そよそよと毛先が前髪を撫でる擽ったい感覚と、すこしの肌寒さに朧気な意識がゆるりと浮上する。ぼんやりとした視界の先で、カーテンがゆらゆらと襞をなびかせていて、窓が開いていることを意識の片隅で認識した。窓、開けっ放しだったっけ。とろりとした微睡みに考えるのも億劫で、認識した途端、一層増した寒さに緩慢に身を起こす。けれど、ふと視界の端でなにかが動いた気がしてゆるりと視線を横に向けた。本来、そこに居るはずのない黒い影を視界に捉えた瞼がゆっくりと見開いていく。

「──っ起きろ!!」気づけば、声を張り上げていた。斧を振り翳す包帯男の姿に、目覚めたコナンがギョッと瞠目して素早い動作で毛利を蹴り飛ばした。振り落とされた斧は、間一髪、ベットを切り裂いた様だった。

ばふりと俺の膝の上に倒れてきた毛利を追うように、包帯男が首をひねる。コイツ、やっぱり──「蘭を狙ってる!!」俺がそう思ったのとコナンが声を張り上げたのは同時だった。ギロリと鋭い視線に見下ろされ、毛利を庇うように身体を向ける。「──なまえ兄ちゃん!!」再び、包帯男が斧を振り被る動作に、咄嗟に毛利を抱えてベットの前に転がるように避けた。ザグリ。布団に振り落とされた隙間から、はらはらと綿が舞い上がる。完全には避けきれなかったようで、肩先にツキリとした鈍い痛みを感じた。けれど気にしている余裕はなかった。

「──っンの···!」執拗に毛利を狙う包帯男の腰にコナンが飛び付いた。その隙に、腕の中にいる毛利に何度も呼び掛けてみたが熟睡しているのか目を覚ます様子はなかった。コイツ、この状況でも起きないとか凄すぎだろ。わずかな焦燥を滲ませ、毛利の肩を揺さぶっていたらドンッとなにかが壁にぶつかるような鈍い音が響いた。視線を向ければ、振り払われたのだろうコナンがベットの上で蹲っていた。直ぐに立ち上がろうとしていたが顔を顰めた険しい表情に、どこか痛めたのだろうことがわかった。歩み寄ってきた黒い影に、ギュッと毛利を胸に引き寄せる。血走った瞳と視線を交わしながら、頭の中ではぐるぐると活路を探していた。

「っ起きろーーー!!!」

突如、ビリビリと部屋が揺れるほどの声音が一帯に響いた。まるで拡声器を使ったような爆音に、キーンッと鼓膜の奥が痺れる感覚がする。その声でようやく起きたのだろう毛利が腕の中でかすかに身じろいだ。

「んぅ、なに······───っ!!」

───···キャーーーーッ!!!
包帯男に気づいた毛利が、劈くような悲鳴を上げた。直後、悲鳴を聞き、駆け付けたのだろう扉を激しく叩く音が響く。

「ちょっと蘭!!どうしたの?!」

鈴木の声に混じって、バタバタと複数の足音が聴こえた。包帯男は一瞬、迷うように毛利を一瞥したがヒラリとマントを翻すとカーテンの奥へと消えていく。その背中を、毛利の肩を支えながら見送ることしかできなかった。

「また包帯男に襲われた?!」
「でもどうやって部屋に入ったんだよ。それに此処は2階だぜ?」
「おい!窓ガラスが切られてる!」
「見てみろ太田!きっとあの木を使って登ったんだ!」

部屋に招き入れた全員に毛利が包帯男に襲われたことを伝えていた。驚愕に、揃って目を見開いた太田さんと角谷さん、高橋さんが窓からベランダに向かうのを眺めながら、ベットに腰掛けて鈴木に肩の処置をしてもらう。シーツや床、毛利の寝巻きに点々と血痕が付着していたが、思ったより傷は浅いようだった。

「コナンくん、大丈夫?」
「うん!平気だよ!」
「なまえも···ごめんね」
「いや、こんなのただのかすり傷だって」

コナンの足首に包帯を巻きながら、毛利が眉を垂れさげた。どうやら俺に庇ってもらったと思っているらしい。正直、なかなか起きない毛利に焦れったくも思ったが、この怪我は咄嗟に動けなかった俺の落ち度だった。「ほら、できたわよ!」「い···っ!」突然、満足気にそう言って鈴木が患部をポンッと叩いた。ズキリと走った鈍い痛みに眉間を顰めて、隣に座る鮮やかなグリーンの瞳をじっとりと見遣る。

