オリバンダーの杖 1/
シンシアとハリーは、ハグリッドの背中にピッタリと寄り添って歩きながら指先まで垂れてきたアイスを暫くは無言で食べ進めた。ハグリッドの目立つ巨躯のおかげで人の波が勝手に割けていくので、肩と肩がぶつかる事も、不躾な視線を投げられる事もない快適な道程だ。「あそこで羊皮紙と羽根ペンを買おう」
シンシアが最後のひとくちを胃に落とし込んだのを見計らって、ハグリッドが言った。とっくに食べ終えていたハリーの瞳が途端にキラリと輝いた。「早く行こう!」そわそわと身体を揺らすハリーがシンシアの腕を掴んだ。「そんなに急がなくてもお店は逃げないわよ!」ぐいぐいと歩く速度を上げたハリーに引き摺られ、シンシアは堪らず悲鳴をあげる。しかし、ハリーはシンシアの腕を決して離そうとはしなかった。
「お店はね!」──シンシアは居なくなるかもしれないじゃないか。ハリーがそう思っているとも露知らず、シンシアは小首を傾げながらもハリーの背後について行った。
インクの匂いと、古ぼけた用紙の匂いが充満するこじんまりとしたお店でハリーとシンシアは羊皮紙と羽根ペンを購入した。色が変わるペンや自動で筆記してくれるペン、羽根が黒いペン等、様々な羽根ペンが並ぶ棚にハリーの目は釘付けだった。特に目を引いたのはカリカリと勝手に動く羽根ペンだった。棚の前でじっと立ち尽くすハリーを今度はシンシアが引き摺ることとなった。
店の前で待っていたハグリッドと合流して、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に向かった。「ねぇ、クィディッチってなに?」ショーウィンドウに飾られている箒の前の人集りを通り過ぎた時、思い出した様にハリーが聞いた。
「箒に跨ってやる、魔法界のスポーツよ」
ちらりと後方の人集りを一瞥したシンシアが、渋い顔で答えた。「なんと!お前さんが何も知らんということを忘れとった⋯!」その隣で、雷に打たれたかの様に目と口をぽっかりと開けたハグリッドに、「落ち込ませないでよ」とハリーは肩を竦めてみせる。
「マダム・マルキンの店で会った男の子に言われたんだ。マグルの子は一切、入学させるべきじゃないって」
「あの人、そんな事言ったの?!」
シンシアが目を見開きながら、ハリーを見た。その勢いに、ハリーは僅かにたじろいだ。
「ドラコの言うことなんか気にすることないわ。確かに、中には純血に固執している古い家系もあるけど、そういう偏見を持ってる魔法族は年々減ってきているし、今時、マグルから魔法使いがでるのは普通のことよ」
「ああそうだ。それにハリー、お前はマグルの家の子じゃない。言っただろう?お前も、お前さんの両親も有名な魔法使いだったって」
小鼻を膨らませたシンシアの言葉に、ハグリッドが大きく頷いた。「漏れ鍋での事を思い出してみろ。ん?」円な瞳が、柔らかくハリーに注いだ。顔も知らない人達から代わる代わる握手を求めれた事を思い出して、ハリーは傷跡に触れるように前髪を撫で付けた。「有名?」ハグリッドを仰ぎ見て、シンシアがかくりと首を傾げた。
「ハリーって、マグルじゃなかったの?」
シンシアの言葉に、ハグリッドがぴたりと立ち止まった。突然、足を止めたハグリッドに、ハリーとシンシアの足も自然と止まる。ハグリッドは、目をまん丸にしてシンシアを見ていた。
「僕もつい先日、魔法使いだって知ったばかりなんだ。ダーズリー⋯マグルの家で育ったんだけど、家の人がなんにも教えてくれなくて」
「そうだったのね」
シンシアは深く首肯した。ハリーの言動からてっきりマグル生まれだと思っていたが、そう言われてみればマグルのハリーに金庫があるのは不自然だ。本来、マグル生まれの子は、マグルの通貨を魔法界の通貨に両替するのが主流だが、両親が魔法族なら金庫があってもおかしくはない。
「──まさか──ハリーを知らんとは──」ハグリッドがあんぐりと口を大きく開き、放心したまま呟いた。魔法族の子なら、誰もが子守唄の代わりに語られるほど有名なハリー・ポッターの名を知らないなんて!
「本当に知らんのか?本当に?」唇を震わせてハグリッドが聞いた。連動するように、もじゃもじゃの髭が細かく振動している。シンシアは怪訝に片眉を上げた。
「ハリーってそんなに有名なの?」
「有名ってもんか!魔法界で知らんのはお前さんくらいだ!」
カッと大きく目を見開いて言い切ったハグリッドに、シンシアの視線は自然にハリーへと向いた。宝石を閉じ込めたような深いラピスラズリに見詰められ、ハリーは居心地悪く身体を縮めた。
「唯一、例のあの人を負かし、生き残ったのがハリーだ。──両親は死んじまったが⋯。みーんな、ハリーに感謝しとる。ハリーは魔法界の英雄だ。お前さんも、名前くらい聞いたことあるだろ?」
「例のあの人?」
「まさか、それも知らんのか!」
「名前を言ってくれないとわかんないじゃない!」
シンシアが噛み付けば、ハグリッドは背中に氷を入れられたかのようにぶるりと身震いした。ぎゅっと唇を窄め、それからゆっくりと開いた。
「──魔法界を暗黒に陥れた、名前を言ってはいけないあの人だ」
「暗黒に陥れた⋯ああ、ヴォルデモートね」
途端に、ハグリッドはピシャリと身体を硬直させた。「──その─名前を──言っちゃあいかん──」食い縛った歯の隙間から、唸るようにハグリッドが言った。「ごめんなさい」顔を蒼白に染めたハグリッドに、シンシアはすかさず謝った。
「でも、僕、なにも覚えてないんだ」
赤ん坊の頃だし⋯。それまでずっと身体を小さくして聞いていたハリーが、もごもごと口篭りながらシンシアの顔を窺うように言った。
「ふうん。でも、ハリーはハリーよ。そうでしょう?」
そう、大したことでは無いと、けろりとした口調で言い放ったシンシアにハグリッドはとうとう口を閉ざした。誰もが、ハグリッドですら、当然のようにハリーを豪華なフィルター越しに見ていたというのに、知らなかったとはいえ平然と言ってのけたシンシアにハグリッドは眼玉がこぼれ落ちそうなほど愕然としていた。ハリーも、穴が空くようにシンシアを見た。いくら有名だと持て囃されたって、記憶のないハリーは他人事のように、全くピンときていなかったのだ。やっと足が地に着いた、妙な心地だった。「なあに?」ふたつの不躾な双眼に、シンシアが首を傾けると揃ってぶんぶんと首を振った。
「そうだ。だが、ハリーの名前を聞くだけで目に涙を浮かべて喜ぶ奴がおるし、魔法界中が、ハリーの話を肴に酒を飲んどるのも事実だ。ハリーはそれを知っとかにゃならん」
神妙な顔付きで言ったハグリッドに、ハリーは漏れ鍋で会ったディーダラス・ディグルを思い出した。ハリーのエメラルドグリーンの瞳と稲妻型の傷跡を恍惚に光らせた瞳で交互に見てきた彼は、全身を震わせて感涙していた。
「でも、僕は僕だよ」
ハリーはちょっとだけ得意げに言った。ハグリッドがウーンと唸ったその隣で、シンシアが満足そうに破顔した。
← │ →