結果だけでいえば、池田先生はなにも知らなかった。音楽室の鍵も基本的に空いているようで、誰でも自由に出入りすることができるようだった。めぼしい収穫もなく、歩美の友達のお姉さんだという人物に会いにきたオレたちは、帰り支度をしているのだろうガヤガヤと賑わう教室の扉を躊躇なく開ける。下級生の唐突な訪問に、ぱちくりと目を瞬かせた扉付近にいた男子生徒に名前を伝えれば彼はニカッと人の良い笑みを浮かべて、彼女を呼んでくれた。

「歩美ちゃん!」
「真澄お姉さんこんにちは!」
「あら、歩美ちゃんのお友達?」

鼻の頭にそばかすを散らした女子生徒がオレたちを見下ろしてカクリと首を傾げた。左右に結ったお下げの髪の毛が動作に合わせて揺れるのを視界に入れながらぺこりと会釈を変えせば、彼女は朗らかな笑みを向けてくれる。その優しそうな雰囲気から誠実な印象が伺えた。それで、どうしたの?ひとりひとり、挨拶をしたオレたちに丁寧に首肯を返した彼女の問に、歩美が口火を切る。

「あのね、わたしたち、音楽室の噂を調査してるんだけど真澄お姉さんが演奏を聴いたって聞いたから」
「音楽室の?」
「その時の話、詳しく聞かせてくれない?」

食い気味なオレの質問に、真澄さんはぱちぱちと戸惑ったように瞼を瞬かせて、それから思い出すように天井を見上げた。

「えーっと···たしか18時頃だったかな。まだ正門も玄関も開いてたから、筆箱を取りに教室に向かって、筆箱を取って帰る途中でピアノの伴奏が聴こえてきたの。それがとても綺麗な音だったから誰が弾いてるのか気になっちゃって、音楽室に見に行ったのよ。そしたら鍵が掛かってるんだもん。だから、仕方なく帰ろうかなって思った時に、突然音が止まって、物音と誰かが話している声が聴こえて···」
「物音?それってどんな?」
「微かだったけど、ガタガタって窓ガラスが揺れたような音だったと思うよ」

人の話声と窓ガラスの揺れた音。やはり、幽霊ではなく音楽室の中に誰かがいた事は間違いないようだ。「それってやっぱり幽霊だよ!」すっかり興味の失せたオレに反して、歩美は幽霊だと信じているようで興奮に声が弾んでいる。

「ああ、幽霊って噂もあるわね」
「数年前に亡くなったっていう女子生徒のことかしら?」

それまでずっと黙って話を聞いていた灰原の問い掛けに、よく知ってるねと驚いたように目を見開いて彼女はゆるりと首肯した。

「そうよ。私が貴方たちと同じ1年生の頃に、6年生だった女の子が亡くなったの。コンクールの前日に、遅くまで練習してたらしくてその帰り道にトラックに跳ねられたみたい。当時、すごい話題になったから6年生はみんな覚えてると思うよ」
「真澄さんもその子の幽霊だって思いますか?」
「んーどうだろう。音楽室でその子の霊を見たって人も何人かいたけど、演奏が聴こえるようになったのはここ最近だからね」
「幽霊を見た?」
「ええ。いまは聞かないけど、私が4年生くらいの時までは結構見たって人がいたかな。怖がって、音楽室に入らない子もいたんだよ」

そう真剣な表情を作って言った真澄さんに、元太と光彦が頬をヒクリと引き攣らせた。「ゆ、幽霊なんているわけないですよ···!」「あ、当たり前じゃねーか···!」気丈に振る舞う彼等に柔らかな笑みを向ける真澄さんを見上げて、オレは再度口を開く。

「真澄さん、その演奏を聴いた人って結構いるの?」
「えっと、私のクラスだと4人だったかな。他のクラスの子も合わせると───」
「真澄ー!帰るよー!」

顎に手を添えて思い出していた真澄さんだったが、友人の呼び掛けに言葉を止めてしまった。扉から顔を覗かせる友人の姿に返事を返すと、真澄さんは申し訳なさそうに眉を垂れてオレたちを見下ろす。「ごめんね、友達待たせてるんだ。まだ聞きたいことあったら明日来てくれる?」そう言って、踵を返した真澄さんを見送ったオレたちは一先ずクラスに戻ることにして橙色に染まった廊下をゆっくりと進んだ。

真澄さんの話を聞く限りでは、この学校で女の子が亡くなったのは間違いはないようだ。それが、音楽室の噂とどう関係しているのかはわからないが幽霊の仕業だとは到底思えないし、誰かが演奏しているんだろうという見解は変わらない。暇潰し程度にはなるかと思ったが無駄骨だったなと後ろで幽霊の有無を討論する歩美たちの声を聞きながら、欠伸を噛み殺していた時だった。

