わるいこは 五日目

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ホラー
※友人とのプロット交換作品です

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 連日続く長雨に、自分で思っているよりずいぶん参っているのかもしれない、と審神者が気づいたのは翌日のことである。刀剣男士たちの疲弊ぶりを見ていれば、人間の自分はよほど雨に慣れていると思っていたが、それでも疲れはたまっていたのだ。一週間ぐらい、本格的に休みを取って、本丸の全員でどこかに泊まりに行ってもいいかもしれない。夏休みには早すぎるが、世間がやれ連休だゴールデンウィークだと騒いでいる間も休みひとつなく働いたのだから、たまにぱっと羽を伸ばしたところで後ろめたいことは何もない。ひとつ、問題があるとすれば山籠もりに入った山伏と山姥切だが、と考えを巡らせながら入側を歩いていると、不意に、ぺチャリ、と足元から音がした。
「わっ!」
 氷の粒でも踏んだかのような冷たさに、驚いて左足を持ち上げれば、踏みつぶされた水の跡が少ない明かりの下でもはっきりと見てとれた。まさか、と周囲を見回すと、案の定、小さな水たまりがそこかしこにできている。審神者が踏みつけたもの以外はやはり奇麗な円形を保っていて、玄関へと続く方向に点々と連なっていた。
 ――近づいて来ている。
 ふと頭をよぎった考えを、慌てて首を振ってかき消した。馬鹿な考えだ。二日前に見た玄関前の水たまりが移動してきている、なんて。
 そもそも昨日の玄関の水たまりも、今日の水たまりも、別々の人物によるものかもしれず、たとえ同じ人物が原因だとしても、刀剣男士は本丸御殿内のどこへでも自由に行き来が可能なのだ。執務室に近いこの入側も男士たちの居住区域や広間からは離れているとはいえ、決して足を踏み入れないというわけではない。何もおかしいことはないはずなのに……なのに、どうしてこれほどに、不安なのだろう。
 冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせながら、ことさらにゆっくりと上台所へと向かう。足の裏から伝わる冷気が、背骨を伝って頭の芯をも冷やしていくようだ。水跡のせいだけではない、大気に含まれる湿気によって、ペタペタと粘ついた足音を立てながら、審神者は薄暗い入側を進んでいった。ちらりと目をやったガラス戸越しに見る表は、ここ数日変わらぬ悪天候で、庭木も心なしかくったりとして見える。
 この雨はいつ止むのか。
 刀剣男士たちの前では意識して口に出さないようにしていた問いが、ふっと頭をかすめた。本丸御殿は現世とは隔絶した時空に存在するとはいえ、その天候はただの自然現象で他の何の意思が介在するわけでもない。季節は十二ヵ月で一巡りし、カンカン照りが続く日も、大雪の降った日も、これまでに何度かある。けれどもここまで雨の続いた日は。
 いくら考えても思い出せない歯がゆさにやきもきしているうちに、目的地はもう目と鼻の先に迫っていた。午後二時半、夕食の支度には早すぎる時間帯だからか、あたりは人影もなく、静かなものだった。普段ならば午後一の演練帰りの部隊が休憩していることもあるのだが、雨のため、それも不参加だ。どうせ中には誰もいないだろうと決めつけて、審神者は声もかけずに上台所の板戸をガラリと引いた。
「おや」
 部屋の端、作業台の向こうで紫の髪がぴょこりと跳ねる。
「……歌仙! いたんだ」
「かれこれ、三刻ほどはね」
 驚きのあまりぶしつけになった問いかけに、気を悪くした様子もなく答えたのは着物の袖をたすきがけにした歌仙兼定だった。手元に視線を落としたまま、なにやら作業を続けている。彼の前には桃に似た緑の丸い小さな実が大量に積んであって、一つとってはちょいちょいと右手の竹串でつついて、傍らの竹籠に移していく。
「何してるんだ?」
 台を挟んで向かい合う位置にある椅子を引き、審神者は腰を落ち着けた。その間も歌仙は手を止めず、緑の山を少しずつ崩していく。
「梅の実のヘタをとっているんだよ。きみ、好きだろう。梅酒」
 なんでもないことのように言われて、審神者は暫し固まった。
「なんだ、僕の思い違いだったかい?」
「い、いや、好きだけど」
「なら良かった」
 慌てて答えると、わずかに視線をあげた歌仙が、フワリとほほ笑む。牡丹の花がほころぶような、とろけるような笑みだった。百年千年を生きる刀たちは時折、審神者に対してこのような顔を向けてくる。幼い頃に祖父母や両親から向けられたような、無償の愛によく似たもの。今更それを真正面から受け止めるには、審神者は歳をとりすぎていて、どうにも慣れない照れ臭さに、ついつい視線をさ迷わせる。どこを見るともなしに、壁や床へと目を泳がせた、その時だった。
 ポツン、と白木の床の上に赤黒い血の跡が落ちていた。
「ッ!」
 急に立ち上がった拍子に、ガタンと椅子が床へと倒れる。視界の隅で、あまりの音の大きさに歌仙が顔をしかめたのが見えた。それをフォローする余裕もなく、審神者は震えながら後退る。何度瞬きを繰り返しても、目の前の赤が、消えない。
「なん、で」
 いきなり立ち上がったかと思えば、床を見つめて震えだした審神者を不審に思ったのだろう、歌仙が椅子を引いて、どうしたんだと近づいてくる。自分自身でもなぜここまでおびえているのかわからないまま、審神者ははくはくと唇を震わせた。ただ、床に血が落ちているだけだ。それを、なんと説明したらいいのか。
「ふむ」
 審神者の傍らに立った歌仙は、腕組みをして審神者の顔をじっと見つめた後、その視線の先をたどって床の上に落ちた血痕を見つけると、ピクリと片眉を上げてみせた。
「きみ、ケガをしているのかい?」
「……え?」
 かけられた言葉は、予想外のものだった。座りたまえ、と促され、おとなしく審神者は椅子へと再度腰を下ろす。ヒョイとつかんだ左の足裏をのぞき込んだ歌仙が、これは痛そうだね、と同情に満ちた声を出した。
「慣れない状況で、注意力が散漫になっているんじゃないかい? まだまだ半人前とはいえ、きみはここの主なんだから、もうちょっと気をつけてもらわないとね。ちょうど今朝、堀川が山姥切を迎えに行ったから、すぐに雨も止むだろう。それまでは引き続き注意するように」
 手早く手当を終えた歌仙の言葉に説教が混じり始めたあたりで、用事があるから、と口にした審神者は、新しい茶筒を手に、逃げるように上台所を後にした。

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2022/05/30

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