「あのさ、俺、これでも怪我人なんだけど」
「なによ?こんなのただのかすり傷なんでしょう?」
「そうだけど···いや、なんでもない」

部屋の惨状に、先程まで泣きそうな顔を浮かべていたというのにすっかり調子が戻ったらしい。にんまりと悪戯な笑みを浮かべる鈴木に文句も言うのも億劫で、ぐるぐると包帯を巻かれた患部に目を落とす。包帯は、意外にも綺麗に巻かれていた。「手当て、ありがとな」案外、器用なんだなとわずかに驚きながら礼を告ければ、鈴木がぱちぱちと瞬いた。

「アンタも素直に感謝とかするのね」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ」

呆れた視線を送れば、鈴木はカラリと笑っただけだった。

コナンの足首と俺の肩の処置を終えると全員でリビングに降りた。いつまた現れるかわからない包帯男に、個々で個室に居るよりも全員でリビングに集まったほうが安心だという角谷さんの意見からだった。各々が席についたものの別荘にまで侵入してきた包帯男に、だれもが神妙な顔付きだった。リビングは物々しい空気に包まれており、ぱらぱらと窓を打つ雨の音が、一層、重苦しさを際立たせているようだった。

「──珈琲でも入れましょうか」
「ねぇ、綾子さん」

口火を切ったのは綾子さんだった。一同が頷くのを確認した綾子さんがたおやかに腰を上げたのを、角谷さんのカメラを見ていたコナンが引き止めた。

「知佳子さんに、最後に会ったのって綾子さんだったよね?その時、彼女になにか変わったことなかった?」
「そういえば、あの時知佳子、ドアに挟まれていた手紙を読んでいたわ。その後みるみる顔色が変わって···」

身を乗り出すように尋ねたコナンに、思い出すように天井を見上げながら綾子さんが言った。どうやら知佳子さんは、誰かに森に呼び出されたようだった。その後、知佳子さんだけが殺されたということは呼び出したのは包帯男で間違いないだろう。そして、扉の隙間に手紙を挟むことができるのは此処にいる人物だけだった。

「ねぇ、蘭姉ちゃん!」
「なあに?」

しばらく思案するように顎に手を添えていたコナンが、ハッ顔を上げて毛利を見上げた。それに、毛利がカクリと首を傾げる。

「たしかこの別荘についた時、みんなの部屋を間違えて開けちゃったよね?その時、なにか見なかった?」
「なにかって?」
「たとえばマントとか包帯とか!」
「なんだこのガキ。俺たちを疑ってんのか?」
「き、気にしないでください!この子、探偵ごっこが好きなもんで···」

険しい表情を浮かべてコナンを睨む太田さんに、毛利が取り繕うように空笑った。太田さんの様子などまったく気にも留めていないコナンが、ほんとに何も見なかった?と尚も毛利に食い下がる。そのやり取りをチラリと一瞥して、緩慢に口を開いた。

「毛利が見たのは、みんなの裸体だよ」
「ちょ、ちょっとなまえ!人聞きの悪いこと言わないでよ!裸っていっても上半身だけだし···」
「じゃあこう言えば良かったか?毛利が見たのは、みんなの体型だって」

俺の言葉に、コナンはすぐに勘づいたようだった。ゆるゆると見開かれた瞳が、言葉の真意を読み取ろうと射抜くような視線に変わったのを感覚した。わざと気づく様に仕向けたというのに、肝心の毛利は、裸と聞いてにまにまと揶揄う鈴木に弁解をするのに必死なようすで、彼女に思いだした素振りはない。そもそも、体型を偽るにしても痩せてるほうならともかく、太っていると見せかけるメリットなんて考えつかないし、知佳子さんの殺害が内部の犯行だというのなら怪しい人物は俺の中でひとりに絞られていた。

「──なまえ兄ちゃん」

視線の合わない俺に、コナンがゆっくりと口を開いた。けれど、その瞬間バリバリッ!と凄絶な音を轟かせて鳴り響いた雷鳴に彼の声は掻き消され、その後の言葉を聴くことは叶わなかった。どこかの電線が切れたのだろう、フッとリビングの明かりが落ちる。

「停電よ!」
「私、キッチンからロウソク取ってくる!」
「おい、ひとりで大丈夫か?」
「私も行きます!」
「撲も!」

暗闇に呑まれたリビングに、一同が騒然とした。ガタリと席を立った綾子さんに便乗して、毛利とコナンが主張に声を上げる。3人分の足音が徐々にリビングから遠ざかっていくのを感覚しながら、俺は静かに椅子から立ち上がった。仮に、まだ彼が毛利を狙っているとしたらこの暗闇に乗じるだろうし、それに、もし他にも殺したい人がいるのならこの機会を逃すはずがないと思ったからだった。

杞憂ならそれでよかった。けれど、見えない視界の中、彼の席を思い浮かべながら緩慢に近付いた先で床を擦るような微かな物音に、落胆にも似た呆れを滲ませながらすうっと目を細める。

