江戸川が目黒警部に連絡を取り、至急、屋上にヘリを回すよう要請をした。「行くぞ!」先導して走る、その勇ましくも毅然としたちいさな背中からは、一片の迷いも見られない。前方で淡く浮かび上がる、所々が黒く煤ぼけたワイシャツを追いながら、なにが彼をここまで動かすのかと、明瞭のない思考の端で、俺はただ漠然とそう思った。
だって、あんなの無茶苦茶だ。安全地帯にいるくせに、わざわざ自分から戦場に飛び込むような物好きは、きっと江戸川くらいだろう。いくら友人が危険とはいえ、誰の心にだって怖気や迷いが浮かぶはずで、なのに彼は、なんの義務も責任もない立場のくせして、欠片の迷いさえ掠めずに軽々とやってのけたのだ。
江戸川は超人でもないしスーパーマンでもなく、ましてや今は非力な子供の姿。けれど、そういった行為もきっと彼らが江戸川を英雄視する遠因で、それが俺にはまるで理解し難く、苦々しいものに感じられた。

「おめーらは先に行っててくれ」長い階段をひたすら登り、75階に着いたとき江戸川が突然そう言った。訝しがる吉田たちを置いて、彼は灰原と共に悠然と扉を潜っていく。
「きっと、なにか考えがあるんですよ」そう、円谷に促され、屋上へと急いだ俺たちだったが、けれど、結局ヘリが着陸することは叶わなかった。小規模な爆発と、そして飛び散ったポリタンクのガソリンに、一瞬で火の海と化した屋上からあわあわと悲鳴をあげる彼らを急かして75階まで避難する。

「こうなったら火が消えるまで待つしかねぇな」

へたり込む小嶋たちを見下ろして、江戸川が厳しい顔つきでそう言った。そうこうしている間にも、着実に火は階を上がっているだろう。幸い、まだこのパーティー会場にまで煙が上がってきてはいないが、それも時間の問題だった。火が消えるのが先か、それとも炎が回るのが先か。だからこその渋い表情に、けれど、灰原の涼やかな声が落ちる。

「残念だけど、そんな時間はないみたいよ」

灰原は、テーブルクロスを捲っていた。その不自然な行動に、急いで灰原へと駆け寄った江戸川の瞳が驚愕にまるまると見開かれる。

「なっ、爆弾?!」
「えええ〜っ?!」
「全部のテーブルにあるわ。タイマーは⋯──」

静かにテーブルクロスを下ろした灰原の視線が、ついっと横に流れた。辿った先にあったは、大小様々な種類の酒が並べられた棚だった。GIN。透明な硝子瓶にそう書かれたラベルの奥で、赤い光がチカチカと不気味に発光している。

「あと4分しかありませんよ!」

表示されている時間はあと4分。一秒、一秒、確実に減っていくタイマーの数字に江戸川がくそっ⋯!とちいさく焦りを吐いた。もしかしたら彼は、この爆弾を仕掛けた犯人についておおよその検討はついているのかもしれない。表情からなんとなくそんな気はしたが、けれど、尋ねることはしなかった。ちらりと視線を向けた先には、今回の事件の犯人だろうその人がぐったりと床に倒れていて。その傍で、困ったように微笑みながら優しく額を撫でる年配の女性の姿に、俺は静かに視線を逸らした。





江戸川くんの提案は、確率の低い、あまりにも無謀なものだった。くだらない催しの、景品だった車で隣のビルへと飛びうつる。隣のビルの屋上に、大きなプールが張られているからこその提案だったが、けれど、いくら爆風を利用するとはいえ成功するとは限らない。「どうせ待ってても死んじまうんだ。⋯やろうぜ」それでも、生き延びるにはそれしかなかった。他に良いアイディアも浮かばす、相談する時間も惜しいと、すっかり昂揚したちいさな彼らは着実に準備を整えていく。

成否を握るのは、タイミングだった。窓から飛び出すタイミングで爆発が起きなければ、飛距離が足りず車は地上へと墜落する。「だったら、私が30秒までカウントするわ」そう言った時には、もう心は決まっていた。

タイマーが残り二分を切った時には、あとは私以外の全員が車に乗り込むだけだった。トランクを開けた状態の、不格好で傷一つない真っ赤な車体の表面が、向かい側のライトの明かりを反射してチカチカと瞼を刺激する。まるで、スポットライトに照らされた主役のような光景に、私はかすかに薄く笑った。暗い、カウンターの椅子に腰掛けながら私ははっきりと文字を読み上げる。

「残り、一分半を切ったわ」
「よし、おめーら準備はいいか?」
「はい!」
「うん、大丈夫!」
「いつでもいいぜ!」

彼らの凛々とした声が、パーティー会場につよく響いた。運転座席には吉田さんが座っていて「コナンくんが傍にいたら、きっとできると思うんだ」そう言った吉田さんの言葉を汲んで、その隣に江戸川くんの姿があった。
30秒をカウントする。彼らにはたっぷりとした自信があるみたいだけれど、今度ばかりはすこしのズレも許されない。
「それで?」残り、一分十秒を切ったタイマーの表示を見ながら私はゆるりと口を開いた。

「貴方は、乗らなくていいの?」

彼は、静かにそこに居た。時間もないというこの状況で、不安がることも怖がることも無く、いつもの気だるげな眼差しでただぼんやりとタイマーの数字を眺めているようだった。「あー⋯うん」彼がちらりと視線を向けた気がしたが、あっさりとした短い肯定に「⋯そう」それだけを吐いて口を閉じる。タイマーが、一分を表示した。

「59、58─⋯」

はっきりと、聴こえるように数字を読み上げていく。ピリリとした彼らの緊迫が、こちらまで届いてくるようだった。

「50、49、48─⋯」

彼は、まだ、動こうとはしない。「おい、みょうじ、なにしてんだ⋯?!」私の邪魔をしないようにか、それに気付いた江戸川くんの静かな叫声が彼の名を呼ぶ。

「39、38、37─⋯」

わずかに、声が掠れた。彼の、痛いほどの視線が、私の後頭部に突き刺さる。

「36」
「何してんだ!!急げっ!!」
「35」

まったく動く気配のない彼に、ひどく心がざわついた。彼もあちら側の人間で、決して、こちらに居ていい人ではないのだ。

「34」
「あのさ、」
「33」

彼の口が、ようやく動いた。それは、やけに鷹揚とした落ち着き払った声だった。

「32」
「もしかして灰原って」
「31」
「お姉さん、とか居る?」
「30⋯──え⋯?」

カウントは、吉田さんが引き継いだ。それが分かった私は、瞠目して彼を振り向いた。彼は、そんな私の表情に「⋯あー、うん。まあ、そうだよな」そうちいさく肩を竦めたかと思えば、すぐに顔を持ち上げた。そして、薄いアンバーの瞳に私をうつす。

「お姉さんからの伝言」

どくり、と心臓が動く音がした。まっすぐに射抜く瞳の中に、怯えた私の顔がみえる。「おい! !灰原!!みょうじ!!」──他の音は、もう、なにも聴こえなかった。

「──生きて、志保っ!!」






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