくりじゃねえか!」



開口一番で「遅れんぞ」とはどういうことか。誰のせいだ!というわたしの文句は丸無視。その文句の代打で出てきた二口の言葉に首を傾げていれば、途中まで降りていた階段をどたどたとけたたましい音を響かせながら二口がすごい勢いで降りてこっちまで来て、切羽詰まったような声を上げて初めて自分が指からだらだらと血を流していることに気が付いた


こんなにぱっくり切れたのに、痛く、ない……?


さっきから二口にイライラし過ぎて痛みを忘れてしまったのだろうか、というかそもそもいつ切れたんだろう?なんて脳内は意外と冷静で。ちょっとした違和感を払拭している間に珍しくあたふたとしている二口。「何やってんの」と言えば二口がすかさず「お前が何やってんだよ!」なんて大声を上げた



「早く手当しねえと篠山、お前死ぬぞ!」


「何を大袈裟な。ちょっと指切ったぐらいで。」


「篠山は知らねえの?…それでおれは友人を二人亡くしてんだぞ。」


「え、ちょ、何それ初耳なんだけど!」


「おい、だから早く手当しろ…!指が傷付いて指先からしか接種されない空気中に含まれる、魔のウイルスが入ったら死ぬんだぞ!!」


「なっ…!」



促されるまま急いで鞄の中にいつも忍ばせている救急箱を取り出して消毒。絆創膏を貼ろうとしたけれど上手く貼れなくてあたふたしているわたしを見かねて二口が「おれに任せろ!」となぜかすごい気合いを入れて絆創膏を片手にわたしの指を握った


なんか、すっごい緊張するんですけど。


指を握られて、指先をそんなに見つめられると。何だか照れ臭いな、なんて思っていたら、二口がおもむろにわたしの指を食べた。目が点になる。本当に食べるという表現がぴったりなほどの動作で。二口の熱い舌が傷口を這う感覚に、心臓が痛いくらい跳ねる



「な、何してるの?!」


「誰かの唾液を注入するとウイルスは死滅するらしいから。ほら、よ。」


「え、そうなの?あ、二口ありがと。」


「おう。どうってことねえよ!篠山の命はおれが守ってやったからな!と、いうわけで命の恩人からの頼みとして鞄を持ってくれ。」


「え、うん。」



まあ、それぐらいいいか。わたしはどうやら命を救われたらしいから。ちょっとよくわからないけれど切った指先から感染する魔のウイルスとやらを退治してくれたことには変わりないし。絆創膏も貼ってもらったし

促されるままに急いで靴を履いてわたしの鞄と二口の鞄、二つを持って登校。短い学校への道のりを肩を並べて歩いていたら、後ろからやってきたバレー部メンバーが不思議そうにわたしと二口の横へと並んで一言



「何で篠山は二口の鞄を持ってるんだ?」


「パシリなのか?何かの罰ゲームか?」


「パシリじゃないよ!命を救ってもらったお礼。」


「はあ?」


「指先を切っちゃったんだけど、それで、死亡率100%の指先から感染する魔のウイルスから救ってもらったの。あの二口がまさかわたしの命の危機を救ってくれるなんてもう嬉しくって!」


「えっと、あの…篠山先輩。感動しているところ悪いんですけど、えっと…その、たぶんそれ。」


「二口の嘘だろ、どう考えても。」


「………え?」


「人は指を切ったぐらいじゃ死なないからな。それで死んでいたら毎日何億万人の人が死んでると思ってんのか。」


「篠山はあれだな。二口の言うことに関してはなぜかIQが著しく低下するよな。」


「二口……?」


「やっと気付いたのか?篠山は本当ばかだよなー。少しは学習しろよ?」


「亡くした二人の友人ってなんだ!」


「ああ、あれ?キャサリンとダニエル。」


「幼稚園の時の指人形じゃないのーっ!!」



「あいつらもう指先部分がぱっくり割れて使えねえんだよな、いい奴らだったのに…」なんて涙を浮かべながら言う二口に震える拳。「ばっかじゃないの!」とこの拳が炸裂する三秒前



いつも通りの朝に、きみの嘘。
でも、一つの染みが増えていく。


(二口、このぉ!自分で鞄持てやー!)
(何でだよ!手当してやったのには変わらないだろうが!!)
(自分で手当くらいできるわ!)
(何だよ、心配してやったのに。)
(……まあ、それはありがたいけれども。)


「でも嘘を吐く必要ないよね?」と言えば、「まあな」と言ってにっこり微笑むきみの脇腹にグーパンを一発。爽やかな朝にきみの胡散臭い笑顔。ああ、本当に腹が立つ。やっといつも通りを取り戻したと思ったらこれだ。ていうか、あれが嘘だったと言うなら、わたしの指を食べたのは…!?そこから先を考えるのを拒否した。やめよう、考えるのは。そっと握った指先。だけれど、もう熱を取り戻したはずの指先はぴりりとも痛くなかった。


二口の妙な面倒見の良さは兄だからなのかなと思う。きっと可愛い手のかかる妹がいるのでしょう…。


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