ガラリと開けた扉の先。本棚の間に備えられた長机に並ぶ見知った顔に、思わずげっと顔を顰めた。まさか、こんな所で彼等に会うなんて。「あ!なまえくんだ!」ゆるりと後退に引いた足は、けれど、弾けた笑みを向けられたことで留めるしかなかった。

「おう!なまえじゃねーか!こっちこいよ!」
「こっちこっち!」

まるで、待ち合わせた友達を呼ぶように手招く吉田たちにひくりと口角が引き攣る。いやいや、そんな気軽な仲じゃなかったはずだ。けれど、そう思っているのは俺だけのようで、佇んだまま一向に動かない俺に、みっつの双眼が不思議そうに揃ってカクリと首を傾げた。「どうしたんですか?」「⋯いや、なんでも」諦めの息を吐いて、渋々彼等に近寄る。円谷が自分の椅子をずらして、座りやすいようにスペースを開けてくれた。

「なまえくんも、感想文書きに来たんですか?」
「まあ、そんなとこ」
「歩美たちもね、コナンくんの感想文を手伝いに来たんだよ」

先日の授業で、宿題に出された読書感想文。家にあるのは到底、小学生の読むような小説ではなく休日を利用して米花図書館に赴いたのだが、どうやら彼等も同じ理由らしい。その割りには、机の上には読み終わったのだろう重ねられた児童書が数冊置かれているだけで、すこしも捗っている様子はなかったが。

視線を巡らせれば、吉田と小嶋の背後に江戸川の姿があった。しゃがみこみ、窓枠の下にある棚を物色しているらしい彼は俺の存在に気がついていないようだった。「⋯灰原は?」「ああ、灰原さんなら博士が風邪気味みたいで移すと悪いからって」どうやら彼女は不在らしい。常に行動を共にしているのかと思っていたが、そういう訳でもないようだ。

ふーん。そう軽く頷いて、積み重なった手近な本に手を伸ばす。「あっ!その本、面白かったよ!」「あー⋯うん、読んでみる」一番上に積まれていた本を手に取った俺に、吉田が声を弾ませた。嬉しそうに破顔されれば、戻すわけにもいかず仕方なく胸元に引き寄せる。正直、題材はどれでも良かった。良かったのだが、「おばけのともだちのつくりかた」ってタイトルはどうなんだろう。確認しなかった俺が悪いが、割りと身近な問題に僅かに口角がひくりと動く。

徐に表紙に目を落としていれば、突如、ぶわりと悪臭が鼻腔をついた。まるで後頭部を押さえつけられているようにずっしりと重く、纒わり付くような嫌な空気にぞわりと肌が粟立つ。「こらこら、これは子供の見るようなもんじゃないよ」「あっ、ごめんなさい⋯」注意されたらしい江戸川の声が聴こえたが、視線を上げることは出来なかった。年配の、低い男性の声に交じって、多種の声色がさざ波のように密やかに鼓膜を揺らしていた。憎しみ、怒り、悲しみ───。流れ込んでくる負の感情に押し潰されてしまいそうだった。

「コナンくん見て見て!パトカーだよ!」
「え?」
「なにかあったんですかね?」
「もしかしたら事件かも!」

突如、響いたサイレンの音にハッと意識を持ち上げた。未だ、重苦しい空気も腐敗したような悪臭も漂っていたが、彼等の明るい声色にいくらか気が紛れた感覚がする。「なんだ、おめーもいたのか⋯って、おい、大丈夫かよ?顔色わりーぞ」気を持ち直すようにちいさく口で息をしていれば、頭上に声が落とされた。ゆるりと顎を上げれば、江戸川がぎょっと瞠目して見下ろしていた。「⋯いや、平気」「平気って⋯んな病人みたいな顔色で⋯」平然を、装えてはいなかったようだ。ぐっと眉間に皺を寄せた彼から逃れるように席を立てば「お、おい!」焦ったような声色と足音が後ろから追いかけて来る。

「おい、無理すんなって」
「無理してない」
「あのなァ⋯」
「えっ、なまえくん具合悪いの?」
「そうなんですか?」
「飯、食わねぇからだよ」
「具合は悪くないし、ご飯もちゃんと食べてるから大丈夫」

真横に並んだ江戸川と、追いかけてきた吉田たちをいなしながら廊下を進む。思ったより足取りはしっかりしているし、当初よりも落ち着いたのは確かだった。それに、唐突のことで動揺してしまったが、気を張っていれば本来、余程のことでない限り気圧されることではないのだ。じとりと責めるような視線を頬に感じつつ、黒い背広に意識を傾ける。刑事に呼ばれ、階下へと向かうその背中には文字通りたくさんの人が乗っていた。きっと、様々な人の人生に関わってきたのだろう。それも、悪い意味で。彼の全身を覆い隠すように蠢く黒い靄に、詰まるような息苦しさを感じながらそっと靴先に視線を落とす。

