分厚い壁を隔てたような騒音が、ゆっくりと脳髄に浸透していく。不確かで、曖昧な音のさざめきがようやっと明瞭なものとなった時、痛みを訴える神経よりも真っ先になまえが思考を馳せたのは、鮮やかな赤がよく似合う己が引き込んだ女のことだった。じわじわと薄い瞼を刺激する照明の熱にぴくりと睫毛を震わせて、無事に身を隠しただろうかとなまえは思う。 猶予は、なかった。躊躇いもなかった。なし崩しで荒削りの計画に、彼女を巻き込むことになまえは一片の迷いも抱かなかったのだ。そうしなければ、彼女はまた狙われる。だからこそ、失敗するわけにはいかなかったのに、けれど、数分とはいえ気を失っていたなまえには現状がさっぱりわからない。すぅと浅く吸い込んだ呼気に「───なまえ兄ちゃん?!」誰かがが叫んだ。 ──薄ぼけた視界に、海を凝縮したような紺碧が広がった。しかし、それがナニカを認識するよりも素早く、視界が瞬時に切り替わる。 「おい!一体なにがあった?!」 瞬く間もなかった。まるで、襟首を掴むような勢いで身を乗り出した小五郎の形相に、なまえは焦点の合わない視界をぱちりといちど閉じ込める。再度、彼が問うた。吐息が掛かる距離で、腹から絞りあげたような怒声に寝起きの脳を揺さぶられながらも、いまだ上手く定まらない黒目をなまえはぐるりと周囲に散らす。 「ちょっと!お父さん!!」 「おいっ、おっさん!怪我人やで!!」 再び、視界が切り替わった。チカチカと瞳を刺激する照明を遮るように、ぬっと頭上に現れたのは涙に濡れた双眼だった。「良かった⋯っ!もう!心配したんだから⋯っ!」ぽつり、と頬に落ちた雫が肌を伝って床に落ちる。ぱちりと合った視線に、途端、どっと滝のような涙を振らせておいおいと泣き崩れる彼女になまえはひと言、謝ろうとして上手く声が出ないことに気がついた。おそらく、煙を吸い込んだからだろう。軽く咳き込んだなまえに、蘭が更に顔を歪める。 「おい、無理すんなや」 「⋯だい、じょう、ぶ」 我ながら、なんとも情ない声色だとなまえは思った。無理やり絞り出した声はひどく掠れていて、伝わったかも怪しいが、それでも服部はなまえの意図を汲んで身を起こすのを手伝ってくれた。「はい、なまえ兄ちゃん」そうして差し出された水のグラスに、まるで重病人だなと思いながらもなまえは煽るように喉を潤す。 一方で、こくりこくりと、動く喉仏をコナンはじっと眺めていた。本人は至って平然とした装いをしているが、その顔色は未だ蒼白い。おそらく、焦点も定まっていないのだろう。もしかしたら、身体に力も入っていないのかもしれない。零さないようにか両手で受け取ったグラスの水面は、ゆらゆらと波紋を生んでいてわざわざ手を握らずとも震えていることが伝わった。ほんとうに隠すことが上手い奴だとコナンは思う。自分のことは二の次で、いや、そもそも優先順位にすら入っていないのかもしれないが、兎に角、いざとなったら足の骨が折れていたって他人のために身を削るのがみょうじなまえという人間なのだ。だからこそ、コナンは聞かなければならなかった。起きたことに安堵して、その身を案じて、安静にするよう促している蘭には悪いが、ちゃんと問い詰めておかなければならなかった。それは探偵だからではなく、好奇心からでもなく、もう二度と違えたくないからで。 「──ねえ、なにがあったの?」 空になったグラスを置いたなまえから向けられた視線は、やっぱり少しだけ振れていた。 「──コナンくん!!」 蘭が、叫んだ。咎める蘭の視線をも振り切って、コナンは射抜くようになまえを見詰めた。上手く定まらない視界でも、澄み切った空のような紺碧ははっきりとなまえにもうつった。 「⋯綾子さんは?」 今度はちゃんと喉が震えた。その事に、少なからず安堵を落としてなまえはぐるりと黒目を動かした。どうやら、ずいぶんと注目を集めていたらしい。さっと俯いた、並ぶ顔ぶれの中に綾子の姿はなく、代わりに、ひどく目元を腫らせた戸叶の姿を視界に捉えなまえはゆっくりと紺碧に視線を戻す。 「⋯綾子さんは、亡くなったよ」 鷹揚に瞑目した後、はっきりとそう告げたコナンにぐすりと蘭が鼻を啜った。脳裏に浮かぶのは黒く、焼け焦げた綾子の遺体。⋯そう。静かに呟いたなまえの、長い睫毛が微かに揺れる。 「で?結局、何があったんや?」 存外、近くから掛けられた問いになまえは服部をちらりと見遣った。それから僅かに考えあぐねるように視線を下げ、ゆっくりと開いたその薄い唇に、誰かがごくりと唾を飲む。 「⋯綾子さんが部屋から出て行った後、俺はすぐに追いかけた。けど、間に合わなかった。それだけ」 拍子抜け、とはまさにこのことだろう。