失礼します、形だけの挨拶をしてガラリと扉を開ける。お座なりなそれを咎める人は居らず、ツンとした独特な匂いが鼻腔をくすぐった。どうやら養護教諭の彼は席を外しているようで、窓枠の真っ白なカーテンが所在無さげにゆらゆらと踊っている。 「座ってて」 そう一声かけて、支えていた蘭を椅子に座らせる。眉を垂れて、こちらを伺う彼女はずっとなんて声を掛けようか会話を探しあぐねているようだった。そわそわと落ち着きない彼女を背に、消毒液や薬品が並ぶ棚の引き出しを漁る。 結局、ひょこひょこと危なっかしい足取りで歩こうとする彼女を放っておけず肩を貸して 「あの···ごめんね」 「いや、元はと言えば俺のせいだし」 気怠げな背中に掛かったのは、緊張と躊躇いの混じった控えめな声だった。そう、緩慢に振り返れば、ぎこちない笑みが向けられる。すこしだけ軽くなった空気に、彼女が肩の力を抜いたのがわかった。いつの間にかぱらぱらと弱くなった雨音を背に、ゆっくりと彼女に歩み寄る。 「とりあえず応急処置するから足、見せて」 「えっ、私、自分でできるから大丈夫よ!」 「手、届かないだろ。それに下手に動かすと悪化するから」 パタパタと顔の前で手を振って拒否を示す彼女に淡々と告げれば、すこし視線を巡回させた後、観念したようで太股の上でギュッと両手を組んだ。 「うっ···、じゃあ、お願いします···」 「うん、触るよ」 彼女の足元に屈んで伝えれば、ぴくりと爪先が揺れた。患部に触れないよう、丁寧に靴を脱がしていく。靴下を剥いだ頃には、彼女はすっかり萎縮してしまっていた。せっかく和らいでいた空気も、ピリリとした緊張感が増していく。こういう時に限ってうるさい彼女の友人は「それじゃあ、蘭のことは任せたわよ」とさっさと帰ってしまっていた。 素足に触れる前にちらりと彼女を仰ぎ見る。唇をぎゅっと引き結び、痛みに耐えるようなその表情にすこしぎょっとした。緊張しているのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。 「ごめん、痛かったか?」 「え、あ、違うの!全然痛くないよ!ただ···その···」 「ただ?」 「う、ううん!なんでもない!」 頬を林檎のように赤く染めて、ブンブンと頭を振る彼女の様子は"なんでもない"ようには少しも見えなかったが、痛みはないようなので「ならいいんだけど」と曖昧に頷いておく。再び沈黙が落ちるより先に「そ、そうだ!」と彼女が矢継ぎ早に言葉を連ねた。 「急いでるって言ってたけど、時間は大丈夫?」 「まあ、それなら連絡入れたし大丈夫だと思う」 「そっか。···ごめんね」 「別に、謝らなくていいって」 彼女の足首に湿布を貼って包帯で固定していた俺に、ぽつりと落とされた二回目の謝罪。彼女の友人が多少強引だったせいで申し訳なく思っているのだろうが、そもそもの原因が俺にあるのでそう何度も謝られると反応に困る。まあたしかに、休みの連絡を入れたら店長の口調がかなり荒かったから、後日めんどくさそうだけど。 仕上げに包帯の端をテープで止めて離れれば、彼女がほぅっと感嘆の息をこぼした。 「なんか、お医者さんみたいだね。手慣れてるって感じする」 「あー···まあ、一応、保健委員だし」 「そうなの?それは知らなかったなぁ」 正確には保健委員ではないが、頻繁に出入りしているのは本当だし、説明するのも面倒なのでそう言っておく。納得した様子で、足を持ち上げてまじまじと患部を見つめる彼女に、あんまり動かすなよと言おうとして、ふと違和感を感じた。───知らなかった? 「···俺らって面識あった?」 俺が保健委員だって知らなかった。つまり、俺のことは知っていたということだ。浮かんだ疑問をそのまま声に乗せれば、彼女が目を吊り上げた。 「もう!同級生の顔くらい覚えてよね!」 