あの日にふれたくて5 悪夢だ。 これが彼女の心象風景だと言うのなら、目の前の少女は常に今まで殺してきた死体の弾劾を受けていることになる。感情も熱もなくした無数の目に、ウジのわく歪んだ口元に、腐った肉に、彼女は常に責められている。 けれど無言の糾弾に少女は眉1つ動かさない。 涙に濡れていた瞳は今やまっすぐに前だけを睨み付けている。氷の様に冷たいが、苛烈な意思が死んでたまるかと言っていた。 薄い唇にも血が付いている。動かすと微かに八重歯が覗いた。 「あたしはまだ死ねない。どれだけ人を殺してもどぶ川を這いずり回っても、自分にも他人にも絶対に辛いなんて言わねぇ」 赤黒く汚れた全身で死体の上に力強く立っている。人だったものを踏みつけ、足に青白い手が絡みつこうとうろたえない。 全身で生きたいと叫ぶ獣そのものだ。 「生きてるかぎり、あたしはなにがあったって辛くねぇ」 たまらず少年が口を開く。 「生きてるかぎり、人は誰だって辛いことがある。それを受け入れなければ、前には進めないよ」 ディックだって辛いことはあった。両親が死んでしまった時のこと。ディックの目の前で、家族でサーカスのパフォーマンス中死んでしまった。 目の前にいる自分の家族が、辛い気持ちを押し殺して今も悪夢のなかにいることだって充分辛い。 けれどディックはそれを受け入れている。受け入れた上で、前に進むと決意した。辛いけれど歩いて行こうと顔を上げ続けている。 決して辛くないわけではない。心を否定してしまっては、逃げているのと変わらない。そんなことを続けていたら、いつか殺してきた心が歪みになって自分に襲いかかるだろう。 少なくともディックはそう思う。 「辛くないって言い聞かせるんじゃない、辛くても頑張れるって思う事が重要なんだ」 祐未が首を横に振った。 彼女には彼女の考え方がある。祐未が"変わりたくない"と願っているのもディックは知っていた。 変わりたいと願うことは、今までの人生を否定してしまうこと。 特に祐未のような、生と死しか選択肢のない人生の中で迷いは命取りになる。 きっと彼女が恐れているのは迷うことだ。 長年にわたって身体に叩き込まれた実感。逡巡は命取り。それ故彼女は変わりたいという願いを恐れる。そこに迷いが生まれると知っているから。 迷えば死ぬと、彼女は経験上知っているから。 「わかった。それが君の本当の気持ちなら、僕はそれを尊重するよ」 本当は迷うことだって大切で、迷うからこそ進める場所がある。迷うからこそ見える道だってある。立ち止まることだって必要なのに、もう迷っても立ち止まっても死ぬことはないのに、長年染みついた習慣が消せないでいるのだ。 「それでも、僕は君がいつか、ここから抜け出してくれるように願ってる」 ディックが再び祐未の手を取った。血ぬれの手はしめっている。ディックの手も赤く染まったが、構っていられない。 父の手もよく血で汚れていた。ロープで手を切るせいだ。彼は血で汚れるのをいとわなかった。ブルースの父だってそうだ。彼は外科医で、血にまみれるのをいとわなかった。 ディックだってそのくらい気にしない。誰かを助けるためなら、家族に手を差し伸べるためならなおさらだ。 「頼ってくれていいんだ。僕たちを信じて欲しい。他のなにを信じられなくても、僕らはずっと君の傍にいるから」 少女の手を強く握りしめる。すると彼女は皮肉げに笑った。口の片端を歪め、片目を細める。左右非対称の笑顔。 「お前、案外遠慮ってもんがねぇよな」 「そんなものがあったらいつまでも君は逃げていくだろ。それに無理強いはしてないよ。僕の希望を伝えてるだけ」 伝えなければわからないことがある。変わりたいと願うのが嫌だというのなら、彼女が自然に変わるのを待つだけだ。 変わるように誘導されるのが嫌だとは言われていない。 「だから君も、君の希望を伝えて欲しい。話し合おうよ、夢の中以外でも」 祐未が笑った。皮肉げでも泣きそうでもない、少し困ったような笑顔だ。今日は彼女の複雑な表情をいろいろ見る。 「ったく、強引な野郎だな……」 それは了承ととって良いのだろうか。 いつのまにか床を覆い尽くす死体が消えていた。部屋には汚れひとつなく、圧迫感のある真っ白い箱に戻っている。 目の前の少女も、いつのまにか幼子になっていた。とても穏やかな笑顔を浮かべている。 「ありがとう、ディック。もう行って。あたしもディックも、夢から覚めなきゃ」 白い光が、ディックの身体を飲み込んだ。 [しおりを挟む] 目次 戻る |