いまだ顔色は悪いが、それでもしっかりとした抑揚ではっきりと告げたなまえに、誰もがどっぷりと詰めた息を吐き出した。「そんだけって⋯」そんな中、服部だけが、あからさまに呆れた視線浮かべてぐっとなまえとの距離を詰める。 「なんか他にもっとあるやろ!ガレージに誰かおったとか、怪しげな行動しよったとか!」 「見てない。てか、そもそも俺がガレージに入ったのはちょうど爆発が起きた時だし──」 「お前が!!お前が綾子を殺したんだろ!!」 突如、なんの前触れもなく落とされた怒号になまえと服部は揃って口を縫い合わせた。コナンも、そして蘭までもが涙を引っ込めて、まるで般若のような形相でなまえを睨めつける戸叶の表情をまるまると目を見開いて凝視している。 「そうだ!!元々、綾子を殺すつもりで追い掛けたんだろ?!お前以外、全員オーナーの部屋に居たんだ!!あの時、火をつけれたのはお前しかいないじゃないか!!」 「うーむ⋯確かに。戸叶さんが言うことも一理ありますな」 「なまえがそんな事する訳ないじゃない!!」 蘭が噛み付くようにピシャリと吠えた。娘の睥睨した視線に小五郎はうっと僅かにたじろいで、それから執り成すようにコホンとひとつ咳を打つ。 「いやいや蘭、よく考えてもみろ。爆発が起こったあの時、彼以外、全員一緒に居たのは間違いないんだ。つまり、彼以外に犯行は不可能ってことになる。となれば、オーナーと綾子さんを殺害した犯人はこのボウズだと考えるのが妥当だろうな 」 「それじゃあお父さんはなまえが、容疑を向けられない為にこんな怪我したっていうの?!」 顎に指を添え、あたかもそれが正解かのように紡ぐ小五郎に、蘭が湧き上がった苛立ちのままダンッ!とおおきく床を鳴らした。ミシリッ、と悲鳴を上げた木の板に小五郎がぎょっと顔を引き攣らす。「いやぁ、だから、そう考えるのが自然だっつーはなしであって⋯」まさにしどろもどろ。痛々しくしなった床板と、娘の顔とを見比べて、青ざめながらも尚、可能性を口にする小五郎に、服部とコナンが援護とばかりに口を開いた。 「あのなぁ、おっさん。綾子さんの件はともかく、オーナーが死んだときはなまえも一緒におったんやで?」 「それに、なまえ兄ちゃんに火をつけるのは無理だよ。だって、なまえ兄ちゃん火をつける道具なんて持ってないんだもん」 「うっ⋯それは⋯あれだ、なにかしらのトリックを使ってだな⋯!!火は、綾子さんのライターを無理やり奪って着けたとか⋯⋯と、とにかく!我々の中でアリバイが無いのはコイツだけだろーが!」 「そのトリックっちゅーのがわからんからこっちは困っとるっちゅーのに⋯」 「でもおじさん、それだと、金谷さんの件はなまえ兄ちゃんじゃなくても犯行が可能だったって事だよね?火も、奪って着けたんだったら綾子さんが後部座席に倒れてたのは変だよ」 「ええーーい!!うるせぇーーー!!ガキが大人の話しに口挟むんじゃねーよ!!」 ガツンッ、と勢いよく頭上に落とされた鉄槌にコナンと服部は揃って頭部を抑え込んだ。なんでオレらだけ。そう思うものの事実、小五郎の推理は穴だらけなのだ。それなのにまかり間違ってなまえが犯人に仕立てあげられたんじゃたまったものじゃないとふたりは思う。とはいえ、綾子の件に関してだけいえばなまえは被害者であり、一番の加害者であるのは違いなかった。そしてそれをなまえもちゃんと理解していたが、探偵たちの怒涛の応酬に唖然と押し黙っていることしかできなかった。さすがに、あの嵐のような会話に好んで飛び込むような勇気はない。呆気に取られていた、ともいえるが、とにかく、自演自作を指摘されるのも予想していたなまえにとってはむしろ、彼らがここまで食い下がることの方が遥かに予想外だったのだ。だから、という訳でもないが、小五郎をじっとりと睨みあげる不貞腐れた眼差しに、なまえはつい押し殺すような笑いを上げていた。 「おい、ボウズ!なにが可笑しい?!」 「なまえ兄ちゃん⋯??」 顔を俯け、口許を抑え、くつくつと喉を震わせるなまえに困惑したような、怪訝な表情が向けられるも、しかし、なまえにはそれに答える余裕などなかった。自然とこぼれ落ちた笑いを引っ込めるほどの器用さは生憎、持ち合わせていないのだ。「⋯ごめっ⋯ふはっ」箸が転がるのもおかしいとはよく言ったもので、一度、堰を切ってしまえばしゃがみ込み、頭部を抑えたままあんぐりと口を開けたそっくりなふたりの姿を視界に捉えるだけでもじんわりとした笑いが込みあがってくるのだから、こればかりはどうしようもない。 そうして、ようやく収まった笑いになまえがたっぷりと溜まった目尻の涙を拭った頃には、先程のなまえを責めたてるような空気はなぜかすっかりと消沈していたのだった。 ← → back / top |