「あー···ごめん。人の顔と名前、覚えるの苦手なんだ」 たしかに、そう言われれば見覚えがあるような、ないような。けれど、同級生といわれても未だしつこく絡んでくる山田以外、クラスの半数の名前も曖昧な俺にそれを求められても困ると内心で息をついた俺は「それに──」ぷりぷりと頬を膨らませながら彼女が続けたので視線を上げる。 「私たち、幼稚園から小学校までずっと一緒だったじゃない」 僅かに眉を下げながら静かに落とされた言葉にきょとりとした。そうだっけ。その頃は1+1やひらがなの書き取りに退屈していたし、精神年齢のあまりの違いに小学生らしくするのも面倒で誰とも関わらないようにしていたから、6年間一緒だったといわれても同級生の顔なんてほとんど記憶になかった。ぼんやりと覚えているのは、無愛想な俺にやたらと構ってくる物好きな奴。確か名前は─── 「···新一のことも覚えてない?」 そうっと触れるのを躊躇するような、悲しげな表情をして尋ねる彼女の、その名前にゆるりと記憶が蘇る。ああ、そうだ新一。工藤新一だ。運動神経抜群で頭脳明晰、小学生のくせに難しい本を読んでいたのが印象的だった。ほとんど机に突っ伏して寝て過ごしていた俺のなにが気に食わなかったのか、テストの点数とか体力測定とかやけに張り合ってきて、めんどくさかったことは朧気に覚えている。 「ほら!推理オタクで、サッカーが得意で···よく一緒に帰ってたじゃない!それに公園で遊んだり海にも行ったりしたのに、それも覚えてないの?」 押し黙った俺に、つらつらと当時のことを話しだした彼女には悪いがそこまではっきりとした記憶はなかったし思い出す気力も起きなかった。けれど、沈んだ表情で伺う彼女の視線に「はっきりとは覚えてないけど、まあ···多少は」そう濁せば、わかりやすく安堵の表情を浮かべる。 「新一ったら、せーっかくなまえと高校が一緒だっていうのに意地張って声も掛けないんだから」 「なんで?普通に話しかけてくればいいじゃん」 「なまえから話しかけてくるの持ってるみたいよ」 「へぇ···めんどくさいヤツ」 声を掛けられて工藤だとわかるかは置いといて、思ったままを口にすれば彼女がここに来てようやく気の抜けた笑みをみせた。 「とにかく、それ、ただの応急処置だから。ちゃんと病院に行くこと」 「うん、ありがとう」 余った包帯や湿布を手に、背を向ける。きちんと元の場所に仕舞いながら後ろ手に声を投げれば穏やかなお礼の言葉が返ってきた。それから、机の上に無造作に置いてあった利用者名簿に学年と名前を記入してもらう。毛利蘭。丁寧な文字の羅列にどこか既視感を覚えながらも、毛利の足元に置いてあった彼女の鞄を手に取って扉の取っ手をガラリと引いた。 「なにしてんの?帰るよ」 「あ、うんっ」 「慌てなくていいって」 着いてくる気配のない彼女に、振り返って声を投げれば慌てたように寄ってきたので思わず眉を顰める。いくら処置したとはいえ、簡易的なものだし本来なら動かさない方がいいのだ。ごめんね。ひょこひょこと頼りない足取りで扉を跨いだ彼女を確認してピシャリと扉を閉める。 「あ、鞄···」 「持つ。それと、肩、捕まってていいから」 保健室に向かう時と同様、なにも無いよりはマシだろうとそう言えば、ぱちぱちと瞬いた毛利は一拍してくすくすと堰を切ったように笑いだした。突然、笑いだした毛利に困惑していれば治まったらしい彼女が目尻に溜まった涙を拭って顔を上げる。 「ご、ごめん。なんか懐かしくて」 嬉しそうにはにかむ彼女に、なにも言えなかった。ちいさく頭を振って、歩行を促す。運が良ければ校門の前でタクシーを拾えるだろう。肩に触れる暖かなぬくもりを感覚しながら、一歩一歩確かめるような足取りで昇降口までゆっくりと歩いた。 ← → back / top |