素直になれないわたしたち

厨房へ入ると、そこには既に東条さんが立っていた。コンロに置かれた寸胴鍋と、手元の具材を見る限り朝食の準備をしているのだろう。空腹をうながす、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。

「おはようございます」
「あら、おはよう。早いのね」

声を掛ければ、東条さんはたおやかに微笑んだ。そのまっすぐに伸びた背筋と、洗練された動作、上品な仕草のひとつひとつを見ればどこかの貴族令嬢だと言われてもきっと、誰も疑わないだろう。「優美」という言葉はまさに東条さんのためにあるんだろうなと、なんとも気の抜けたことを思いながら純白のエプロンをゆるりとはためかせて歩み寄って来る彼女に視線を合わせる。

「なにか手伝えることありますか?」
「それより具合はどうかしら?」

にっこりと、完璧な微笑を浮かべる東条さんにわたしはつい押し黙った。具合、というのはお腹のことだろう。「えっと、」じりじりと焦げるような無言の圧に思わず背筋がぴんと伸びる。

「おかげさまで。痣も、薄くなりましたし、もうほとんど痛みもありません」
「そう⋯。それなら、良かったわ」

東条さんは優雅に頬に手を添えるとほうっとちいさく息をついた。心配してくれている彼女に申し訳なく思いながらも、わたしはゆるゆると肩の力を抜いていく。これ以上彼女の手を借りるのは忍びないし、なにより東条さんの処置はお手本のように完璧ではあるが、まるでちいさなお転婆娘のように扱われるのでそれがすこし恥ずかしかった。
「けど、」ついで、頭上に降った柔らかな声にわたしは顔を持ち上げて、そしてすぐに後悔した。

「朝食を食べ終えたら、もう一度傷の具合を見せてちょうだいね」

前世ではほとんどの時間を、自室か研究室で過ごしていたわたしは彼女や他のみんなと関わることがあまり無かった。だから、彼女が今までどんな仕事をしてきたのかもよく知らないし、こうして改めて彼女の優秀さを目の当たりにしては驚かされるばかりである。つまり、つまりだ。わたしは完全に侮っていたのだ。超高校級のメイドである彼女の完遂っぷりを。

「わかりました⋯」

視界に落ちる、有無を言わさない微笑みにわたしはぎこちなく首肯するしかなかった。





「すぐに仕上がるから、座って待っていてくれるかしら」そう、やんわりと言われてしまえば大人しく引き下がるしかなかった。つまり、体良く追い出されたのだ。手伝うと食い下がっても彼女は頷かないだろうし、もうほとんど彼女のテリトリーと化してしまった厨房に居座っていても邪魔になるだけだろうと、わたしはラベンダーティーを手に端の席に腰掛ける。
今のところ、食堂に誰かが来る気配はなかった。モノクマが破壊された。だからみんな、このコロシアイ生活も終わりだろうと安心して寝過ごしているのかもしれない。隠し扉を見付けた最原くんや赤松さん、その存在を知っている天海くんなんかは確実に訝しんでいるだろうが、それをわざわざ口にしない当たり、このまま何事もなく帰還できたらいいと、彼らもそう望んでいることに違いはないはずで。

ゆらりと、カップの表面が躍る。華やかな香りが肺を満たしているのに、気分はちっとも晴れそうにない。この先、どう行動するのが正解だろうか。彼らの未来を繋ぎ止めるためにはどうしたらいいのだろう。最善なのは、白銀さんが首謀者だと突き付けることだろうが証拠がなければきっと流されてしまうだろうし、彼女を殺してもそれで終わりという確証がない。それに、なによりまず真っ先に考えないといけないのは天海くんの安全と赤松さんの奇行を止めることである。期限は、二日後の夜時間。赤松さんの行動を止めつつそれまでに彼女の行動を観察して証拠を見付けるか、もしくはあの地下道の先にほんとうに出口があると仮定してひとりででも飛び込んでみるか。

黄金色の水面に、くっきりとした隈をこさえた、蒼白いぶさいくな顔がゆらゆらと浮かんでいる。一昨日の夜からずっと記憶を掘り起こしては考える、の繰り返しで、どうやら自分が思っている以上にわたしは相当まいっているみたいだ。

