廊下の奥、落ち着いた木目調の色合いとは反した鮮やかな色彩が、まるで人目を憚るように視線を配らせて高いヒールの音を打ち鳴らす。散歩にしては迷いなく進むその足取りに、眉間の皺を深く刻みながらなまえは慎重にその背中を追っていた。 そもそもなまえには、綾子を追うつもりは少しもなかった。確かに折を見てそれとなく忠告する気ではいたし、犯人の目星がついているという彼女を気にはかけていたが、こうして後を付ける形になったのは綾子が仕切りに時計を気にしていたからで、その不振な動きについ、足が動いていたのだ。 杞憂ならいいけど。颯爽と玄関を潜り抜けるその背はどこか頼りなく、頭を擡げる嫌な感覚を振り払うように腹の中でひとつ呟く。「もう殺人は起こらないわよ」そう綾子は自信たっぷりに言っていたが、なまえにはとてもそうは思えなかった。 ・ ・ ・ 「ここで 突如、耳元に掛けられた声に綾子は飛び上がるほど驚いた。気付いた時には背後から覆い被さるように伸びた掌が、ライターのフリントを回そうとした綾子の指先を押さえるように包み込んでいた。驚愕に声を上げることさえできない綾子を置いて、骨張った長い指先がするりとライターを抜き取っていく。カチリと、トップの閉じる音と微かな吐息が耳裏を柔らかく擽るその感覚に、綾子は漸く我に返った。 「だ、だれよ⋯っ!」 そう、綾子が震える唇をこじ開けたと同時に背中にかかる気配がふっと離れていく。大した重みを感じなかったのは、背後にいる人物が配慮してくれていたからだろう事に遅れて気付いたが、しかし強ばった体躯は後部座席に撓垂れたまま。ぎこちなく首だけを捻った綾子に淡白な声音が降り注ぐ。 「あー⋯すいません、驚かせるつもりはなかったんですが」 やけに冷めた声色だと綾子は思った。凛としたまだ若い男の声音に、ひとまず想見した人物ではなかった事に浅い呼吸を整える。 「なにか用?見て分かるとおり、私、いま──「ねぇ、綾子さん」 ──忙しいの。そう続ける筈だった言葉は、しかし、ずっしりと厚みのある声に飲み込まれた。まるで幼子を窘めるような、けれど先程よりはずっと柔らかい声色に、座席の下を手探りで漁っていた綾子はぴたりと動きを止める。 「もし、恋人や周囲を騙す事になるとして⋯貴方はその嘘を突き通すことが出来ますか」 これは聞いているのではなく、確認だ。出来ないと答えればどうなるのか。染み込むような静かな声音に綾子はゆっくりと振り返る。 「それは⋯一体どういう意味?」 「とりあえず、話は そう言って、緩やかに伸ばされた指の腹。均等に切りそろえられた爪を目前に、綾子は静かに瞠目する。細く、しなやかな指先。おそるおそる触れれば、強引に引き摺り出すつもりは無いのか丁寧な優しさで手引かれる。思ったよりも、しっかりとした男の指だ。 カツン。コンクリートに踵が付いたと同時に、男の指が離れていく。「それで?」焦れたようにそう言えば、男がふっと吐息で笑った。虚勢がバレた。一瞬、そう思ったがしかし男に揶揄うような素振りはみられない。 問いには応えず、ガレージの奥へと足を進める男と反して綾子は依然、脚を縫いつけたまま。暗闇に消える華奢な背中を視線だけで追う綾子には気付いているはずなのに、それでも男はなにも言わない。きっと、こちらの意志を確認しているのだろうと綾子は思った。付いてくるか来ないか、先ほどの言葉の意味を聞く勇気があるのかどうか──。 とはいえ、突如湧いて出た男の言葉に耳を貸す道理はない。差し出された手のひらをつい取ってしまったが、それよりも後部座席の下に取り残した初版本の方が綾子にとってはもっとも重要だった。もしかしてこの男も口止めの代わりに本を取りに来たのだろうか。じっとりと警戒を顕に立ち尽くす綾子に男が不意にすんと鼻を鳴らす。 「これだけ臭いと具合悪くなりそうですね」 「臭い?」 「ガソリン、臭いません?」 男に言われて、充満するオイルの匂いに綾子はようやく気付いた。息を吸って吐くだけでも鼻腔を突き抜ける臭いは、なぜ今まで気付かなかったのか不思議なくらい辺りに満ちている。 「あ⋯っ」それに気付いたと同時に綾子は蒼白とした。もしあの時、男が止めなければどうなっていたかは明白だった。ゾッと冷たいものが頭の先から足先までを一瞬で駆け抜ける感覚に綾子は唇を震わせる。ようやく己の身に降り掛かった現状を理解したであろう綾子の表情をじっくりと眺めて男は一拍を置いて静かに告げた。 「実は俺、怒ってるんですよ」 もちろん綾子さんにじゃありません。そう語る男の淡々とした声色に、綾子はゆっくりと視線を持ち上げた。薄暗いガレージの中、互いの顔も見えないはずなのに色素の薄い瞳が綾子をじっと見据えているのがなぜかはっきりとわかった。 「もう綾子さんもわかってますよね?」 仄かに射し込んだ月明かりが、男の顔を淡く照らす。帽子の下で柔らかく細まった瞳に、綾子はひくりと喉を引き攣らせた。車を中心に撒かれたガソリン。この場を指定した男は、綾子が口も聞けぬ灰になることを望んだのだ。両腕で抱くように身体を震わせる綾子に、男がゆるりと腕を伸ばす。そして告げた。 「このまま、引き下がってもいいんですか?」 唐突に、ピタリと震えが止まった。もし仮に、これが甘く囁くような言葉だったなら綾子は逃げだしていただろうし、"大丈夫""信じて"などという陳腐な言葉だったならそもそも綾子は耳を貸してすらいなかっただろう。あくまでも綾子の意思を尊重した、けれど挑発的な言葉に強ばった肩から徐々に力が抜け落ちるのを感覚する。 「⋯いいわけないでしょう⋯?!」 カツリ、と脚が動いた。月のように煌々と光る色を今度こそ綾子はしっかりと見返す。パシリッと打つように手を取った綾子の勝気な眼差しに、綾子は男がふっと口許を緩めたような気がした。 ← → back / top |