いずれは名探偵として名を馳せて、自身の名を入れた看板を高々と掲げるのだろう。そう、当たり前のように思っていた。きっと寝る間を惜しむほど事件に追われ、そしてオレを想い続けてくれた幼馴染と結婚し「おかえり」と出迎えてくれる家族が増える。そんな平凡でありふれた日常が訪れることをバカみたいに信じきっていたのだ。 けれど結局は毒薬を飲まされたあの日からオレの身体は縮んだまま。ついには小学校を卒業し、中学校に進学してからも全てに決着がつかないまま、自身への不甲斐なさ、焦り、恐怖、無力感──様々な苦い感情を抱えたオレを置いて無情にも時間だけが進んでいく。滑稽だった。あれほど息巻いたというのに、信じろと言ったくせになにひとつ報いることができず、なのにのうのうと仮面を被り続ける自分がただただ情けなかった。そうしていつしか、成長に伴い工藤新一へと近づくオレに向ける蘭の目が、周囲の反応が、枕に顔を埋めて枯渇する姿が、まるで見えない矢に責め立てられているかのようでろくに顔を上げることさえできなくなっていた。 「なに?また家出?」 二学年に進級したのを皮切りに、逃げるように転がり込んだオレを僅かに見開いた瞳でそう出迎えながらも、なまえは呆気なくその扉を開けてくれた。蘭の元を離れる、そう決意したオレの頭に真っ先に浮かんだのは彼だった。長期滞在を頼み込むオレになまえは訝しみながらも決して理由を尋ねることはせず、ただ黙って受け入れる。その空気感が心地よく、この時、漸くまともに息が吸えたような気がしたのだ。 蘭が、知らない奴と笑顔で歩く姿をはじめて見たのもこの時期だった。裏切られたとそう奥歯を噛むのはお門違いで、いつまでも健気に待っていてくれるだなんてだらだらとぬるま湯に浸っていたオレを、ついに現実が殴りつけたのだ。好きだった、たぶん地球上の誰よりも。けれど、オレ以外に見せる笑顔に湧き上がったのは嫉妬でも憤りでもましてや哀しみでもなく、母親に手を離されたときのような喪失感。突然手放された温もりを必死で追い縋る子供のような愛情に虚しさだけが込み上げる。好きだった、けれど結局はそうじゃなかった。隣にある笑顔にオレを想う涙に安堵して、ただ"工藤新一"を求める彼女の存在に居場所を見出しずっと甘えていただけだったのだ。 愛情を履き違えた、そう気づいた時にはなにもかもが遅すぎた。必死に繋いでいた温もりにも縛り付けていた言葉にも、なんの意味もなかったのだ。雨の中、仲睦まじく歩く姿にひとつ胸のつかえが取れた感覚に、取って変わった罪悪感が怒涛のように押し寄せる。 「⋯ねぇ、なまえ兄ちゃん⋯」 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨は、まるであの日のようだった。なに。頭上に落ちるいつもの通りの声色がやけに冷たく突き刺さる。 「⋯なあ、どうやったら償える⋯?」 あまりにも身勝手で、残酷で──。視線は、たっぷりと雨を含んだ靴先に貼り付けたまま。ぽたりぽたりと玄関の床に染み込む水滴をただ無心で見詰めるだけの視界が、突然、白に覆われた。それがバスタオルだとわかったのはすっぽりと頭から被せたそれでなまえが乱暴に髪を掻き乱したからだ。 「ちょっ、いた⋯!」 「なにがあったかは知らないけど」 ぽつり。またひとつ、水溜まりに落ちた水滴が溝に沿って流れていく。 「この先どう生きていくかなんて、そんなの自分次第だろ」 「⋯そう、だね⋯」 「わかったならさっさと風呂入って」 ───こんなどうしようもないオレを、どうか一生許さないで欲しいと願うのだ。 大学院に進学したなまえが帰宅するのはだいたい日付が変わる頃だった。本来、継ぐはずだった父親の病院も蹴ってよぼよぼの年寄りばかりが通うちいさな病院で実習を受けながら、変わらず派遣のバイトを続けている彼と顔を合わせるのは一緒に暮らしているはずなのにあまりなく、これ以上負担にはなりたくなからとカップ麺ばかりを食べていたオレに彼が呆れたような眼差しを向けたのはまだ記憶に新しい。なまえの作る料理が案外美味いと知ったのもこの時だ。 「なあ、聞いてもいい?」 「なに?」 「なんで彼女つくんねーの?」 帰宅して早々ベッドに飛び込むなまえにしては珍しく今日はまだ眠らないらしい。一緒に飲む?なんて上機嫌でビールを呷る彼の誘いを丁重に断ればちいさく不服を訴えられる。ふつう未成年に酒勧めるかよなんてぼやきも届かないほど、どうやらだいぶ酔っているようだ。 「⋯そんなの、いらないよ」 あの日から、オレが欲しいと思うものなど何もなかった。殺風景なこの部屋も、与えられる空間も、ひとりちいさな食卓でほんのりと暖かい飯を食べるのもオレにとっては贅沢で。ふーん。とくに興味もないのかなまえはそう言って二本目のプルタブをぷしゅりと開ける。 「そういうなまえ兄ちゃんは?」 「忙しい」 ばっさりと一言で片付けたなまえに、つい失笑がこぼれた。