他の人と、違うものが見えているのに気がついたのは割りと早い段階だった。その境界線というのはひどく曖昧で、しっかりと人の形を成しているものも居ればぼんやりと濃ゆい靄のように漂っているものもいる。所詮、切り離された残留思念のようなものだと思っているが、中には疎通の取れるものも居るようで実際のところよくわかっていない部分が多い。けれど、ただ一つわかっているのは、良くないものほどどす黒いオーラを放っているという事だった。

「あっ!エレベーター閉まっちゃうよ!」
「そのエレベーターちょっと待って!」

いつの間にか、エレベーターの前まで来ていたようだ。中にはすでに3人の乗客がおり、駆け足で乗り込んだ江戸川と吉田を穏やかな眼差しで見詰めるその内、黒々としたオーラを纏うその人に俺の足は自然と止まる。「いでっ⋯!おい、なまえ!急に立ち止まんなよな!」ドンッと背中への衝撃に、よろりと足がたたらを踏んだ。「あれ、乗らないんですか?」ふがふがと鼻を抑える小嶋と視線をさ迷わせる俺を横切った円谷が、エレベーターの中に足を踏み入れながらきょとりと瞬く。

「いや、俺は⋯」
「いいからさっさと乗っちまおうぜ!」

エレベーターから遠ざかるように引いた足は、けれどぐいぐいと背中を押されて前進する。え、ちょっと。もはや制止の声も届いていないようだった。思った以上に強い力に抗うこともできず、トンっと肩を押されつんのめる。ごちんと体当たりのようにぶつかった江戸川に謝罪をするよりも、エレベーター内に蔓延する重い空気にぐっと喉が詰まるような感覚がした。

「⋯おい、本当に大丈夫か?」
「平気だって」
「そうは見えねぇから言ってんだよ」

労わるように優しく肩を掴んでいた彼が、指先に力を込めたのが分かった。すこしも納得していないようだったが、こればっかりは説明のしようもないし、彼に言ったところで信じてもらえるとも思えない。もし仮に具合が悪いと言ってしまえば、事細かに理由を追及してくるのは目に見えているのでそれ以上は口を閉ざし、やんわりと彼の肩を突き放す。
呆気ないほど簡単に離れていったのは、ブーッとブザーが鳴ったからだった。振り返れば、小嶋がエレベーターに乗ったところだった。

「定員オーバーだって」
「定員は7名、ですか⋯」

1、2、3⋯。円谷の呟きを聞いて、小嶋が乗客の人数を数えだす。現在、乗っているのは8人だ。とはいえ、小嶋を除く俺たちの体重は2人合わせても大人一人分に足りないくらいだろう。「仕方ねぇ。階段から降りるか」エレベーターから降りる江戸川を追うように後に続く。ちらりと振り向いた後方、まるで主張するかのように天井を指し示す半透明の存在をたしかに捉えながらも、俺はゆるりと視線を外した。

1階に降りれば、先に着いたのだろう館長と警部が神妙な顔付きで話していた。自然な流れで会話に参加した江戸川を遠目に眺めつつ、ぐるりと館内を見渡す。1階は受付と倉庫になっているようで、警察官以外に徘徊しているのは職員だけのようだった。
警部の話によれば、ここの職員である玉田さんが一昨日の夜から行方不明になっているらしい。とても几帳面な人だったようで、帰宅する前には奥さんに事前に連絡を入れていたという。

「玉田さんからなにか連絡はありませんか?」
「あっ⋯」

警部が徐に内ポケットから取り出した写真に思わず瞠目した。なにかね?チラリと一瞥をくれた警部に慌てて首を横に振れば、怪訝な顔をしながらも警部の視線は館長へと流れる。

「い、いえ、なにも。それに、その日私は玉田よりも先に帰ったのでその後のことは⋯」

そう、やんわりと頭を振る館長の背後にピッタリとくっついた人物に口端がひくりと引き攣るのがわかった。いや、めっちゃそこにいますけど。興味深げに自分の写真を覗き込む半透明のソレ。エレベーターから館長に着いてきたのだろう、館長の黒々としたオーラを放つ背後のソレらとは違うまた異質な存在は、紛れもなく玉田和男その人だった。

「であれば、外で連れ去られた可能性が高いか⋯」

警部は玉田さんがこの米花図書館で殺害をされた可能性も含め、捜査していたようだ。しかし、館内のどこを探しても遺体は見当たらなかったようで殺された線は低いと周辺の捜索に切り替えるようだった。
そりゃあそうだろう。彼の遺体はエレベーターの天井に眠っているのだ。そう易々と見つけられる筈もなく、かといってこのまま警察を見送っていいものかと思案していれば、バチリと漂っていた彼と視線が交わった。
あ、しまった。慌てて視線を外した時には遅く、浮遊していたソレは僅かに瞠目した後、スーッと滑るように正面に移動してきたのだ。顔を逸らす俺の周りをちょろちょろと覗き込むように浮遊する彼にすこし、げんなりする。玉田さんも焦っているのか、頭に直接響いてくるような声は館長の悪事を止めたいという切実な願いばかりだった。