「おっはよー、みょうじちゃん!」

不意に、陽気な声が鼓膜をついた。突然視界を遮った、ぴょこんと跳ねる紫色の毛先にわたしは大きく飛び上がる。ひぃ。ガタリッ、と机が左右に揺れた。その拍子に、カップの縁から溢れた雫がぴちゃんと机にシミを落とす。「うぅ⋯っ」変なところに力を入れてしまったのか、腹部を駆けた痛みにわたしは前屈みに身体を折った。頭上から「あらら。」となんとも気のない声がする。
ほんとうに、まったく気づかなかった。気配なく現れた王馬くんは痛みに呻くわたしよりもカップの中身のほうが気になるようで「なに飲んでんの?」華奢な指でカップを摘む。

「⋯ラベンダーティーです」
「へぇー。超高校級のハーバリストって嘘じゃなかったんだ」
「そんなすぐにバレるような嘘、付きませんよ」

そう呆れたように言いながら、ようやく収まった痛みにゆっくりと上体を起こして居住まいを正す。王馬くんはこちらをまったく気にした様子もなく、くるりと液体を手首で回した。

「ふーん。⋯たしか、牛乳だっけ?」
「え?」

その何気なく飛び出した単語に、わたしはついポカンと彼を見上げた。彼は自分が放った言葉になんの興味もないようにカップの縁に鼻を近づけてすんすんと匂いを嗅いでいる。牛乳。その単語に思い当たることはあった。それもつい、昨日のことだ。いや、そんな、まさか。顔色を変えたわたしに、王馬くんの目尻がゆるりと下がる。

「みょうじちゃんもなかなか言うよねー!蚊も殺せないような大人しそうな顔してるくせにさ、モノクマを庇って百田ちゃんのパンチは受けるし、あとは⋯そうそう!赤松ちゃんと百田ちゃんとついでにオレには牛乳がいいんだっけ?超高校級のハーバリストっていうからどんな効能のある薬草をおすすめしてくれるんだろ〜ってワクワクしてたのに、ほんっと期待はずれで笑っちゃったね!笑いすぎて逆に呆れちゃったよね!!」

滝のように降ってくる言葉の羅列に、わたしは一瞬で青ざめた。口を挟む隙間もない。そっと周りを窺えば、いつの間にか食堂には全員が揃っていてわたしと王馬くんの珍しい組み合わせを不思議そうに眺めている。

「ち、違います」
「違うって、なにが?」

切り捨てるような言い方にわたしはむぐりと口を噛んだ。笑っているのに、瞳はすこしも笑っていない。

「最原ちゃんなんてみょうじちゃんの殺気にビビって腰抜かして使いもんにならなくなったんだからさぁー」
「ヒィー!テメェー童貞のくせにとうとう使えなくなっちまったのかよダサイ原!!」
「入間さんはちょっと黙っててほしいっす」
「オ、オレ様をそんな眼で見るんじゃねーよぉ⋯そんな眼で見られたら⋯はぁん⋯っ」
「⋯お主が喋るとややこしくなるのぅ⋯」

天海くんの鋭い眼差しに入間さんの下品な笑い声がピタリと止まった。ぎこちなく最原くんを窺えば、視線が合う前にさっと顔を逸らされる。彼を傷付けた、そしてそれを王馬くんに見られてしまっていた。その上で、きっと彼はわたしを怪しんでいるのだ。この彼らしかぬ無益な跳弾は、わたしの反応を伺っているのだろう。たしかに、初対面ですがりついたわたしを知っている王馬くんからすれば今のわたしは別人に映るのかもしれない。
王馬くんに視線を戻せば彼も入間さんたちに視線を向けていたようで、見られていることに気づくとうっそりと艶やかに瞳を細めた。しかし、そう認識したのは一瞬で、ぱちりと、ひとつ瞬いたうちに彼の表情は満面の笑みへと早変わる。

「⋯なーんてね!最原ちゃんのことなんてどうだっていいんだよ!カップ相手に話しかけてたみょうじちゃんが惨めで可哀想だったから話しかけてあげただけなのに!そんなに睨まなくてもいいじゃん!」
「⋯睨んでないです」
「みょうじさんそんなに寂しかったの?!ごめんね、ゴン太、気づかなくて!」
「彼の嘘なので、気にしないでください」

いつもの彼の調子に、一瞬で空気がくだける。不安気な様子で、心配そうな表情で、遠巻きにみていたみんながほうっと息をつきながらようやく席についた。王馬くんはそのまま、わたしの隣に腰を落ち着ける。その手には、いまだカップが握られたままだ。揺れる薄い黄金色の液体にわたしはつい唇を開く。