まあそりゃあそうだろーな。大学院にバイトに病院、おまけに空いた時間でオレの飯も作っていればそんな暇ある筈もない。もったいない。そう思っているのはきっとオレだけじゃないだろう。どれかを切り捨てればいいのに、どれもを切り捨てない傲慢で強欲でいい意味で諦めの悪いなまえに惹かれる奴はけして少なくはないのに、けれど、それをいまいちばん近くで知って感じているのはオレなんだろうことを思えばなんだか滑稽だった。 「まあ、でも⋯古い友人に会うくらいの時間はつくれるよ」 ゆらゆらと鼻先でアルミ缶を振るなまえの言葉に、ぱちりと空気がはじけた感覚がした。それは一体誰のことか。驚愕に声を失うオレの心情など気付きもせずなまえはうっすらと口角を持ち上げる。やけにしなやかな指先がこめかみに触れたと気付いたのは、重たい眼鏡を抜き取られてからだった。なんの隔たりもない宝石のような瞳を間近に吸い込まれそうだなんて馬鹿な思考が一瞬、脳裏を掠める。 「たまに、生きてんのかなって心配くらいはするし」 そう唐突に切り出したなまえは、まるで知らない奴のようだった。取り返すことすら忘れ、赤い舌が動くのをただ呆然と見つめるだけの瞼とは反して心臓が荒れたように脈を打つ。わずかな苦い表情は、前髪に隠れた瞳の揺らぎは、淡い期待からの幻想か。「もしかして⋯それって、新一兄ちゃんのこと⋯?」いまはただ、ばくばくと急く心音すらも煩わしい。 「元気ならそれでいいんだけどさ」 なまえは肯定も否定もしなかった。こくり、と静かに動く喉仏がオレの期待を持ち上げる。仄かに赤らんだ首筋も横顔に掛かる髪の毛も、オレはどこかでずっと手を伸ばしてはいけないもののように感じていた。無意識下では彼の纏う空気の心地良さに縋っていて尚、オレなんかが触れてはいけないもののように思っていたのだ。それなのに、彼が手を伸ばす範囲にはどうやらまだ、オレはいるらしい。 「⋯新一兄ちゃんがいなくて淋しいの?」 「いや、ぜんぜん」 恐る恐る、けれど確かな期待を滲ませて告げた問いはずるりと肩が落ちるほどやけにあっさりと切り捨てられた。あっ、そう⋯。もはや笑いすらでてこないほど、身体を巡った脱力感に小さく失笑を零し机に突っ伏した俺を、けれど彼は許さなかった。ぐっと僅かに引かれた手首に再度、視線が絡まり合う。 「寂しくない、は本当。だって俺には手のかかるお前がいるし」 「...え、」 「いつかひょこり帰ってくんじゃねーかな、なんて未だに思ってんだけどさ。もし顔見せたら、心配させんなばかやろーって言ってやるつもり」 だから、それまでお前と気長に待ってようかなって。そういって平然とビールを呷るなまえにオレはただ口を噛むしかなかった。じわりと胸を占めるのは喜びかそれとも。様々な感情が押し寄せてはぐるぐると脳内を闊歩する。そうして残ったのは苦しいほど持て余す懸想で。ああ、もうおめーはほんとに。普段なら絶対聞けやしなかった幼馴染みの本音にそう胸中でごちて、彼の肩口に顔を埋める。 オレは、心のどこかではずっと、江戸川コナンとして生きることを渋っていた。受け入れるしかないと諦めたフリをしながらも、それでも目が覚めたら元の姿に戻っていることを願っていた。それはこの身体が不便だからとかではなく、ただ単純に工藤新一の存在が消えていくのが怖かったからだ。とはいえ、今更、どちらかを選べと言われたらやっぱりオレは迷ってしまうんだろう。それぐらいオレにとってはどちらも大切で、つまり、オレはずっとどちらも消したくなかったのだ。 まったく、人の心情も知らねーくせに。酒のせいだろう、こめかみから伝わる通常よりも熱い体温にオレはちいさく苦笑をこぼす。たぶん、好きなんだろう。いやきっと。こんなにも膨大な根を張り、花弁を開き、すっかりと巣食っていた彼の存在が欠かせないものになっていたのは一体、いつからだっただろうか。 黙ったまま額を預けるオレに、彼は何も言わなかった。当たり前のように欲しい言葉はくれるくせに、こちらの行動は彼の眉ひとつ動かすことは叶わない。「ねぇ、なまえ兄ちゃん」そう、静かに呟いたオレに彼が首を傾けたのが気配で伝わる。 「え⋯───」 交じり合った、互いの視線。ブレた視界に、なまえの色素の薄い瞳が驚きで見開かれたのがわかった。洩れた驚きの吐息ごと、呑むように薄い唇にかぶりつけばなまえが更に瞠目する。無防備なその表情にオレは思わず笑ってしまった。それはようやく崩せた表情への満足感からでもあったし、蘭に対する罪悪感や己の気持ちと向き合う覚悟からでもあったし、足が地に着いた事への心地良さからでもあった。薄らと唇を開いたまま、唖然としているなまえの指先からするりと眼鏡を抜き取る。耳に掛ければ、重かったそれがやけに軽く感じて。 「責任、取ってくれるよね?」 そうして再度、深く唇を啄めば、苦いビールの味がした。 ← → back / top |