「なあ、頼みがあんだ」
「あら、もう此処には来ないんじゃ無かったの。──江戸川くん」

結果だけいえば、黒の組織は壊滅した。3年という長い年月を掛けて追い続け、ようやく彼等の尻尾を掴むことができたのだ。けれど結局、元の姿に戻ることはできなかった。彼等の悪事を世間に晒すことはできたのに、薬や研究のデータだけが綺麗に抹消されていた。

元々、灰原の知識のおかげで数十時間、工藤新一に戻ることは可能だった。だがそれも完全ではなく、その上、短期間の間に服用を続けたせいで抗体ができてしまった、らしい。それでも諦めきれず、灰原に研究を頼んで7年。それだけの歳月は人を変えるのにあまりにも長く、意欲を削ぐには充分だった。

「残念だけど、もう研究は辞めたわよ。それにたとえ解毒薬が完成したとしても、工藤新一の居場所は無いし、そもそも貴方が工藤新一を求める理由も──」
「んなこと、わーってる!...わかってんだよ。これでも、ちゃんと、理解してる」
「...そう。なら、一体なんの用?」

ようやく、灰原と目が合った。彼女の成長に合わせて新調した椅子が、足を組む動作に合わせてギシリと鳴る。最新のパソコン、崩れそうなほど積み上げられた資料、たった1年訪れなかっただけなのにまるで知らない場所みたいだった。

「薬が、欲しいんだ」
「だから、研究は辞めたって何度言ったら──」
「まだ残ってるんだろ?試作品」

灰原がハッと息を呑んだのが伝わった。「これで、最後にすっから」きっと、オレの表情はひどく歪んでいるだろう。片眉を上げてじっと見詰める、その頭の髄まで見透かそうとする視線を、ただ黙って受け入れる。カチコチと壁に飾られた時計の秒針の音がいやに耳について、たった一秒がこんなにも長く感じるのははじめてのことだった。
数秒後、ひとつ息を吐いて灰原がゆっくりと視線を剥がした。肺の中のものを全て絞りだすようなその深いため息が、干上がった胸にじんわりと浸透していく。それが灰原の答えだった。

「それで?」

灰原が机に付属していた引き出しをガラリと引いた。おもむろに取り出した、青と白のカプセルが入った小さなビニール袋を顔の横で左右に振って、灰原がすっと目を細めた。

「用途くらい、聞かせてくれてもいいんじゃない?」

積み重なる資料の上に無造作に放られていた、この空間にはあまりにも不釣り合いな純白の便箋には彼女の部屋を訪れた時から気付いていたし、彼女もそれを渡されているだろうとは思っていた。オレが部屋を訪れた意図も、解毒薬を欲しがる理由もわかってるくせにあえて尋ねてくる灰原は、オレ自身の口から話すのを待っている。グッと下唇を噛み締めて、爪先に視線を落としたオレをどうやっても逃がす気はないようだった。

「──結婚、すんだよ」

ハッと短い吐息を吐いて、招待状に向けたオレの視線を追うように彼女も瞳をゆるりと向ける。

「江戸川コナンじゃなく幼馴染として祝福してやりてーんだ」
「工藤新一としてなら、区切りが付くとでも?」
「···どうだろうな」

くしゃりと顔を歪めたオレに、灰原がピクリと眉を上げた。けれど、それが正直な答えだった。諦めたと言葉にしながら、どこかでまだ戻る方法があるんじゃないかと可能性を探すのも、戻ったところで工藤新一の居場所はないと理解しながらも待っていてくれるんじゃないかと願うのも彼を想うこの不毛な感情も、全てに踏ん切りがつくかと問われれば、わからない。それでも、これは一種のけじめだった。

「江戸川くんが参列していないのは不自然よ」
「わーってる!けど、」
「だから、江戸川くんで参列してから飲みなさい」

パシッと乾いた音で顔面に投げつけられたビニール袋を慌てて受け止め、ポカンと見つめる。灰原はもう、こちらを見ていなかった。カタカタとキーボードを打ちはじめた彼女に、礼を告げて背を向ける。「···感情なんて、あっても虚しいだけね」ポケットに突っ込んだ手をそのままに、ピタリと足を止めた。けれど、背後を振り返ることはしなかった。パタンと扉の閉まる音を背に、オレは彼女の部屋を後にした。

───


「正直、来るかは半々だと思ってた」

目の前の彼は、相変わらずの無表情でそう静かに口にした。突然、閑散とした式場の裏に連れ出したオレに驚く様子もみせず、されるがままに手を引かれていた彼はオレの行動などわかっていたのかと思うくらい、あまりにも無抵抗だった。今頃はきっと、式場内は騒然としているだろう。それなのに、まるで此処に居ることを望んでくれているのかと自惚れてしまうほど、彼は平然としてオレを見詰めていた。

「···そりゃ、幼馴染の晴れ舞台だしな」

オレはひとつ、灰原に嘘をついていた。元々、式に参列する気はなく、挙式を上げる前に工藤新一として彼と話す時間が欲しかったのだ。江戸川コナンで参列した後で薬を飲むという約束も破り、こうして挙式前の新郎を攫っているのだから彼女にも、そして新婦である蘭にもお咎めを受けるだろう。けれど、殴られる覚悟も、泣かれる覚悟も、彼女の研究部屋を訪れた時からとっくにできていた。

