天海くんのない記憶

モノクマが生きていた。いや、この場合、スペアがあったと言ったほうが正しいだろう。モノクマーズたちの代替品はないようだが、媒体である彼が壊れてはい、おしまい。なんて四コマ漫画のようなあっさりとした結末は、誰もが深く期待してはいなかったと思う。実際、食堂に湧いたモノクマに対して東条さんは「予想はしていた」と言っていたし、驚いていたのもごく少数。それでも、きっと、誰もがこの平凡でつまらない筋書き望んでいたには違いなかった。誰一人欠けることなく、手を汚すことなく、疑うことなく。潔白のまま、罪を知らない子供のまま、友達と笑って卒業できると、そんな淡い希望を抱いていた───かつてのわたしのように。

けれど、現実はもっと残酷だった。モノクマーズたちによる嗚咽交じりの歓迎を艶やかなボディで受けながら復活したモノクマが提示したのは"執行の期限"であり、つまりは残された生命の期日であった。誰かを犠牲にして生き残るか、それとも全員で潔く死ぬか。どこまでもコロシアイを能動するモノクマに、緩やかで穏やな日常が泡沫となったのは笑えるくらい一瞬のことだった。

そんな陰惨とした空気の中、真っ先に行動を起こしたのは赤松さんと最原くんだった。元々、黒幕の存在を肯定していた最原くんと正義感のつよい赤松さんは本格的に黒幕を暴きだそうと考えているようで、新たな動機を言い渡されてからはずっと連れ立って行動している姿が目に付いた。そんな図書室と倉庫とを往復する彼らにわたしはといえば、モノクマの脅しという名の忠告を受けただけであっさりと一日目を無駄にしてしまっていた。

そもそも、みょうじなまえの記憶はひどく朧気であった。それは靄の中に手を突っ込むような不明瞭で不確かで、キーワードが揃ったときにようやっと水面へ浮かび上がるような、頼りないもの。コミュニケーションは疎か、次々と人が減ってからは特に、殻に閉じもっていたわたしは大まかな筋書きを箇条書きに起こすことは出来ても、個々の行動や会話までを把握しているわけではないのだ。王馬くんの行動なんて特に雲を掴むようなもので、だから、彼と出会えたことはわたしにとってまさに幸運だった。


「おっ、と。すいません、大丈夫っすか?」

あちらこちらに毛先の跳ねた淡緑の髪の毛と、耳殼を埋める大量のピアス。突然、曲がり角から現れたわたしに彼は一瞬目を見開くと、すぐに目許を和らげた。天海、さん。その柔らかな微笑をぱっかりと間抜けに開いた口腔で受けとめ、唖然と見上げるわたしに彼は、不思議そうに目を瞬くと困ったように頬をかいた。

「あー⋯なんか、あったんっすか?⋯いや、こんな状況で、こんなこと聞くのもおかしいっすけど」

彼が半歩、距離を詰めた。ははっ、と苦笑まじりの軽口はきっと、場の空気を重くしないためだろう。驚いた。それは当然、ばったり出くわしたことでもあったが、なによりもその気安さからだった。天海蘭太郎という男は、こんなにも気さくな人だっただろうか。

「あ、すいません。⋯ただ、誰とも会わなかったので、すこし驚いただけです」

拾い上げた記憶を振り払うように、わたしはやんわりと彼から視線を引き剥がした。当然、探していました。そう言えるはずもなく、首を振ったわたしに、彼は口端に笑みを象ったまま「無理ないっす」ちょっぴり疲れたように息を吐いた。

「あの動機が追加されてから、みんな、誰とも会わないように過ごしてるみたいっすから。タイムリミットも近いんで尚更、慎重になってるんすよ」

彼は、力無く笑った。無理もない、仕方ない。そう言って、垂れ下げた甘い目尻をしっかりと見上げてひとつ頷く。

「当然です。誰だって死にたくはないでしょうから」

天海くんの言う通り、時間は刻々と迫っていた。あと数時間後には、こうして彼と話すことも、全員揃って卒業することも叶わないかもしれない。「みょうじさんも?」だから、閉じ篭るのも当然だと薄く笑って返したわたしにするりと投げられた言葉は、わたしをいたく瞠目させた。

「⋯そうですね。できればまだ、死にたくはないですが、皆さんと死ねるのなら怖くはないでしょうね」

依然と、人の良さそうな笑みを浮かべる彼の表情からはなにも汲み取れない。そんなに、死にたそうな表情をしているだろうか、それとも死にたくないと頑なに見えているんだろうか。事実、もしわたしの身体ひとつで終わるのであればわたしは喜んで死を選ぶだろう。けれど、わたしひとり死んだところでどうにもならないのだ。かえってモノクマを喜ばすだけならば、意地でも死んではやらないし誰も死なせてはやらない、と、そう思う。あんな死んでいるような絶望は、もう二度と懲り懲りだった。

