治部殿狐8

*

三吉三 / 人外 / 文学パロ

*

「よろしかったので」
 しん、と静まりかえった天守の片隅で、うずくまる影がのそりと動く。それにちらとも目をやることなく、
「何がだ」
 と短く返したのは天守が主、三成である。
「先程の、」
 と言ったきり、左近はちょっと口をつぐんで、主の方をうかがった。平生と変わらぬ猫背気味の背中は、真っ正面に文机に向かい、ひたすら書き物にいそしんでいる。
 なんでもない、見慣れた光景である。天守に生きた人間の上がり込むことなど、百年以来あるまいが、それでも何事もなかったかのように、主は忠勤に励んでいるのだ。
 哀れな方だ、と左近は思った。
 理由さえあれば生きていける、主はそんな生き物だった。
 黙ってしまった左近にしびれを切らしたのか、
「先の、何だ」
 机から目を離さぬままに三成がうながす。手は止まらぬ。三成にとって優先すべきは会話ではないのだから、仕方がない。臣下である左近も慣れたものである。
「先程の侍です。なにゆえ帰されました」
 かたん、と筆を置く音がする。振り向いた三成の顔は、わかりやすく不機嫌だった。
「帰ると言った者を帰すのの、何がおかしい」
「お気に召されたのなら、帰す必要はございませんでしょう」
 主の苛立ちなどなんのその、飄々と左近は返す。
「……そうなのか?」
「そうですとも」
 眉間に皺を刻みながら、生真面目に聞き返す三成に、もっともな顔でうなずいてやれば、くく、と片隅の喜内が耐えきれぬと笑いを漏らした。とはいえ、そうだとも違うともなんとも言わない限りは、喜内も同罪である。残念なことに、主の思い違いを正してやるには、左近も喜内も歳をとりすぎていた。
「大体、殿は無欲に過ぎる。大概の贅沢は許される御身分も力もお持ちであるのに、御自分の為には何一つなされようとしない」
「仕事がある。無駄な事に費やす時間はない」
 憮然として答えた三成に、ぽん、と左近は膝を叩いた。
「それ、仕事というものは、作ろうと思えばいくらでも作れるものです。今の殿は御自分でやらぬでも良い事までやっていらっしゃる。確かに殿は大層仕事のできる方だが、働くばかりで遊びをせぬ者は面白味がない」
「貴様、何が言いたい」
「殿はただ一言」
 殺気の込められた視線を受け流し、左近は見えぬ舌を出して、ちょいと己の唇を湿らせた。階下からわっ、と声が響くのに、楽しげに目を細めて見せる。
「欲しい、と仰有れば良いのですよ」

*

2011/05/28

*

+