「それで?なにか話があるから連れ出したんだろ?」

そよそよと心地よい風が、ふたりの毛先を揺らして通り抜けていく。ひらりと裾を靡かせる純白のタキシードは、真っ白な肌も相俟って彼によく似合っている筈なのに、どこか儚げな印象を受けた。

「ああ、いや···その、」

伝えたいことは山ほどあった。そして一番に伝えたいことは決まっていた。なのに、俺の口から出るのは音にならない空気ばかりだった。

まごつくオレを彼はじっと待っていた。伝えてしまえばもう、以前のような関係には戻れないだろう。予想さえできる彼の反応に、オレの視線は徐々に靴先へと下がっていく。脳裏にチラつく拒絶の色が、オレの決心を徐々に鈍らせていた。

「俺も、暇じゃないんだけど」
「···わるい」
「謝ってほしいんじゃなくて」

くしゃりと前髪を掴んだオレの苦い表情に、彼はひとつ息を吐いた。それが責めているように聞こえるのは、オレ自身が情けなさを感じているからだろう。ゴクリと、唾液を嚥下する音が鼓膜に響いた。緊張に乾いた唇をオレはゆっくりとこじ開ける。

「──好き、なんだよ」
「···知ってた」

喉の奥から無理矢理絞り出したというのに、彼はそう平然とした口調で声を落とす。ゆるりと持ち上げた瞳にうつる彼は、眉すらも動かさずただそこに立っていた。伝えて仕舞えば、襲ったのは脱力感にも似た呆気なさで、そこから言葉を生むのは簡単だった。

「はじめて会ったときからずっと。馬鹿みたいにお人好しなとこも、不器用な優しさも、意外と繊細なとこも、ずっと、好きだったんだ」

ようやく伝えられた。それなのに、彼の瞳にうつるオレはひどく情けない顔をしていて自嘲するような薄笑いが浮かぶ。彼が一歩、近寄った。桃の香りのような、自然な甘さの含んだ柔らかな匂いがふわりと風に乗ってオレの鼻腔を擽っていく。手を延ばせば届く距離に彼がいるというのに、芽生えるのは虚しい感情だけだった。

「だから、奪いにきたんだろ?」

そう、静かに言った彼にオレの思考が一瞬、止まった。彼の澄んだ瞳に冗談を言っている様子はなかった。それは、つまり──。

「──奪っても、いいのか?」
「いいもなにも、俺は元々そのつもりだったし」

飄々と言ってのけた彼を、瞠目して見つめるしかなかった。

「毛利もとっくに気付いてるよ。お前がずっと悩んでたのも、言えない秘密も、全部わかった上でこうしてお前が言ってくれるのを待ってたんだ」

こうでもしないと、あの推理オタクは言わないから、だってさ。
つまり、どういうことだ?けろりと言ったみょうじの言葉に、ぐるぐると回る思考で唯一理解できたのはこの結婚式が偽りだということだけだった。ポカンと間抜けに口を開けたオレに彼は薄らと口角を上げる。

「俺に気を使う必要はないから。お前らが両思いなのは知ってたし、毛利が協力してくれって言うから付き合っただけだしな」
「はっ、?」

淡々と言う彼を、信じられない気持ちで見遣る。徐々に険しくなるオレの表情などすこしも関せず、「それ、ちゃんと毛利に伝えろよ」「お、おい⋯!」そう言って、背を向けようとした彼の腕をあわてて掴んだ。

「人が、どんな思いで、伝えたと思ってんだ···っ!!」

ギリッと奥歯を噛み締める音が、脳髄にまで響いた。掴んだ腕をそのまま、背後の壁に押し付ける。頭の隅では、みょうじが痛みに顔を歪めたのを理解していたのに、この時ばかりは気にする余裕がすこしも無かった。

「悩みも、秘密も全部気づいてる?!いーや、おめーは何もわかっちゃいねーよ!」
「なっ、──っん」

オレの気持ちはすこしも伝わっていなかった。それを理解した途端、カッと頭の芯まで上った熱に、思考すら捕らわれた感覚だった。顔を上げたみょうじの驚いた顔を視界に入れたのは一瞬。その薄い唇に、噛み付くように口付ける。吐息さえ飲むように深く啄んで、薄っすらと空いた隙間に舌を滑り込ませれば、彼の身体がビクリと跳ねた。「···ふっ、ん、」鼻にかかった彼の甘い嬌声が、唇の隙間から漏れ聴こえる。逃げる舌を追いかけて、教え込ませるようにただ無心で絡ませた。
オレの襟を掴んでいた彼の指先から徐々に力が抜けていくのがわかった。名残惜しむように唇を僅かに離し、鼻先が触れる距離で見やった彼の色素の薄い瞳には薄らと膜が張っていた。はっと荒い呼吸を整えている彼にゆるりと口角を持ち上げる。

「···オレが好きなのは、おめーだよ」

オレは、たとえ工藤新一に戻れなくても、オレの存在もこの不毛だった感情も彼が受け入れてくれるというのなら、他のことはどうだってよかったのだ。お前がそばに居てくれる、ただそれだけで。まるまると見開いた目尻から流れ落ちた涙を、親指の腹でそっと拭う。う、そだ。唾液で濡れた綺麗な曲線がそう形作るのに、切なく目元を下げたままオレはそっと触れるだけの口付けを落とした。もう、二度と離さないと心に誓いながら。






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