「あの、」
「ねぇ、これにはどんな効能があるの?」

返してほしいと、そう伝える前に王馬くんから声が掛かった。まるで先程のことが嘘だったように、世間話のような口調と険悪の色もなにもないアメシストのおおきな瞳にわたしは一瞬惚けて、それからゆっくりと口を動かす。

「⋯ラベンダーティーは別名「ハーブの女王」と呼ばれていて、その華やかな香りの強さとリラックス効果が非常に高いのが特徴的なハーブです。ラベンダーの香りには神経を落ち着かせる作用があるので、緊張や不安、ストレスなどを緩和する効果があります。ちょっと香りが強すぎるので、これは似た効果のあるカモミールとブレンドしてますが。あとは、ストレス性の頭痛や胃腸の改善にも有効ですね」
「たはーっ!さっすが詳しいね!」
「まあ⋯一応、超高校級、ですから」
「あれっ?もしかしてさっきの気にしてる?冗談だって!別に、疑ってないよ」

嘘つき。ちゃんと、しっかり、満遍なく、疑っているくせに。彼は、そういう人だ。わたしだけじゃなく、みんなを平等に疑っているのだろう。
「もう充分でしょ。いい加減返してください」にししっと楽しそうに笑う彼にあからさまに息を吐いて、わたしはカップに指を伸ばす。
もうすっかり冷めきっているだろうな、と。そう思いながら伸ばした指は、けれど、カップの縁に手が伸びる前に王馬くんによって遠ざけられ、そして、あろうことか彼はそのままぐいっと一気にカップを呷ったのだ。

ごくり。と喉仏が上下に動く。その一連の動作をわたしは唖然と見送るしかなかった。えっ?と、遅れて疑問がこぼれる。

「ぷはーっ!まあ、味は悪くはないね!」

ぺろりと上唇を舐めた王馬くんは、ごちそうさま。悪びれなくそう言って空になったカップをわたしに寄越す。中を見れば、一滴も残っていなかった。

「え、全部、飲んだんですか?」
「あれ?駄目だった?なんだよ!また入れ直したらいいだけじゃん!みょうじちゃんのケチ!」
「いえ、それはぜんぜんいいんですけど⋯」

ケチ。その一言にちょっぴりへこみそうになりながらも、わたしはどこか拍子抜けした気分だった。いつも特定の炭酸飲料を好んで飲む彼が、甘味があるとはいえミルクも入れていないこれを飲みきるなんて、嫌がらせにしろ、あまりの天邪鬼っぷりに呆れを通していっそ感心してしまう。
「けど?」とはいえ、もちろん、彼の嗜好を知っているなんて伝えられるわけが無いので、わたしはカップを両手に抱えて腰を上げた。

「よかったら、おかわり、持ってきましょうか?」

質問には触れず、あえてそう言ったわたしに王馬くんは一瞬つまらなさそうな顔をした。かと思えば、いつもの飄々とした笑みに戻る。特になにも言わず、口角だけを持ち上げる王馬くんはただじっとわたしを見上げているだけで、それをいらないと捉えるべきなのか、いると捉えるべきなのか、それともまだそれを飲ませるつもり?と呆れられているのか、わたしにはすこしも判断がつかない。おおきなアメシストの瞳に、困惑したわたしの顔がうつっている。

どのくらい、そうしていたのか。不意に、王馬くんの表情が歪んだ。目を見開き、呼吸を荒らげ、そして、苦しそうに胸を抑える。「うっ⋯!」と、小さく上げた呻きを、わたしはどこか遠いところで聴いていた。「お、うまさん?」椅子から、崩れ落ちそうになる王馬くんにわたしの目がじわじわと見開かれていく。

「お、王馬さんっ!!!」

カツンッ、とカップが床に落ちた音がした。ずり落ちそうになる王馬くんの身体に腕を伸ばし、抱きとめる。吠えるようなわたしの奇声に、談笑していた声が止み、一瞬にして注目を浴びたのがわかった。朝食を運んでいた東条さんが、慌てた様子で駆け寄ってくる姿を視界の端に捉える。

「王馬さん!王馬さん!!」

わたしの様子に只事では無さそうだと席を立つ音があちらこちらから聴こえだす。その間もわたしは必死に彼を呼びつづけた。白い肌を更に白皙とさせ、苦しげに眉を寄せる彼のじっとりと湿った肩を抱き支える。指が、震えた。いや、身体全体が小刻みに震えていたのかもしれない。記憶の中の彼と、目の前の彼が重なって足元が暗くなる。