「⋯みょうじさんって⋯いや、」

にっこり、と。あえて、どちらとも取れる様な言い方で返したわたしに彼はきょとりとした後、それからくつくつと喉を震わせて笑った。突然、笑いだした天海くんに今度はわたしがきょとりと瞬く。みょうじさんって⋯?かくりと小首を傾げたわたしに、彼は口許を抑えたまま、鼻先に手のひらを翳してみせた。落ち着くまで待って欲しい、ということだろう。

あー⋯すいません。暫くして、顔を上げた天海くんは、ずいぶんと晴れやかな表情をしていた。憑き物が落ちた、というよりもこちらの方が彼の自然な姿なのだろう。比べるほどの情報がある訳では無いが、先程の薄っぺらい貼り付けた笑みよりは取っ付きやすそう、とは思う。気にしてません、という代わりにわたしはひとつ首を振った。

「あー⋯違うんす。いや、笑ったこともそうなんすけど、それだけじゃなくて──」

言い淀んで、それから彼は困ったように微笑んだ。すうっと深く息を吸った、彼の息遣いが、聴こえたような気がする。

「──正直、俺、みょうじさんのこと警戒してたっす」

なるほど、とわたしは思った。つまり、歩み寄るように見せて、彼なりにわたしを探っていたのだろう。いつ、誰に殺意を向けられるかわからない状況で警戒するのは当然であるのに、どうやらわたしには慎重さが抜け落ちていたようだ。

「けど、まだ完全に信用したわけでもないっす。もちろん、みょうじさんだけじゃないっすけど」
「わかってます。当然です。でも、なんでそれをわたしに?」
「まあ、腹の探り合いって、結構めんどうっすからね。それに、怒ったように見えたから⋯って言ったら理由になるっすか?」

ちょっとだけ砕けた、悪戯っぽい笑みにわたしはぱちりと瞬いた。怒ったように、とは先程の問いに対するものだろうか。天海くんに対してそんな感情は一切なかったが、少なからずそう見えたのならば今後一層、気を配らなきゃいけない。思わず頬を抑えたわたしに、天海くんがははっ、と軽やかに笑った。

「雰囲気が、ってだけっすから。表情にはまったく出てないっす。まあ、それでも王馬くんに比べたらわかりやすいっすけど」
「王馬さん?」

なぜここで彼の名前が。怪訝に眉を顰めたわたしに、彼はしまった、とでも言うように罰が悪そうに視線を逸らした。言うつもりはなかったのか、彼は数秒、音にならない声を喉の奥で転がせて、それから申し訳なさそうに眉を垂れる。

「あー⋯すいません。人と比べられていい気分はしないっすよね⋯」
「いえ、それは別に⋯」
「実はさっき、中庭で王馬くんを見かけたんっすよ。食堂であんなこと言ってたわりに、ゴン太くんの背中に乗って、⋯楽しそうにしてたんで」

あんなこと、とは。昨朝の食堂での騒動のことを指しているのだろう。確かに彼は言っていた。モノクマが現れ、動機を提示し、まだ終わってはいなかったのかと動揺するみんなに、何をしてでも絶対に生き延びてみせると、そう宣言してみせたのだ。それなのにはしゃいでいるとあれば天海くんが苦虫を噛み潰した表情になるのも頷ける。きっと、失言してしまうくらい、それほどの衝撃を受けたのだ。

「⋯王馬くんは、笑っていましたか」

だというのに、わたしは思わず笑ってしまっていた。そぐわないと、そうちゃんと理解しているのに、意志とは反して口角が勝手に緩んでしまうのだから目元を、口許を、顔全体を手のひらで覆い隠してしまいたくなった。天海くんはそんなわたしを見て、驚いたように瞠目した後、あからさまに眉を歪めて苦々しく言い捨てた。

「そうっすね。必死になってるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいには」
「そうですか」
「⋯⋯⋯やっぱり、さっきの忘れて欲しいっす。才能を忘れた俺なんかには、逆立ちしたってわかりそうもないっすから」

それは王馬くんのことか、わたしのことか。天海くんは自嘲的にそう冷たく言い捨てると、これ以上話すことは無いとばかりに踵を返した。どうやら気分を害してしまったらしい。
ああ、失敗した。そう頭の端で思いながら、のろのろと天海くんを追いかける。彼は着いてくるわたしに気付きながらも、振り切ることはしなかった。それは、わたしの才能が取るに足らないものだからなのか単純にいざとなれば振り切れると思っているからなのかはわからない。結局、他人の頭の中なんてどう足掻いても理解し得ないものなのだ。それでも、今度こそ、どんなことがあっても、たったひとり、わたしだけは彼の味方でいたいと思う。

「⋯⋯うそつき」

どうせ遊んでなんていないくせに。これだけは逆立ちしたってわからない、わたしのちっぽけな恋心エゴなのだ。

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