あの日にふれたくて4「ずっと昔にね、辛いとか、悲しいとか、痛いとか、全部ここに捨てることにしたの。泣いてるあたしはジャマだったから、そういうのと一緒にここにいることにしたの。ぜんぶ、なかったことにしようって。辛いのも悲しいのも痛いのも、そのせいで泣くのも、全部なかったことにしてここに捨てたの」 では目の前の少女は、祐未が切り捨てた感情の象徴だとでも言うのだろうか。原理で言えば解離性障害と言えるだろう。隣人症に似ているか。むしろこうして人格が切り離されていることを考慮すれば、 事は思った以上に深刻なのではないか。 内心焦るディックを見ずに祐未が続ける。 「だから、ここじゃないと言えないことたくさんあるの。外に出たら全部、なかったことになるから」 幼い子供の言葉を聞いて、ディックは少女の正体を知る。 自分の身を守るために切り捨てるしかなかった感情のなれの果て。本来あるべきだった彼女の尊厳と感情がたぶんこの幼い少女の中にある。 「なかったことになんかなってない。君はここにいるじゃないか」 ディックの言葉に、祐未がまた笑みを浮かべた。先ほどの年相応なものではなく、どこか悲しげな笑み。泣くのを我慢しているようでいて、嬉しさも少し滲む複雑なもの。 きっと彼女は、本来"祐未"という存在になくてはならないものなのだ。生きるために切り離された彼女の一部。 気がつけばディックは彼女の手を取り立ち上がっていた。 「一緒にここを出よう。君がいなきゃ、祐未は本当の"祐未"になれない」 しかし少女はゆっくりと首を横に振る。全てを諦めたような表情だった。泣いていたのに、悲しいと言っていたのに、諦観だけはこの幼い少女でさえ持ち合わせているらしい。 絶望という名の諦めは彼女の心の、どれほど深くまで根を張っているのだろう。 「ダメ。あたしは辛いとも悲しいとも思っちゃいけないの。そんな資格ないの。本当に辛いのは、死んでいった人たちだから」 祐未が奪った命に言及することなど今までなかった。 口に出さないだけでずっと気にしていたのだろう。死にたくない、生きたいと常から叫ぶ少女が、他人もそうであると思わない筈はない。命はなにより尊いと本能で悟るものが当然思い至る結論。けれど自分の命を優先するため"なかったこと"にするしかなかった真理。 少女がディックの腕に手を添え、離すよう促してくる。 「それに、そんなこと考えてたらすぐに死んじゃう。死にたくなっちゃう」 ディックは頭から冷水を被ったような気分になった。 死にたくなる。やはり祐未から絶対に聞くことはないと思っていた言葉だ。 「祐未、そんなこと……君は選べなかったんだ。他に道がないから、君は」 幼子の瞳にまた涙の膜が張る。黒曜石が水に濡れてキラキラと光った。頬を大粒の涙が滑っていく。白い床が水滴を吸い込んだ。 「でも、ひとを殺すのは悪いことでしょ? みんな言うの。化物って。悪魔って。ひとごろしって、みんな言うの。やりたくてやったわけじゃないのに。だって、そうしなきゃわたしが死んじゃうから」 ああ、これは彼女がずっと抱えていた本音なのだろう。 おそらく、絶対に言うまいと口を固く閉ざしていた言葉。世界と自分の運命への呪詛だ。自分は悪くないと叫ぶ自己弁明の言葉。 静かな声なのに、まるで血を吐くような表情で幼子が言った。 「ねえディック、あたしは選べなかったの。気がついたらこんな場所にいたの。迷ったら死んじゃう。それでもあたしが悪いの? どうしても生きたいって、死ぬのは怖いって思うのは、悪いことなの? 怖かっただけなのに。死にたくなかっただけなのに。人を殺さなきゃいけなかったの。そうしなきゃわたしが死んでたの。それでもあたしが悪いの? 怖い、死ぬのが怖いよ。死にたくないよ。みんなもそうなのに、自分が死にたくないから殺したの。わたしが死ねばよかったの? 死ねばこんなに苦しくないの? でも、でも怖いよ……死ぬのが怖い……辛いのはいや……死ぬのは怖い……」 自責の念はある。後悔も、本当はしている。けれどそれを認めたら心が折れてしまうから、彼女は幼い自分ごとすべてこの真っ白な部屋の中に押し込めたのだ。 「祐未、みんな死ぬのは怖い。君が悪いわけじゃないよ」 「痛いのも辛いのも苦しいのもいや! 生きてるとずっと痛いし辛いし苦しいの! だけど、死ぬのはもっと怖い……!」 「ああ、そうだね。僕も嫌だし、怖いよ。死ぬのは嫌だし、君にも死んで欲しくない」 「しにたくないよ……でも、らくになりたい……しにたくない……なんで、なんで」 少女の言葉が突然途切れる。辛かったね、と言う準備をしていたディックは、思わず目を見開いてしまった。 いつのまにか幼子の姿が16歳の少女に変わっている。全身が血に汚れていた。 真っ白だった壁に赤黒い汚れがついている。無造作にぶちまけられた赤と黒はアクション・ペインティングを連想させた。中には天井にまで達する汚れもある。 床は死体で埋め尽くされていた。口から蛆虫の沸いた醜悪な死体がディックのすぐ真下にある。横には頭が半壊して血に濡れた桃色の内容物が零れた死体。どちらも白い膜の張ったうつろな目で祐未を見ていた。左半身の焼けただれた死体も、目玉の落ちた黒い眼窩で少女を睨んでいる。右足の千切れた女も、首を折られた少年も、すべて祐未を見ていた。 床一面を埋め尽くすおびただしい死体の全てが恨みがましそうに死んだ目玉や眼窩で少女を睨み付けている。 ハエがやかましく周囲を飛び交い、死体の傷口にたかってはまた空を飛ぶ。鉄錆と肉の腐った匂いが鼻をついた。 [しおりを挟む] 目次 戻る |