───ポロン。突如、聴こえたピアノの音色に一瞬で眠気が吹き飛んだ。ハッと表情を一変させたオレは、硬直する歩美たちを置いてひとり廊下を駆け抜ける。夕陽の照らす廊下には誰も居らず、切なげなピアノの伴奏が静まり返った廊下に深々と響いているだけで、先生も他の生徒の存在も急に掻き消えたような奇妙な感覚がオレを包んでいた。

逸る気持ちをそのままに、オレは勢いよくドアを引いた。鍵は掛かっていなかった。背後から灰原たちが追い掛けているのは気づいていたが、視界に入った人物にピアノの音色以外の音は一瞬にして切り離されたような感覚がした。目を見開いて固まるオレに気づいた彼は、手を止めてたおやかに顔を向ける。

「来てくれると思ってた」

そう言ったみょうじの表情には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

ぽかんと口を開けたオレを気にする素振りもなく、みょうじは柔らかな笑顔を貼り付けてゆっくりと近づいてくる。目元を細める彼の、その見惚れるような綺麗な笑みに、徐々に頬に熱が集まっていくのがわかった。

「お、おめー本当にみょうじか···?」

カラカラに干上がった喉をこじ開けて決死の思いでそう言ったのに、小首を傾げるその仕草にすらウッと喉を詰まらせる。ころころと表情を変える彼は、先程とはまるっきり別人だった。俄には信じ難い光景に、瞬きを繰り返すオレの手を冷たい体温がやんわりと握る。

「俺以外に、誰に見える?」

そう言って可笑しそうにくしゃりと笑う姿は紛れもなくみょうじなのだが、こうも屈託ない笑顔を惜しげなく出されては心臓が持ちそうになかった。逆上せたように呆然とするオレには構わず、彼は優しく繋がれた手を引くとピアノの傍に足を向ける。

「良かったら聴いていってくれるかな?」

君たちも。彼の向けた視線の先を見遣れば、あんぐりと口を開けた歩美たちがいた。灰原も例外では無いようで、みょうじの姿に瞠目している。「···彼、頭でも打ったの?」真剣な表情で言った灰原の言葉には、オレも同意見だった。

彼の白く細い指が、鍵盤を叩くのをぼんやりと見つめる。曲はショパンの「別れの曲」だった。生涯でこれほど美しい旋律を書いたことがないとショパン自身が謳ったように、彼の奏でる音色が優しく胸に浸透していく。歩美たちは目を瞑って彼の演奏に聞き入っているようだった。夕陽に照らされたみょうじの艶やかな髪の毛がキラキラと淡く光り、まるで芸術品のようなその光景にオレはすこしも目が離せなかった。

「聴いてくれてありがとう」

最後の一節を引き終えて、鍵盤から指を離した彼がひとつ息を吐いて柔らかく微笑んだ。それを合図に、歩美と元太、光彦がぱちぱちと興奮気味に拍手を送る。それに、照れたように笑ったみょうじはもう一度感謝の言葉を述べて、それからこう言った。これで思い残すことはない。と。

それは一体どういう意味か。一拍して疑問が湧き上がったオレが、問いかけるよりも先に歩美たちがみょうじに飛び掛るように押し掛けた。

「みょうじくん凄い!歩美、聞き惚れちゃった!」
「お前、そんな特技持ってたんだったら教えろよな!」
「凄いです!他に弾ける曲はないんですか?!」

みょうじは歩美たちの声に反応を示さなかった。まるで名残惜しむかのようにするりと鍵盤を撫でた彼は、それからやっと緩慢に頭を振る。「もう、俺には弾けないよ」そう言った、伏せた横顔からはなにも読み取ることは出来なかった。

その日から、音楽室の噂はピタリと止んだ。結局、歩美たちは幽霊の仕業ではなくみょうじが練習していたからだと思っているし、あの日以来、放課後に伴奏が聴こえてくることは無くなったのでそうなのだろうと思う。それなのに、何故かみょうじの最後の言葉が引っ掛かってオレはいまいち消化ができないでいた。思い残すことはない、そう晴れやかな笑顔でたしかに言ったみょうじは変わらずに登校しているし、あれからみょうじの笑った顔は見ていない。あのゆるく目元を細めて柔らかく笑うみょうじは一体誰だったのかと、そんな馬鹿みたいなことが過ぎるのは、ぼんやりと窓の外を眺めるみょうじが普段通りだからで、あまりの違いにあの日の出来事は錯覚だったんじゃないかとすら思ってしまうのだ。
頬杖を付いてみょうじを眺めるオレの脳裏には、くしゃりと嬉しそうに笑った彼の笑顔がたえずチラついていた。






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