
その笑顔で満ち足りてること、貴方は知らないでしょう?
キルアは、わずか2週間という短い期間で100階に到達してみせた。この頃には子供だからと油断する者もいなくなり、実力者として認知されるどころか6歳という年齢とその整った容姿にちょっとした有名人となっているようで、プレゼントだというお菓子を抱えて戻ってくる姿が度々みられるようになった。「キルア様、毒でも入っていたらどうするのですか」「オレ、大抵の毒効かねぇもん」「ですが、せめてこの私が毒味してから召し上がってくださいませ」そうナマエが懇願してからはキルアがお菓子を抱えて戻ってくることはなかったが、その代わり、ファイトマネーの大半がお菓子に浪費されていくこととなった。
150階に到達したのは天空競技場に来てからたった2ヶ月後のことだった。それまで順調に勝ち進んできたキルアだったが、150階以上はやはりそれなりの闘士が滞在しているようで苦戦を強いられることが多くなった。一進一退の状況に「ぜったい見に来いよ」から「ぜったい見に来んな」と言われるようになったので、ナマエはこっそりと観戦するしかできなくなった。
「だいたいポイント制ってさ、曖昧じゃね?結局は審判の評価だし。ぜったいオレのがダメージ喰らわせてたと思うんだよね」
キルアのこの日の対戦相手は2メートルを超える巨躯な男だった。まるで象と蟻のような体格差に、キルアの攻撃はなかなかクリーンヒットにならず惜しくも判定差で敗れてしまった。ナマエの目からみても、まともに攻撃が入りさえすればキルアがKOで勝てた試合だと思ったので、キルアにとっては尚更、納得のいかない結果となったのだろう。珍しく愚痴をこぼすキルアに相槌を打ちながら、真新しくできた打撲痕に丁寧に薬を塗っていく。ここ数日で、痛々しい生傷が絶えなくなってしまっていた。
「あと、ナマエもいちいち大袈裟すぎ。こんなのほっときゃ治るって」
「そう、かもしれませんが···なにかすこしでもキルア様のお役に立ちたいのです」
僅かな呆れの混じった声色だった。本人のいうように、ゾルディック家の特質がそうなのかキルアの体質なのかはわからないが、頑丈なキルアにとって多少の傷など数日もすればきれいさっぱり治ってしまうのはナマエも知っていることだった。それでも、痛くないわけがないし、なによりすこしでもキルアの為になにかしていたかった。
「ふーん、変なの。」キルアはそう言ったきりあとはなにも言わなかった。お風呂からあがったばかりのしっとりと濡れた銀髪から垂れた水滴が一筋、真っ白な背中に伝っていくのをナマエは静かに見詰めていた。備え付けのテレビではポップなアニメのキャラクターが戦っていて、キルアの視線はずっとそれに向いていた。
「あの、ご迷惑でしょうか?キルア様のご迷惑になるのなら」
「迷惑っつーか、あんまし意味無いと思うけど。まぁ、ナマエがしたいんだったら好きにすれば」
ナマエは、素っけなくそう言ったキルアの耳殻がほんのりと色付いているのに気がついて、ぱちぱちと瞼を瞬かせた。てっきり、キルアを怒らせてしまったのかと不安に思ったがどうやら、照れていただけのようだった。可愛らしいキルアの反応にナマエは胸の内がじんわりと暖かくなる感覚がした。はい、好きにします。くすくすと笑いながら言ったナマエにキルアが「笑うなよ!」と憤慨したが、すこしも怖くなかった。
「キルア様、なにか召し上がりたいものはございますか?」
救急箱を膝の上でパチンと閉じたナマエは、服を着終えたキルアに問いかけた。天空競技場に来てからというもの、ご飯のほとんどはインスタント食品で済ませており、それに加えてキルアは小腹が空いたらお菓子を食べているようで、彼の個室にはお菓子とカップ麺がダンボール箱に山積みに常備されている。
「なに?なんか作ってくれんの?」
口角を持ち上げたキルアの口調はからかいが混じっていた。ナマエがふんわりと笑って首肯すれば、キルアがぱちくりと瞠目した。
「え!マジ!?」
「はい。まじです」
ゾルディック家には優秀なコックが数名、従事している。 その為、料理に関して執事が関与することはなく、もちろん教えてもらうこともない。それを知っているキルアは冗談のつもりだったようだが、なかなか言い出せなかっただけでずっと考えていたことだった。
ミートスパゲッティ、エビチャーハン、オムライス───。突然、ぶつぶつと唱えはじめたキルアにナマエは目を瞬いた。まさか、これほど真剣に考えてくれるとは露ほども思っていなかった。
「あの、キルア様。ご存知の通り料理は不慣れでして、お屋敷のお食事のようにうまく作れるかは···」
「だから考えてんじゃん」
きっぱりと言ったキルアにナマエは慌てて口を噤んだ。ナマエでも作れそうな料理をキルアは厳選してくれていた。それが下手な料理を食べたくないだけじゃ無いことはさすがのナマエにも分かった。
顎に手を添えて熟考するキルアをナマエはそわそわと落ち着かない感覚で待った。キルアが難しい料理を選ぶことはないだろうが、キルアの口に入るものが万に一つも不味いものであってはならなかった。自分が言い出したことであるが、ナマエは重石を呑み込んだようなズンと重たいプレッシャーを胃に感覚していた。
暫くして、漸くキルアが顔を持ち上げた。まっすぐにナマエを射る蒼い瞳が蛍光灯の下できらきらと宝石みたいに光っている。キルアのふっくらとした唇が開かれるのをナマエは固唾を呑んで、じっと待った。
「ハンバーグ!」
「ハンバーグ、ですか?」
声を弾ませたキルアにナマエは思わずきょとりとした。近くの繁華街にもハンバーグを専門とした飲食店があるからだ。初心者のナマエが作るよりも遥かに美味しい物が外で食べられるのに、本当にいいのだろうか。小首を傾げて見つめるナマエにキルアが猫のようににんまりと笑った。
「すっげー悩んだんだぜ?でもやっぱ肉だよな肉!多少不味くても食えるし!」
それならやっぱり外食にしたほうがいいのでは、と口を開こうとしたナマエの鼻先にビシッと人差し指が向けられて、ぱちくりと瞠目したナマエはゆっくり言葉を呑み込んだ。
「それと、明日はオムライスな」
「は、はい」
「オレ、腹下さないし生でもイけるけど不味かったら食わねーから」
「はい、頑張ります」
「あと、ぜってーピーマン入れるなよ!」
「はい」
突如、キルアが口早に連ねはじめた。キルアの指先越しに蒼い瞳をナマエは暫くポカンと見つめていた。もしかして、ナマエの料理を楽しみにしてくれているのだろうか。
「それから···って、なに笑ってんだよっ」
途中からくすくすと肩を震わせて笑っていたナマエは、キルアにむんずと頬を摘まれて笑いを引っ込めた。ぐいっと伸ばされる両頬に生理的な涙がうっすらと滲む。「ひえ、ふみまへん」咄嗟にでた言葉は形にならない舌っ足らずな音だったが、キルアにちゃんと伝わったようだった。パチンと手を離されて、ナマエは頬を包むように両手で抑えた。加減はされていただろうが、柔らかな部位を摘まれればジンジンとする。
「ったく!いいか?ちゃんと食べれるもんにしろよ!」
「はい、美味しいと言って頂けるように頑張りますね」
ぶすぶすとナマエの額を人差し指で突いて念押しするキルアに、にっこりと笑って胸の前で拳を握った。