あの日にふれたくて1 空は群青からターコイズブルーへのグラデーションを描いている。遠くの空は白く煙り、群青を裂くように綿飴のような雲が流れていた。 土と新芽の香りが暖かくなった空気を染めている。太陽の光が木々の葉を透かして大地に降り注いでいた。地面に眩しいモザイク模様が出来ている。遠くで鳥が鳴いていた。 ベンチに座った祐未が視線を動かす。どうやらウェイン邸の近くにある公園のようだ。 前方にはバーバラが立っている。ゴードンの隣で笑顔を浮かべ、手を振っていた。 「祐未! お昼にしましょうよ!」 日の光が芝生の上に降り注いでいる。バーバラのすぐ後ろでアルフレッドがレジャーシートを敷いていた。ランチバスケットを持ったブルースが執事のすぐ横に立っている。 いつもは夜に生きている男だが、日の中で幸せそうに笑っていた。彼の目は優しげな色をたたえて祐未を見ている。 「祐未、ディック。おいで」 バットマンの時ともプレイボーイを演じている時とも違う声だ。聞いているとくすぐったくなる。心臓が日光浴でもしているようにほのかな熱を持ち、地面から足が浮くような感覚に陥った。 「うん」 返事をするが、祐未は立ち上がらない。バーバラはまだ手を振っている。まるで写真のように、絵のように、幸せを凝縮して切り取ったような風景がいつまでもそこにあった。 「……いい夢だな」 祐未の隣にはいつの間にかディックが座っている。黒髪の少年。稀にひどく大人びた横顔を見せる、年下の家族。 彼は祐未の言葉を聞き、口元に緩やかな笑みを浮かべた。ブルース同様、とても暖かい笑顔だ。 「ありがとう」 ディックも祐未も、ネルガルのエスパー――たしかセシリアと言ったか――金髪の女に攻撃されたはずだ。自分は敵に攻撃されて眠ってしまった、と認識している。 加えてこの非現実的なほど穏やかな風景。 夢だと結論づけるのに充分な要素が揃っている。 「この夢は僕の理想だ。いつかこんな日がくればいいと思ってる。君もそう思ってくれる?」 柔らかい風が吹き、光のモザイク模様が微かに揺れた。祐未は髪を耳にかけて空を見上げる。 木々の合間から青い空が覗いていた。突き抜けるような群青。 「おまえらにはこういう場所が似合う」 「君にだって似合うよ」 「いいや、あたしはダメだ」 「なぜ?」 ディックの声色が悲しさに沈んだ。空は似つかわしくない明るさをたたえている。芝生の上にいる仲間も幸せそうに笑っていた。 「変わりたいってことになるからさ」 「それはいけないこと?」 「さあな。でもあたしは、昔の自分を否定したくねぇんだよ」 ディックが不思議そうに首を傾げた。それはそうだろう。祐未の人生は、お世辞にも素晴らしいと言えるものではない。人によっては消し去った方が良いとさえ言うだろう。肥だめの中のネズミの死骸が腐ったような人生だ。臭くて汚くておぞましくて浅ましくて忌々しい人生。 「確かにあたしの人生は、特大のクソみてぇなどうしようもねぇ人生さ。でもなディック、それがあたしの人生なんだ。ちょっとでも違う選択をしてたらその瞬間におっ死んでただろうぜ。だからあたしは変わりたいなんて思わねぇ」 変わりたいと思うことは、かつての選択を否定することだ。後悔するということだ。やりなおしたいと思うことだ。 昔祐未の頭には小さな爆弾が埋まっていて、命令を無視したり逃げたりすれば頭が吹っ飛んで死ぬことになっていた。 つまり彼女に選択の余地はなかった。 生か死しか選べない人生において、祐未は常に生を選択し続けたのだ。だから今ここにいる。そんな人生を"変えたい"と思うのは、昔の自分に死ねというようなものだった。 「あたしは、今までのあたしを惨めだと思いたくない。他の誰があたしに『死んだ方がいい』って言ったって、それが本当だったって、あたしだけはあたしに『生きろ』って命令し続けなきゃいけねぇんだ」 そしてその為には、"変わりたい"と思ってはいけない。 それは今までの自分を否定する行為だからだ。『死んだ方が良かった』と自分で自分に言う行為だからだ。 ディックはまっすぐに祐未を見ていた。 「変わることを諦めてるの?」 「いいや。今までのあたしの人生を諦めたくねぇんだ」 「変るのは嫌?」 「変わりたいって思うのが嫌なんだ。変わることは嫌じゃねぇ。必要な時はあると思う。でも、自分から変わることはないと思うぜ」 変わらなきゃ死ぬというのなら変わらなければいけないだろう。祐未の人生はいつだってそんな、崩れていく階段を駆け上るようなギリギリのところにあった。 そのギリギリの場所で後ろを振り返ったら、当然死んでしまう。 [しおりを挟む] 目次 戻る |