地図を見ながらなんとか食堂に着くと、既に何人かの男女が支度を始めていた。
「すみません、遅くなりました」と近くにいた女性に声をかける。
「ああ、苗字さんね。ちょっと待ってて」
彼女はカレーのルーを混ぜていた手を止めて近くの男性に続きを促した。
私が遅刻してしまった理由はここで周知の事実らしく「大変だったねえ」と優しく受け入れてくれた。
聞くとその女性はここの管理人であり、サポート要員を仕切っているリーダーポジションを担っているらしく、ここでの作業について次のように教えてくれた。
・朝と夜に施設の周りの清掃
・昼食の盛り付け
・リネン室の管理、洗濯
私が遅刻してしまったので、「こちらで分担を勝手に決めちゃってごめんなさいね」と彼女は困った顔で笑った。
「むしろ、こちらこそ遅れてしまってすみません。頑張りますのでよろしくお願いします」
私は精一杯の声を出して頭を下げた。
「でもさっき来たばかりでしょ?突然で何も分からないと思うし、とりあえず昼食の準備はもう終わるから施設の見学でもしててちょうだい」
リーダーはそう言ってニッと笑った。
「そんな...ありがとうございます」
申し訳ないと思ったが正直有難かった。
まだどこに何があるのか分からないままで混乱しながらやるよりも、施設について把握しておきたかったからだ。
「いいのよ。初日だからリネンや洗濯は明日からの予定だし、少し休んでもらって夜19:00くらいに玄関とコート付近の掃除だけ頼んでいいかしら?」
私は勿論です、と頷き部屋のカードキーを受け取ると、一礼して食堂を去った。
その後合宿所を1人で歩き回り、大体の場所を確認した。
思っていたよりも広く、そして綺麗な施設だった。
私がそうしている間も、窓の外を見るとみんながテニスをしている様子が窺えた。
朝に会った大石も、笑顔でダブルスをしている。
彼らを横目に自分の部屋に入ると、そこは合宿所らしい二段ベットがあり、その下には机が収納されていた。
なんだか学生時代を思い出して懐かしい気持ちになる。
そういえば、私は今何歳なのだろうか
他の人は私を苗字名前と呼ぶので、名前はそのままらしい。
ふと夕陽が沈みかかっている窓に映る自分を見ると、そこには学生時代の自分がいた。
その姿からして、まだメイクやヘアに疎かった中学時代、おおよそ13歳〜15歳なのだろうという予想がついた。
せめて眉毛だけでも整えたい...
そう思って周りを見渡すと大きなボストンバッグが机の椅子に置かれていた。
タグには「名前」と書かれているので、きっと私の両親が用意したものかもしれない。
ゆっくりとジッパーを開けると、ジャージや下着、制服の替えや靴下など生活に必要なものに加えて小さいお財布が入っていた。
財布の近くには小さな折り紙があり、中を開くと「何か必要なものがあればこれで買ってね、母より」とある。
そういえば———
私は地図を見る。
確か施設の近くに小さいコンビニ兼薬局があったはず。
視線を巡らせると、玄関を出てすぐ隣にあるのを発見した。
良かった、これでなんとか色々と買えそう
しかしその後バッグの中身を全て出してみてもスマホらしきものは見当たらず、連絡を取る手段はなさそうだった。
普段から使っている身としては少々不便だと思ったが、この合宿所にいれば安心だし何かあれば竜崎先生をはじめ大人に頼ればいい。
私は財布をポケットに入れてコンビニへ向かった。
夜19:45
辺りはすっかり陽が落ちて暗くなっており、街頭に照らされたコートの周りにある落ち葉をせっせと箒でかき集める。
部員たちはお風呂の時間なのか、入浴剤のいい匂いが広がっていた。
やっぱりこれだけだと寒いな
ジャージを羽織ってきたものの夜風は私の体温をゆっくりと下げていく。
一通りコート周辺の掃除を終えて玄関の方へ歩いていくと、誰かが同じように箒を掃いていた。
ゆっくりと近づくと、明かりに照らされていたのは氷帝学園中等部3年の忍足侑士だった。
「なんや、迷子か?」
彼は掃く手を止めてこちらに歩み寄る。
「え、と、私は今日からここに...」
「ああ、なんや大石がお使い頼まれてたなあ。俺は氷帝学園3年の忍足侑士や、よろしゅう」
眼鏡の奥で目を細める彼に「みなさんの合宿のお手伝いでお世話になります、苗字名前です」とお辞儀をする。
私が向こうを掃除している間にこちらもほぼ終わったらしく、「ありがとうございました、あとは私が片付けておきます!」と忍足の手から箒を取りまた一礼して、掃除用具入れに走った。
彼はびっくりしたような顔を一瞬したが、走る私の背中に「おおきに。ほな、おやすみ」という声が投げかけられた。
忍足侑士が私の目を見て、話してくれた。
風に靡く少し長い髪の毛が綺麗で、あれ以上あの場にいたら心臓がもたなかった。
目を瞑ると忍足の姿と声が脳裏に蘇る。
その後自分の部屋に戻り就寝の準備をしつつ余韻に浸っていたが、明日の朝も掃除をしなくてはいけないことを思い出し目覚まし時計をセットしてからすぐに眠りについた。