それは、吐息が零れたような、静かな笑声だった。不安と、熱の燻る室内に落とされた場違いな失笑。突き刺さる視線も、内に孕む緊迫感も一蹴して、くつくつと肩を揺らすその姿に、彼はこんな表情で笑うのかと、オレは瞬きを忘れて魅入っていた。おそらく呆けているのはオレだけでなく、オレと違い、それは場違いな笑声に対する驚愕だろうが、残念ながらそれを視認する余裕なんて少しもなくて、くしゃりと垂れた瞼を、微かに振れる睫毛を、動きに合わせて左右に揺れる前髪を、オレはただただ長い間、吸い込まれたかように凝視していた。 「⋯まあ、これといった証拠もねぇしな⋯」 我に返ったのは、そんな溜まった熱を逃がすようなどっぷりとした溜息のおかげだった。ぽりぽりと後頭部を指の腹で搔きながら、毒気の抜けた表情で言ったおっちゃんに、固まった空気がようやく解けていく感覚がする。あからさまに安堵を零したのは蘭で、「もう、当たり前じゃない⋯!」すんっとちいさく鼻を鳴らした彼女に、オレも、そこで漸くなまえから視線を引き剥がした。 「それじゃあ綾子さんは一体誰が⋯?」 「うーむ。彼でもない以上、やはり、オーナーの仕業でしょうな」 気づけば、すっかりなまえは容疑者から外れていた。服部とオレの援護の甲斐もあってか、突然笑いだしたなまえにも特に訝しむこと無くすんなりと話しは進んでいく。とはいえ、おっちゃんの推測はだいぶ見当違いではあったが、ともかく、なまえが矢先から外れたのはオレにとっても肩の力が抜けるくらいにはいい誤算であった。 「とにかく、我々の中に犯人はいないことはハッキリしたわけですし、いまは大人しく夜が明けるのを待ちましょうや」 「そ、そうね⋯」 「それじゃあコーヒーか、なにか冷たい物でもお出ししましょうか?食べる物はお中元で頂いたお菓子があると思います」 「あ、私も手伝います。なまえになにか温かい物、飲ませてあげたいですし⋯」 「じゃあ自分も行きましょう!女性だけでまた狙われたら心配だ」 「じゃあ僕も。もう綾子のような犠牲者は出したくないからね⋯」 使用人の言葉を皮切りに、蘭と川津さん、そして戸叶さんが連れ立って厨房へと消えていく。場は落ち着いたとはいえ、いつまたなまえが犯人だと喚き立てるかと内心冷や冷やしていたが、戸叶さん自身、すこし頭が冷めたのだろう。未だ憔悴している節はあれど、取り乱す様子はなくオレはひっそりと息を吐いた。 まったく、なにからなにまで心臓に悪い。そんなオレの心労も知らず、ようやく笑いの虫が引っ込んだらしい当人はまるで部外者のようなツラをして、平然と事の成り行きを眺めているのだから、腹立たしいを通り越していっそ感心すらしてしまうほど。脆弱で、儚い風貌とは裏腹に、意外と図太い神経の持ち主であることを、オレは、ここ数日で嫌というほど理解していた。そして、それは、自分自身のことには無頓着、てんで関心が無いからこそなんだろうとも。 「え、なに?」 「ううん、なんでも⋯」 突然、渋い顔をしたオレになまえが眉をひそめた。なまえは感情の起伏が薄いというだけで、よくよく見ればわりかし表情筋は働いているし、眠いだとか嫌そうだとか、そういう類の感情は存外分かりやすい。とはいえ、平常が無であることに違いはなく、精巧な容姿も相まって相手にドライな印象を抱かせるのだろう。オレからすればどこがだと鼻で笑ってやりたいくらいだが、かく言うオレ自身、彼の平常にはたびたび騙されてしまいがちだし、意図的に表情を隠されてしまえば、綾子さんの件の時のようになにも気付いてやれないのだ。それはそれでオレの中では事案だったりもするのだが、そもそも意図的に隠す時点で、誰かに相談するつもりも頼るつもりも無いのだからこちらの心境としてはおいてめぇふざけんなである。 とにかく帰ったら速攻で病院にぶち込むことを決意してオレはなまえから意識を逸らした。服部は未だ「⋯なんやおまえもちゃんと笑えるんやないかい」と衝撃を受けた表情のまま「もったいないなぁ。もっとわろたらええのに。いつもの顰めたぶっさいくな顔よりぜんぜんええやん」と褒めているのか微妙な言葉を投げつけて、なまえから盛大な顰めっ面を喰らっている。一方、中央にあるダイニングテーブルでは、相変わらずおっちゃんの頓珍漢な推理が繰り広げられているのだが、大それた肩書きを持つせいで、大半の人はオーナーが犯人だとすっかり信じきっているようだった。 「でも犯人が本当にオーナーだとしたら、なぜ死んだフリをしてまで綾子さんを殺したのかしら?」 「さあね⋯動機にもいろいろありますから。これがみんな、オーナーの推理クイズだという可能性もありますし⋯」 「推理クイズ⋯?」 「ええ、最初の偽装殺人でみんなを驚かせ、次にガレージを燃やして恐怖心を煽り、犯人は誰かを考えさせるクイズ⋯。だが、運悪くガレージに綾子さんが来てしまった。それに気付かなかったオーナーは火を付けてしまいドカーン!⋯人を殺してしまい、綾子さんを探しに来たボウズまで怪我させたとあってきっと、出るに出られなくなってるんですよオーナーは」 やれやれと呆れた口調で、しかしどこか得意げに推理を披露するおっちゃんにオレはつい胡乱な視線を向けた。まーた性懲りもせず適当なこと言ってらァ。そもそも、オーナーが車に乗っており、その車が崖の下に堕ちたところを子供のオレはともかく、なまえと服部が見ていると言っているのに、なぜこうも犯人に仕立て上げようとするのか。運転席に座っていたオーナーは確実に生身の人間であったし、あれがもし作り物だというなら、綾子さんの焼死体の方がよっぽど人間の死体とは思えないほど、焼け爛れた、歪な形状をしていたというのに───⋯あれ?そういやあ綾子さんってあんな小さかったか⋯?──微かな違和感がそう、脳裏に過った時だった。 「す、推理クイズだと⋯?!ハハ、バカな、そんな訳があるか⋯!!」 ← → back / top |