「どうしたの?!」
「と、東条さん⋯!王馬くんが、王馬くんが⋯!!」
「みょうじさん、すこし落ち着いてちょうだい。詳細が分からなければ対処のしようもないわ」

東条さんがわたしの肩に触れる。落ち着いた、けれどたしかな焦燥の滲む東条さんの声を聴いても、それでも冷静になることなんてできなかった。突然、どうして?まさか、毒だろうか。いや、これは東条さんになんとか許しを得てわたし自身の手で入れたのだ。飲もうと思っていたものに毒なんて入れない。なら、ラベンダーの副作用だろうか。けれど、比較的育てやすいラベンダーに王馬くんが苦しむほどの副作用はないはずで。

ぐるぐると可能性を考え込んでいたわたしの身体から、不意に重みが消えた。自然と思考は飛散し、ハッと弾けたように顔を上げる。「おうま、くん⋯?」そこにあったのは、おおきな瞳をしならせてけろりとした表情で笑ういつもの王馬小吉の姿だった。

「なーんて⋯って。あっちゃー⋯ちょっとやりすぎた?」

後頭部で腕を組みながら、王馬小吉は悪びれない態度でそう宣う。

「王馬くん、貴方、身体はなんともないの?」
「ぜーんぜん!むしろみょうじちゃんのナントカティー飲んですっきりした⋯って言うのはまあ嘘だけど、お腹空きすぎて胃が痛いなって抑えてただけなのにさ!みょうじちゃんが大袈裟なんだよ!」

会話が、まるで頭に入ってこない。平然とした態度で笑い、怒る、彼の姿にわたしは徐々にさっきのあれは彼の演技だったことを理解していく。

「みょうじさん!怒っていいんだよ!いくらなんでもやりすぎだよ!」
「そうです!!どうせ倒れた振りをしてみょうじさんの身体を堪能しようとしただけです!!」
「たはーっ!オレもまさかここまで心配されるなんて思わなかったよね!!もしかしてみょうじちゃんってさ、オレのこと──」

その後の言葉はなんとなくわかった。口元に指を当てて、顔を覗き込んできた王馬くんの言葉が不自然に止まる。ぼやけた視界に、彼の驚いた表情がみえた気がした。
怒る?生きていた彼に、なにを怒ればいいのだろう。珍しい悪意のある悪戯は、きっとわたしがそうさせてしまったのだ。わたしが別人のようだから。王馬くんのように上手く取り繕えないから。だから、彼はわたしの本性を確かめるためにあえてこういう行動をとったのだ。

「もー!茶柱ちゃんがナマハゲみたいな怖い顔してるからみょうじちゃんが怖がってんじゃん!」
「て、転子のせいですか?!」

突然ふわり、と頭になにかを被せられる。閉ざされた視界と、鼻腔を掠めた王馬くんの匂いにそれが王馬くんが被っていた帽子だとわたしは一瞬で理解した。「いーからほら、散った散った!」近くで響く王馬くんの声と、納得のいかないように離れていく足音を耳にわたしはただぼろぼろと洪水のような涙をこぼす。止めてほしいならこの帽子は逆効果だと、なにも知らない彼はひっそりと誰にも届かないような声量で不意にぽつりと呟いた。

「さすがに、ちょっとやりすぎた」

ぴくりと動いた肩に、ちゃんと届いたことを知ったのだろう。ちらりと目線を上げればちょっとだけ困ったような、片眉を垂れた彼の横目とかち合ってどくりと心臓が脈を打つ。わたしが悪いのだから、彼がそんな表情をする必要はないのに。

──怒っていいんだよ!

ふと、赤松さんの言葉が脳裏を過ぎる。怒れる訳がない。彼を責められる訳がないのに、それでも彼の生存を望むなら彼と親しくなるわけにはいかないことを心のどこかではちゃんと理解していて。

「もう、二度と。こういう悪戯はやめてください。⋯心臓に、悪いです」

そう言うのが精一杯だった。キッとできるだけ鋭く睨んだわたしに、彼は、いたずらっ子のような笑みを浮かべて飄々と言うのだ。

「さあね。約束はできないよ。だってオレは嘘つきだからねっ!」

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