い、言えて良かったです…!

私の後ろの席に案内された女の子、浅野優良さんは理事長先生の娘さんで、凄く優秀で、普通に過ごしていたらきっと関わることのない女の子。
そんな浅野さんとお話したのはついさっきが初めて…じゃなくて、少し前に一度だけ。


(…お話したなんて大層なものではないけれど)


人付き合いが苦手で、特別仲の良かった子がいなかった私は一人でいることが多かった。
それでも声をかけてくれる子はいたけれど、それも私がE組行きと決まったことによりいなくなってしまった。
その代わり、ひそひそと話す悪口ばかりが耳に入るようになった。
それが嫌で、休み時間の度に教室を出ては誰もいない場所で化学の本を読んでいた。

浅野さんと出会ったのはE組行きを言い渡されてから数日後のこと。
いつものように一人になれる場所に向かおうと廊下を歩いていた時だった。


「…あっ。……あの…!」

「…え?」


「落としましたよ…?」そう言って浅野さんに差し出されたのは、私が大切にしている手帳だった。


(き、気づかなかった…)


確かに、どこを確認してもその手帳は見当たらなかった。
間違いなく私の物だと分かり、それを受け取る。

大切な手帳…と言っても中身は沢山の化学式が書かれているだけ。
他の人からしてみれば、大したものではないかもしれないけれど、私にとってはどんなものよりも大切なものだったから。

拾ってもらえたことが嬉しかった。
そして、声をかけてもらえたことが嬉しかった。
私がE組行きに決まってから、話しかけてくれる人がいなかったから。


(お、お礼を言わなきゃ…)


そう思ったけれど、言葉が出てこなくて、ぺこりと頭を下げて逃げるようにその場を去ってしまった。

その後、何度かお礼を言おうと試みたものの、浅野さんが一人でいることは珍しく、声をかける勇気もなかった私は、何も言えずにE組に来てしまった。

隔離校舎のE組では、浅野さんに声をかけるどころか会うこともできない。
少しだけ後悔した。
この教室に来て、言葉で伝える大切さを知ってからは余計に。

そんな時、浅野さんはこの教室にやって来た。
何故浅野さんがE組へ来たのかは分からないけれど、今なら私でも声をかけられる気がした。
緊張した面持ちで前に立つ浅野さんが案内されたのは私の後ろの席。
今なら…今なら…。


「あ、あの…!奥田愛美って言います!」


い、言えた…!
浅野さんは少しだけ驚いた表情をしたあと「こちらこそ、よろしくお願いしますね」と嬉しそうに返してくれた。
頑張って声をかけて良かったと思った。

お礼は、今はまだ…勇気が出なかった。
きっと、浅野さんは覚えていないと思うから。
そう思って、話題を今日の授業に関してのものに変えたものの、少しお話したところで授業が始まってしまった。

数学の授業を受けながら、どのタイミングでお礼を言おうか考える。
カルマ君と楽しそうにお話する浅野さんの様子を見て、気軽にお話できるカルマ君が少しだけ羨ましく思えた。
そんなことを考えていると、あっという間に数学の授業が終わってしまった。

…全然集中できなかった。
これでは小テストの成績はあまりよくないかもしれない。
小さく息を吐いていると、とんとんと背中をたたかれた気がした。
…気のせい?
あまりにも軽くたたかれたものだから気のせいかと思っていたら、今度は名前を呼ばれた。


「あ、あの…奥田さん」

「…!!は、はい…!」


なんでしょうか…!?と振り向きながら返せば、浅野さんは少し吃驚していた。
…ま、またやってしまった。
そんなことを思っていると、浅野さんは少しだけ躊躇ったあと、小さな声で「愛美ちゃんと呼んでも良いでしょうか…?」と控えめに尋ねてきた。

そ、それは、名前で呼んでも良いかということですよね…?
さっきの授業中のカルマ君と浅野さんのやり取りを思い出して、凄く嬉しくなった。
「はい…!」と頷けば、浅野さんは嬉しそうに笑ってくれた。
ついでに「私も、優良ちゃんとお呼びしてもいいですか?」と尋ねればさっきより更に嬉しそうに笑って頷いてくれた。

もう一度、よろしくお願いしますねとお互いに言えば、笑顔が零れる。
…今なら、言える気がする。


「あの…あの時は、その…ありがとうございました」

「…?」


不思議そうな顔をして首を傾げた優良ちゃんに、やはり覚えていないかと少し寂しく思う。
手帳を落とした時に拾ってくれたことを話せば、優良ちゃんは目をぱちくりしたあと、お礼なんて良いのにと少しだけ困った顔をした。


「いえ…!凄く、…凄く、大切な物だったので」


落とした手帳が大切な物であったのもそうだけど、それを拾ってくれたことが、話しかけてくれたことが、あの時の私にはとても大切な出来事だと思ってたから。


「…どういたしまして」


私の気持ちを察してくれたのか、優良ちゃんは少し照れた様子でそう返してくれた。

い、言えて良かったです…!



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