さて、どうするか。ここで俺が動かなくても、そこで神妙な顔付きで考え込んでいる江戸川が玉田さんの遺体も館長の悪事も解明するだろう。それに、色々と恨みを買っているらしい館長の周りにいる黒い靄がいずれ彼を地獄に引きづり込む。それほどまでに膨張したソレらは、もはや俺にはどうしようもない所まできていた。

考えあぐねていた俺の裾を誰かが引いた。反射的に顔を上げた視界いっぱいに玉田さんの訴えるような顔が映り込み、うっと喉を窄める。今度こそはっきりと交わった視線に、彼の唇が緩慢に動いた。それを聞き届けた俺は、仕方ないとばかりにゆっくりと息を吐き出した。

「警部さん」
「なにかね?」

踵を返そうとしていた彼を呼び止める。怪訝な顔をしながらも、警部は足を止めてくれた。

「さっき、不思議なことがあって」
「不思議なことォ?」
「エレベーターに乗った時、ブザーが鳴ったんです。定員は7名。そのうち、大人は3人、子供は5人。いくらなんでも可笑しいと思いません?」
「大人が3人に子供が5人⋯。全員で8人だったらおかしなとこなんて⋯」
「そうか!子供の体重は大きく見積っても2人で大人ひとり分。オレたち5人の体重を合わせても、せいぜい大人3人分でブザーが鳴るなんて有り得ねーんだ!」

声を張り上げた江戸川に、警部がハッと目を見開いた。そうして、近くにいた警察官に目配せをする。足早に掛けていく後ろ姿を眺めながら、これで彼の遺体は発見されるだろうとひとつ下りた肩の荷にそっと安堵の息をつく。けれど、これで終わった訳ではなかった。隣からのせっつくような声にわかってるってと脳内で返しながら、なんて伝えようか言葉を巡らせる。

「まてよ⋯じゃあ、なんで玉田さんは殺されたんだ⋯?」
「さぁ。なにか見たんじゃない?⋯ダンボールの中身とか」
「はぁ?ダンボール?⋯つっても、あれには背表紙が逆に入れられた外国の本が入ってただけで⋯まさか⋯っ!」

ひとつ、助言を伝えたいだけで勘のいい彼は気づいたようだった。さすがは名探偵だなと感心しつつ、警部に走りよって行った彼を見送る。俺が下手な説明をしなくても、あとは彼がやってくれるだろう。

そうして数分後、玉田さんの殺害と麻薬所持で津川館長は警察に連行された。パトカーに乗って去っていった彼に、ようやく一息つける心地だった。

「なあ、玉田さんの遺体がエレベーターにあるっていつから気づいてたんだ?」
「あー⋯俺、ちょっとトイレ」
「あ、おい!」

逃げるように館内に引っ込んだ俺は、閑散とした場所を探して宛もなく廊下をねり歩く。鋭い名探偵も言いくるめられるような言い訳を考えなければいけないと同時に、ふよふよと着いてくる存在にげんなりとした気持ちを抱えつつくるりと振り返る。玉田さんの遺体は、無事に救急車で病院に搬送された。今頃は奥さんにも連絡が行っている頃だろう。それなのに、未だ漂っている存在をチラリと見上げる。

「それで?まだ未練があんの?」

すこし棘のある言い方をすれば、彼が困ったように笑った。一拍して、首を振る彼に俺は僅かに首を傾ける。なら、どうして。それが伝わったのか、彼は静かに片手を差し出した。透けたそれに、ますます疑念を抱きながら見詰める俺の手のひらを彼はやんわりと握り締める。感触はなにもなかった。けれど、視覚的感覚からか、不思議なことに握られているという感覚はあるのだ。何故か俺に触れられるらしい彼は、穏やかに微笑むと足先から徐々に消えていく。ありがとう。最後にそう添えた彼は、とうとう光の粒のように散っていった。

「なまえくーん!」
「あ、なまえ!こんなとこに居たのかよ!」
「僕たちアイス買いに行くんですけど、なまえくんも一緒に行きませんかー?」

ぽかんと惚けていた俺の耳に、元気な声が届いた。廊下の向こうから、ぶんぶんと大きく手を振る彼等を置いて、ずんずんと歩いてきた江戸川がさっと俺の指先を掠め取る。

「後で、ちゃんと詳しく聞くからな」

逃げたことを根に持っているのか、江戸川に手を離す気はないようだった。別に、もう逃げるつもりないんだけどな。手を引くように歩き出した江戸川の暖かな体温を感覚しながら、むっつりと眉間を寄せる彼の姿に俺は思わず笑ってしまった。






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