わるいこは 三日目

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ホラー
※友人とのプロット交換作品です

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 判で押したように、翌日もまた雨だった。書きかけの書類を前に、審神者はぼんやりと頬づえをつく。連日の雨天ゆえに外出をする気にもならず、手持ち無沙汰からずいぶんと進んでしまった事務仕事は、もはや今週末までに終わらせる予定の作業をこえ、一週間以上の猶予を持つものに変わっていた。いつ何時イレギュラーな事態が発生するともわからないのが戦争で、そういう意味では余裕ができることは良いことなのだが、急ぎでない仕事に手をつけるには、いかんせんやる気が足りない。
 規則的に続く雨音の心地よさに火鉢の暖かさも相まって、審神者のまぶたは今にも落ちそうに瞬きを繰り返す。窓を閉め切ってしまえばほとんど気にならないほどの雨音は、かすかであるがゆえに余計に静寂を際立たせるようで、このまま眠気に身を任せるのも良いか、と思い始めたところだった。
 ――ブーーーッ。
 唐突に響いた耳をつんざくような電子音に、審神者はギョッとして飛び上がった。音の出所を把握するより先に、バクバクと破裂寸前にまで速まった鼓動を落ち着かせようと、審神者は深呼吸を繰り返す。一体、何の音だとあたりを見渡せば、書院風の執務室内、左の壁にある柱の中ほどに銀色のブザーがついている。そういえばそんな物が、と思ったのは、このブザーが鳴るのを久しぶりに聞いたからだ。玄関の呼び鈴と連動しているブザーは、屋敷の規模ゆえに取りつけが義務化されているものだが、もともと実空間と切り離され、施錠の必要のない本丸御殿では、本丸運営の初期をこえれば、めったに鳴ることがない。大抵、誰かが玄関脇の控えの間にいるものだし、庭に回り込んで声をかけるのでも十分に事足りるからだ。時たまやってくる政府お抱えの配送業者もそれは知っているはずで、ならば、寝ぼけ頭が作り出した空耳か、と納得しかけた時だった。
 ――ブーーーッ。
 今度は先ほどよりもさらにはっきりと、さらに長く、電子音が鳴り響く。催促するようなその音に、審神者は慌てて立ち上がると、入側へ顔を出して、おーい、と声を上げた。そのまましばらく待ってみたが、物音ひとつ聞こえない。
「……だれもいないのか? しょうがない」
 審神者は首を捻りつつ、懐手をして部屋を出た。とたんに足の裏からヒヤリ、と冷気が立ち上ってきて体が震える。顔が映るまで丹念に磨き込まれた板張りの入側は、雨によく冷えて氷のようだ。自然、早足になりつつ、審神者は玄関を目指した。
 審神者の執務室は本丸御殿の中でも北の端にあり、刀剣男士たちの私室や大広間のある棟とは中庭を挟んだ場所にある。けれども、出陣もない午後二時を少し過ぎたくらいの昼下がり、声の届く範囲に誰もいないというのも珍しい。それとも、雨音に紛れて聞こえないのか。あり得るな、と思いながら、六つ目の角を曲がったところで、ようやく審神者は玄関へとたどり着いた。
 玄関は森閑としていた。外の雨音が扉越しに聞こえてくる他はなんの音もしない。明かりの消えた玄関からは、外の方が幾分か明るく見えて、玄関扉のガラス越しにぼんやりと黒い人影が立っているのがわかった。ずいぶんと小さく見える背丈に、刀剣の誰かが間違って閉め出されてしまったのかと思う。連日の雨続きで、普段はかけない鍵を閉めた者がいたのかも知れない。あまり間を置くのも可哀想だと、審神者は明かりもつけぬままに共用の突っかけ履きに足を突っ込むと、カラコロと歯を鳴らしながら、扉へと近づいていった。玄関前に設えられた車寄と呼ばれる土間は、出陣前に一部隊六人が勢ぞろいしても問題ないほどには広く、平均的な成人男性の身長を持つ審神者でも外に出るには最低でも四歩は足を進める必要があるが、あともう一歩、というところで、横着した審神者はそのまま腕を伸ばして内鍵に指をかけた。
「はいはーい、今、あけまーすよー……っと、」
 鍵にかけた指が滑る。扉は、開いていた。
「あれ?」
 念のため、ガラリと戸を引いてみるが、予想に反して見える範囲には誰もいない。思わず一歩踏み出したとたん、ぺチャリ、と音がして、慌てて足を引く。玄関前の石畳に大きな水たまりができていた。やはり先ほどまで誰かいたのかと、本降りの雨の中、正門がある辺りへと目を凝らすが、人の気配すら見つけられず、審神者はうーん、と首を捻る。少し外へ出てみるかと、再び足を踏み出そうとして、
「主」
 かけられた声に振り返れば、ちょうど通りかかったところなのだろう、玄関に立つ獅子王が不思議そうな顔をして審神者を見下ろしていた。首に巻いた鵺もジッと審神者を見つめている。
「どっか出かけるのか?」
 こんな雨の日に、という言葉が、言外に感じられる言い方だった。四つの目に見つめられる形になった審神者は、気まずさに視線を逸らしつつ、ガラガラと扉を閉め直す。
「いや……、おっかしいなぁ。確かに、誰かいたと思ったんだけど。気のせいだったのかなぁ」
 言いながら、そんなはずはないと思っていた。

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2022/05/30

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