さらば君7

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オリ主 / トリップ

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19

「……と、いうわけで、江戸城のお堀にばっしゃんと落っこちたと思ったら、ここにいたわけで、別になんの悪意も敵意も害意もない、ただ未来から来たってだけのいたって普通の平凡な女子高生なんよ。そこらへんご理解いただけたましたん?」
 いつの間にか部屋は薄暗くなり、燭台には火が入れられていた。本当に、どれだけ喋ったの私。今までの人生で一番喋ったんじゃないの、ってぐらいだが、実際、喋った内容のほぼ大半が教育制度やからね。ぶっちゃけ泣きたい。
「あぁ、わかったぞ」
 うんうん、と笑顔で家康が頷いた。
「つまり、どこにも行くあてがないんだな?」
 さすがは権現、マジ的確!
 最終的に天下とっちゃっただけはある、ということか。空気読めなさそうな顔してるくせに、割合空気読めるよね。
「あー……うん、じつ」
「じゃあ、奥州に来るか?」
「……はい?」
 ヒトの話を途中でさえぎるのはマナー違反やで……って、奥州?
 一体なにがどうしてそうなった。さっぱりわからない。頭に疑問を浮かべたまま私は政宗を見返す。
「未来を知るだけなら、巫女がいるだろ? 別に江戸に留めておく必要はない筈だぜ」
 だろ、家康、と人の悪い笑みを浮かべる政宗に、私個人の意思は爪の先ほども期待されていないことを思い知る。
 利用価値はある。でも、ただそれだけ。価値があるから殺されはしない。それは、壊れた道具が使えないのと同じだから。
 武士階級にとって、農民とは代替の利く道具であり、農民にとっても武士というのは代替の利く支配者である。よく、○○という武将は善政を引いた為に領民に慕われて〜という話を聞くけれど、あれ、大体後世になって出来た話らしいで。慕ってるんは、その武将が力を持っている間だけ。一旦没落したとなれば、農民といえどとたんに牙を向く。それが、戦国時代という、時代なのだ。
 未来から来たという私は、彼らにとって価値はあるかもしれないが、所詮、同じ人間ではない。そういうんにわりと緩かったのは信長やけど、この頃には既に本能寺の変で死んでいるはず。
 対外的には信長の意志をついだとされる秀吉は、その点、己の出自もあってか、能力のある者を重用することが多かった。武士の家ならば、代々召し抱えてきた譜代の家臣筋、というのがあるのだが――たとえば、本多忠勝や酒井忠次などの、家康の三河武士団だとか――秀吉にはそれが無かったのが理由の一つだろう。
 その代わりに、いわゆる“子飼い”といわれる家臣がいるのだが、

 そのうちの一人――石田三成こそ、この家康と天下分け目の戦いを引き起こす張本人である。

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20

 待ってくれ、と言った家康の顔は、やけに真剣で、深刻だった。
「二歩を奥州に連れて帰るのは、諦めてくれないか。独眼竜」
「why? 未来を知る人間なんざ、二人も抱えてどうするつもりだ? 俺に一人寄越したところで、さして支障はないだろうが」
 right? 尖る犬歯を見せつけるようにして、政宗は笑う。
 その笑みを見てとっさに肉食の獣を思い出した。
 虎か、熊か、狼か。動物園かテレビでしか見ることのない獣。戦争を放棄して、平和と平等を享受する現代日本では、そう滅多にお目にかかれないような、危うさ。
 悔しいけれど、私にはこいつらと対等に渡り合えるほどの、肉体的な強さはない。
「……二歩」
 政宗の挑発にも似た問いには答えず、変わらず沈鬱な表情を浮かべたまま家康が私の名前を呼んだ。
「ワシは……勝つのだな? それは確かなんだな?」
「勝つで」
 まるで恐れているように、家康が問う。そんなに敗けが怖いのかと、少しだけ胸がむかついた。
 未来を知らない家康が、敗けを恐れるのは当たり前だと、頭ではわかっているのに。
 けれど、どうしても家康に同情的になれないのは――私が未来を、知っているからだ。それはどうしたって変えられないし、変えるつもりも、ない。
 だから、私は。
「三成は」
 そう家康が口にしたとたん、政宗は急に興味を失ったようだった。またか、という小さな呟きは、確かに耳へと届けられる。三成、とは石田三成のことだろう。
 じゃあ、またか、は?
「……あんたが勝者や。わかるはずやろ?」
 引っ掛かりを覚えながら、慎重に言葉を選ぶ。政宗は何を指してまたか、と言ったんや? 三成を気にすることか? 石田三成は西軍の中心的人物、家康が気にしてもおかしくはない。が、政宗の言い方は、どうもそんな風ではなかった。
「ワシには……わからない。戦が終わった後、三成がどうなるのか」
「どう、なる?」
 どうする、ではなく、どうなる。
 家康は三成を積極的に殺すつもりではないのか。でなければ、どうなる、とは聞かないだろう。むしろ、この聞き方では。
「あんた、石田三成を死なせたくないんやな?」
 家康が、息を飲んだ。

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21

 関ヶ原の戦後処理、家康が西軍にくみした諸将に与えた処分は、わりと厳しい方やったんやないやろうか。

 総大将、毛利輝元は84万石の減封。実に中国地方一帯を治めていた毛利家の領地は関ヶ原後には周防・長門の二国となった。
 輝元と同じく五大老であった宇喜多秀家は備前岡山57万石没収の上、八丈島に流罪。同五大老上杉景勝は90万石減封で米沢30万石へ移封。
 島津家は特殊であるからここでは省くとして、五大老でさえこうなのだ、10万、20万石程度の大名の処遇は推して知るべきだろう。
 近江佐和山19万石石田三成は改易の上、処刑。同時に肥後宇土12万石小西行長も首をはねられている。
 ちなみにこれ、武士って普通切腹ちゃうん?って考えは当たり。
 私もてっきり切腹って江戸時代になってからの文化やと思ってたんやけど、戦国時代にはすでに切腹の概念が成立してたみたいで、だからこそキリシタンで自殺が出けへん小西はまだしも、三成が斬首なんはなんでかなー、って思ってるんやけどね。秀吉の頃にはすでに、甥の秀次や、武将でない筈の千利休も命じられて切腹してるし。関ヶ原でも、三成や小西、あと安国寺恵慶ぐらい以外は切腹で済んでるのも、ようわからん。
 ちなみにその他、土佐浦戸22万石長宗我部盛親、筑後柳川13万石立花宗茂、美濃岐阜13万石織田秀信はみーんな改易。
 まあ、領地がちっちゃいから、とも言えなくもないとは思うんやけど、でもなんとなーく厳しいなあと思う私である。

 その後の大阪夏の陣でも、敗者の多くは自刃を命じられた。

 この二つの戦で、徳川家康という男は、己の天下の安定にとっての危険分子を徹底的に排除したんやないかと、思うんよね。ほら、基本チキンやから、あいつ。
 ただ、関ヶ原も大阪の陣も、だてに歳食ってないというか、度胸も知恵もついて来たというか、きっちり根回しした上で戦を“向こうから”仕掛けさせる手並みはかなりえげつない。大阪冬の陣なんて、鐘の銘にケチつけていったからね。“国家安康”だっけ? 豊臣家が寄進した鐘の銘は実は、家康に対する呪いの文句だったのです! って、アホか!
 そんな訳で、家康が豊臣を潰したかった、っていうのはわりとマジだったと思うんだけど――だからこそ、ここに来て石田三成を助けたいというのが、理解できない。

 ……徳川家康、あんたやっぱり狸なん?

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2011/05/04

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