「どこに行くんですか?この暗い中で動いたら危ないですよ」

隠密するような細やかな動作で慎重に席を立ち上がるところだった彼に、やんわりと声を掛ければビクリと肩を揺らして彼が振り向いた気配がした。

「ちょ、ちょっとトイレに行こうと思って···」
「なら、俺も一緒に行きますよ」

下手な言い訳に、そう淡々と伝えれば、彼があきらかに狼狽えたのを感じ取る。いや、でも。しばらく、口腔で言葉を探しあぐねていたようたったが、結局、思いつかなかったようでガタリと椅子を引く音が耳に届いた。

「や、やっぱり、今は止めておこうかな···」
「そうですね。包帯男が現れるかもしれませんし、下手に動かないほうがいいと思いますよ」

大人しく腰を下ろした彼に、わずかな安堵を感じながらゆるりと首肯する。区切りのついた会話に彼から離れた俺は、彼の座席の真後ろに位置する階段の手摺に移動した。すこし彼から離れてはいるが、物音や動きがあればわかる距離だった。凭れ掛かりながら監視するようにじっと目を凝らしてみるが、視界にはなにも映らない。慣れるまで暫くは掛かりそうだと、目頭を押さえていた俺の元へ誰かがゆっくりと近づいてくる気配がした。空気の揺れる感覚に、うっすらと目を細める。警戒を示す俺の腕に、そうっと確かめるように暖かな温度が触れた。

「なまえよね?」

振り払おうとした手は、けれど、直後に届いた甲高い声音にピタリと止まった。鈴木の声だと認識した途端、ゆるゆると警戒が解けていく。気の抜けるような感覚に、思わず額に片手をあてて深く息を吐いた。

「そうだけど。なにか用?」
「何か用って·····、それが暗闇の中歩き回った人にいうせりふぅ?」

その責めるような口調に、鈴木の目はきっと吊り上がっているだろうことが見えなくてもわかった。どうやら、席にいない俺を探していたらしい。

「だから、用があったから探してたんじゃねーの?」
「別に、これと言った用事はないわ」
「無いんだったら席に戻れよ」

けろりとした口調で言った鈴木に、ぐっと皺を寄せた。包帯男が現れたばかりだというのに危機感が無さすぎじゃないかと、故意に冷たく言い放てば「ちょっと!冷たいじゃない!」と鈴木が唇を尖らせたようだった。

「だって、頼れる蘭もいないのよ。もし包帯男が襲ってきたとき、私を守ってくれそうなのってなまえくらいしかいないじゃない。まあ、いまいち頼りないけどね」
「なら、あのクールだって言ってた奴にでも守ってもらえばいいじゃん」
「だめだめあんな奴。いいのは見た目だけだったわ」
「あっそう。ってか、どうでもいいけどあんま引っ付くなよ」

俺に倣うにように手摺に背を預けている鈴木と、俺との距離に隙間はほとんど無かった。軽口を叩きつつ、尚もピタリと肩が触れ合うほどぐいぐい距離を詰めてくる鈴木を横目に見下ろす。暗闇とはいえ、さすがに鈴木の明るい髪色を捉えることはできた。しっかりと聴こえていたはずなのに難聴を訴えた彼女にちいさく息をついた俺は、それ以上はなにも言わずに耳を澄ますことに集中する。

「蘭たち、大丈夫かしら?」
「さぁ?」

鈴木は平然を装ってはいたが強がっているだけなのだろう。執拗に話題を振ってくる彼女に適当な相槌を打つだけの俺の返事にも、特に気にしていないようすだった。そもそも包帯男が現状、毛利を狙っているのなら鈴木が襲われる心配はないのだがそれを説明するのも億劫だったし、ほとんど一方的ではあるが、話し相手が居ることで多少気が紛れているようなのであえて説明はしないでいた。それに、毛利が狙われていると知った彼女が取り乱すのは目に見えていたし、どちらにせよ小さな名探偵がいる限り片がつくのも時間の問題だろうと思っている。

「さっきの雷、凄かったわね」
「そうだな」
「それにしても姉貴たち遅すぎない?」
「暗いし、そんなもんだろ」
「なによ。殺人鬼が彷徨いてるのよ?なまえは怖くないわけ?」
「あんまり」

静寂が落ちるのが嫌なのかやけに饒舌な彼女に、そう、お座なりに返事をした時だった。バリンッ!と陶器が割れたような音が、突然リビングに鳴り響いた。「な、なに?!いまの音···!!」ビクリと肩を揺らした鈴木を尻目に、内心で舌を打つ。鈴木との会話で注意が散漫になっていたらしい。ざわざわと騒めき立つ一帯に目を凝らしてみたが、多少慣れてきたとはいえ朧気な視界では正確に捉えることができなかった。きっと、彼は毛利に襲撃をかけているだろう。嫌な予感というのは当たる様で、しばらくしてコナンを背負って戻ってきた毛利の顔色は蒼白としていた。






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