彼──みょうじくんは、確かにそう言った。志保、と知らないはずの私の名前を紡いだ薄い唇から、まるで縫いとめられたように視線が剥がせない。ぐちゃぐちゃに歪んだその表情は、はったりや冗談とは到底思えず「⋯お姉、ちゃん⋯?」私は、無意識にそう呟いていた。 「は、灰原さん!なまえくん!」 「なにしてんだ二人とも!!早く乗れっ!!」 たっぷりと焦燥を含んだ咆哮に、私はハッとタイマーを見上げた。時間はもう、25秒を切っている。「24!私のことはいいから、貴方は早く行きなさい!!」再び、カウントを再開しながら、焦れたように叫んだ私のことなど、彼は、まったく歯牙にもかけず、それどころかまるで置物のように佇んだまま、一向に動こうとはしないのだ。 「あなたねぇ⋯っ!死にたいの?!!」 いい加減にしろ、と。癇癪を起こした子供のように、湧き上がる感情のまま、怒鳴りつけた私を彼はただ射抜くように見詰める。その鋭利な瞳には、もう悲痛の色は浮かんでいない。 「それはこっちの台詞なんだけど」 彼が、冷たく言い放った。「死ぬつもり?」ゆるりと首を傾げた彼の仕草に合わせて、遊ぶように耳の横でゆらゆらと毛先が揺れている。前髪の隙間から見え隠れする瞳には、なんの温度も宿してはいないのに、私にはそれがまるで責められているように感じられた。 「そんなことより今は脱出することが先決でしょう?!」 ずっと、彼らが叫んでいる。彼が乗らない限りはきっと、江戸川くんはアクセルを踏まないだろう。このままでは、私の決意も覚悟も、なんの意味もないただの泡となる。時間は、20秒を切っていた。じわじわと迫る焦燥に「お願いだから、私のことはほっといて⋯──」そう、声を荒らげた私を、彼はちょっとだけ困ったような仕方ないと言ったような、やけに大人びた表情でうっすらと笑った。 「悪いけど、そういう訳にもいかないんだよね」 「えっ?!なにっ⋯?!」 突然、掴まれた手首に、私はひどく瞠目した。焦燥と、わずかな苛立ちからすっかり油断していた身体が、軽々と椅子から引き剥がされる。突然の浮遊感と、ぐるりと回った景色に、悲鳴をあげる暇はなかった。「おい、みょうじ!もう時間がねえ!急げっ!」「わかってる」その、やけに近くで聴こえた淡白な声色と、微かな息遣い。鼻腔を掠める柔軟剤の香りと、見上げた視界にうつる白皙の横顔に、私はようやっと抱えられていることを理解した。どこにそんな力があるのか、華奢な姿からは想像がつかない安定した足取りに、目を丸める私に構わず彼がゆるりと口を開く。 「⋯約束したんだ」 「え?」 「妹想いの、うるさい人と」 それは、一体、誰のことか。しかし、尋ねることはできなかった。苦しげな息を吐いた彼が、車から降りて迎えに来たのだろう小嶋くんに投げるように私を託したからだ。再び、浮遊した身体に、今度こそ私は悲鳴をあげる。「うぉ?!」「任せた」疲れたように息を吐いた彼は、ポンっと小嶋くんの背中を軽く押した。そのまま、並行して走る彼をぼんやりと見上げる。──「生きてっ、志保っ!!」何故か、彼の姿と姉の姿が重なってみえた。 ・ ・ ・ バシャーン!と噴水のように立ち上る水飛沫と、あがる悲鳴。それらを一身に浴びながら、俺はどっぷりとした息を吐いて座席にしなだれた。疲れた、その一言に尽きる。 結局、江戸川の作戦は、無事に成功で幕を下ろした。また無茶な提案をと思ったが、それ以外に手がないのもまた事実だった。江戸川自身も成否は五分五分だったのだろう。鍵となるのはタイミングだったが、それも吉田の特技によりなんとかプールに着水できたわけで。 どうしてもっと早く志保を連れ出さなかったのか。そう耳元でぎゃんぎゃんと喚く彼女から、うるさいとばかりに耳を塞ぐ。俺だって、あんな無茶はしたくなかった。捨て置くつもりはさらさらなかったが、それでも、決心の固い彼女を連れ出すにはああして意表を突くしかなかったのだ。それに、彼女の本意がどこにあるのかも知っておきたかったし、なにより、私なら志保を説得できるというから身体を貸してやったのに。そう、じっとりと責めるような視線を向ければ彼女は途端に視線を逸らした。なにかを見つけたようなわざとらしい芝居で、ふよふよと逃げるように灰原の元へ行った彼女に、俺ははあとひとつ息を吐いて瞼を閉じる。 志保。それが本当の彼女の名前だろうか。小学生にしてはやけに落ち着いていると思っていたが、彼女も江戸川コナンと同様に、なんらかの理由で身体が退行してしまったのだろうか。年の離れた姉がいるといわれるよりも、そちらの方がしっくりくるような気がして、頭が痛くなるような感覚にぐりぐりと米神を抑える。彼女になにを言われるのか、それを考えれば億劫で、ぐったりと後部座席に凭れたままの俺に「おーい!なまえくーん!」プールサイドから声があがった。 「なにしてんだよォ〜!」 「はやく来ないと、車、沈んじゃいますよ〜?」 