亡骸の黒い箱
もしここに、肌を包むような温かなものがあったとして、その離れがたいほどのやすらぎを得るために、胸を三十回刺され、抉られ、ずたぼろになるような痛みを感じなければならないとしたら、手に入れようとするだろうか?
もし「それでも手に入れたいなら耐える」と答えたなら、答えられたなら、きっと、私のように人間が最初に与えられるものが欠けることはなかったはずだ。
白い壁に囲われた厳かな一室。中央に据えられた長方形の台に自然と目が行く。
光沢のある茶色い花崗岩で縁取って凹んだ中には、乾ききった骨の残骸が並んでいた。
形状を保っている頭蓋骨だけが「俺は人だ」と、穿った両の目で取り囲む人間を見返している。あるいは「お前たちの成れの果てだ」と恨み言でも述べているのかも知れない。
この「人だったもの」は見ず知らずの私によくしてくれた。
住む場所も食事も生きてく上で必要な物も、真心も――
たぶん私が出会った中で一番、無為に自分の時間を消費した善良な人間だ。
吐き気がするほど眩しくて、会うのが怖くなってしまうほど優しい。稀有な人間で、貴重な人間で、奪うのではなく与える側の人間だ。
もっと長くいられたなら、欠けたものを取り戻すことができたかも知れない。少なくとも今よりはもっとちゃんと弔うことができたはずだ。
沈鬱な表情も、目頭を熱くすることも、悼む言葉もない。
あるのは「人が死んだ」と言う淡白な事実だけだった。
遠巻きにひそひそと聞こえてくる声が居心地悪くさせる。誰の目にも映されないのに、どこからともなく流れてくる不穏な空気が、嫌になるほど自分の存在を浮き彫りにした。
私だってここにいたくない。場違いだってわかってる。でも、だって、そう言うものだから。終わるまではここにいないといけない。
あと少し、あと少し――
義務的に留まり、我慢して時間を浪費することが、近くにいた人間の死を前にして行うことじゃないことぐらい気づいてる。
でも、だからって、どうすればいい?
――……
からりと晴れた昼下がり、誰とも知れない煙がのびのびと空へと向かっていた。
終わってしまった。
ただ流されていくように過ごしていた日々が、なまぬるい居場所が消えていく。
どうでもよかった。なんでもよかった。ずっとそうだと思っていたから。
急き立てるように後ろから黒い塊が散らばりながら近づいてくる。
早く、帰りたい。
*
「持ち主に会って来て欲しい」
家主を失った部屋の一室。
色褪せた畳の上に捨て置かれた直径三センチの黒い立方体の箱が、薄れかけていた記憶を引っ張り出す。
「返して来いってことですか?」
「返すかは任せる。会ってから考えてくれればいい」
「じゃあ、壊れたから返さないことにします」
すーっとテーブルをすべる細い手が、テーブルの縁に差しかかったのを見計らって、
「謝りに行ってもらうけどな」と彼が単調に返した。
ぐっと思いとどまった手の下にあるつるつるとした感触に声音が落ちる。「住所を聞いても?」
「知ってると思うか?」
本人は至って真面目な顔をしているつもりだし、実際そうなのかもしれないが、ほんの少しだけ上がった口角が――もともとそういう形だけど――おちょくっているようにも見えて、名無は箱を彼の方へ押しやった。
「部屋に戻ります」
「“呪われている”としてもか?」
つい止まってしまった名無に、彼は真剣な表情を崩さず続けた。
「お前は確かに執着心がない。物にも人に対してもすぐ見切りをつける。だが、それはなにも本当に欲しくないわけではないだろう」
「いいえ」
「単純に手に入らないことを諦めているだけだ」
「いいえ」
「諦め癖ってやつだな。無意識のうちに手に入らないイコールいらないに変換されてる」
「い、い、え」
「そんなお前にとってそれは、無意識を意識下に浮上させてくれる優れものだ」
「あなたの耳はとても風通しがよさそうですね」
「一度受け取った時点で体を蝕まれてしまう恐怖の箱だが、ちゃんと返せば呪いは解ける。よかったな」
安心を誘うように穏やかに笑う彼を、名無は冷ややかに見返した。
「あなたも呪われてますけど?」