緩慢に瞼を持ち上げれば、プールサイドからちいさな三人がこちらに向かって手を振っていた。沈む、といった円谷の言葉どおり、車はぶくぶくとフロントから徐々にプールに沈んでいる。 「あー⋯今いく」 ゆったりとそう返しながら持ち上げた身体は、水を含んでいるからかやけに重く感じた。結局、今回の一連の殺人はあの老人の犯行だったようで、一緒に脱出した彼は、その場にいた警部に自白し、潔く連行されていった。なら、爆弾を仕掛けた犯人は一体、誰だったのか。死を選んだ彼女とも、なにか関係があるのだろうか。「おい、どうした?」そう、考え込んでしまった俺の目前に、ひょっこりと江戸川が現れて思わずぱちりと目を瞬く。 「もしかして、泳げねーのか?」 プールに漂いながら、江戸川が首を傾げた。プールサイドに目を向ければ、心配そうにこちらを見守る彼らの姿と、いつも通りの澄ました表情がじっと様子を伺っていた。「いや⋯、そういう訳じゃないけど」江戸川に視線を戻して、そう答える。 「なら、早く来いよ」 そう言って、江戸川が手を差し伸べた。わざわざ迎えに来たのだろう彼にすこしだけ逡巡して、俺はちいさく息を吐くと諦めて手を重ねた。こういう優しさも、彼を英雄視する遠因なんだろうな、と頭の端でそう思いながら。 ・ ・ ・ プールサイドにあがった俺を、彼らは笑顔で出迎えた。「なんだよ、おめえにも苦手なもんがあったんだなァー!!」背中をバンバンと叩いてくる小嶋のそれは、無邪気を通り越してもはや暴力である。張り付いた衣服から伝わる衝撃にうっと小さく呻いた俺に「元太くん!なまえくんが折れちゃうよ!」吉田がつよい難色を示した。「そうですよ!元太くんの馬鹿力で叩いたらなまえくんの細い身体なんて粉々になっちゃいます!」「そうかァ?ちゃんと飯食わねえからだろ」「もう!元太くんじゃないんだから!」彼らには、一体、どれだけ軟弱に見えているんだろうか。言い合いをはじめた三人から、そうげんなりとした気分で視線を逸らせば、毛利さんが無惨な姿になった賞品の車に悄然としてプールに落っこちたところだった。 「ねぇ、ちょっと。話があるんだけど」 ケラケラと笑う江戸川や、毛利蘭を尻目に、すっと忍び寄ってきた灰原に、俺はピクリと身体を強ばらせた。「⋯なに?」そう答えながらも、面倒臭いというのが表面に滲み出ていたのだろう。わずかに片眉をあげた彼女は、いつもの冷淡な表情を潜めて鋭い眼差しで俺を射抜く。 「さっき、志保⋯って、そう、呼んだわよね?」 「⋯言ったっけ?」 とぼける俺に、彼女は更に眼光を強めた。それは、すこしでも気を弛めたら呑まれてしまいそうな、わずかな変化も見逃すまいとするじっくりと探るような視線だった。 緩やかに流れる水の表面をただ無言で眺める俺に、彼女は一拍の後、「⋯そう。⋯なら、もう詮索はしないわ」諦めたように瞼を伏せる。灰原自身、聞かれたくないことがあるんだろう。互いの為にもきっと、踏み込まないのが正解なのだ。 これが江戸川なら構わず追求してくるんだろうな、そうぼんやりと思いながら、尚も視線を向けない俺に「けど、ひとつだけ教えて」彼女の凛とした声が問うた。 「一体、どんな約束をしたの?」 ゆるりと視線を向ければ、熱の篭った、けれど、そこはかとなく愁いを孕んだ瞳とかち合って、俺は思わず目を丸めた。「まさか、守ってあげてって?」そう、うっそりと口角を持ち上げて、自嘲的な笑みを浮かべた彼女の、逸れた瞳が切なげに揺れる。 「⋯いや、そんなんじゃないよ」 俺はつい、口を開いていた。思考の端に過ぎるのは、彼女によく似た、けれどまったく違う色を持つ、一層つよい眼光だった。 ──「妹に何かあったら、一生付きまとって耳元でずっと叫んでやるわよ!」── 脅迫地味たそれは、あっさりと俺の耳殼を震わせた。綺麗な顔を歪ませて、たっぷりと膜の張った瞳をそれでも懸命に釣り上げる彼女と視線が交じ合った時、俺はたぶん、自分が思うよりもずっと衝撃を受けていたんだろうと思う。こんなにも鮮明に、姿が見えたのは初めてだった。 ──「お願い、志保を独りぼっちにさせないで」── だからだろう。あの時、全員で脱出の準備に取り掛かっていたあの瞬間、誰かを想うまっすぐな瞳に俺は確かに頷いたのだ。 「ただ、独りにさせないでって、そう、お願いされただけ」 静かにそう言った俺に、彼女はゆるりと目を瞬いた。⋯そう。とそれだけを吐いた彼女の表情は、前髪に隠れてわからない。「⋯ありがとう、みょうじくんのおかげで助かったわ」空気に溶け込みそうな程、ちいさな呟きだけを置いて、灰原はくるりと踵を返した。その背後では、彼女が肩を小刻みに震わせて穏やかに笑ってる。「私からも、ありがとね。小さな英雄さん」そう言って朗らかな様子で手を振って灰原を追いかけた、その対照的なふたりの背中に「⋯英雄なら、あっちに居るんだけど」俺は呆れ気味に呟いたが、届いたかどうかは分からない。 ← → back / top |