62.逃避

怖い…

怖いよ…

悟空の口から出る言葉を、こんなに怖いと思うなんて…





『見上げれば同じ空。<62>』





「名前」

頭がぼ〜っとしていた。
バーダックさんに言われた言葉…突然のキス…
全てに頭が混乱する。
その刹那、部屋に飛び込んできた悟空の姿も…あたしを更なる混乱に追い込むには十分すぎるものだった。

「…悟、空」

あぁ、嫌だな…
なんて声をしているんだろう。
そしてはっきりとわかった。
思わず一歩後ろに下がるあたしに、明らかに悟空の表情が変わったこと。

「名前」
「……………」
「名前、オラっ」
「っ…!!?」

あたし…何をしてるんだろう…
自分でも自分の行動が理解出来なかった。
でも、あたしがとっさに両耳を自分の手で塞いでいたのは確かな事実。

「いや…だ…」
「名前っ、何で…」
「いやっ…聞きたくないっ」

あたし自身無意識だった。
でも、確かに…あたしは悟空に向かってそう告げていて…
悟空の見たこともないような表情に、ついに涙まで溢れてきた。

「何でだよ、名前!ちゃんと聞いてくれよ!」

何を…?
何を聞けっていうの??
いやだ…いやだ…いやだ…

「名前!!」

両耳を塞ぐあたしの手を悟空が掴む。
あたしはその手を振り払うこともできず…ただフルフルと首を横に振り続けた。
そのあたしの身体が、突然ぐいっと強い力で引かれて…

「カカロット、みっともねぇぞ」

すぐ頭上で聞こえてきたその声は、バーダックさんだ。
あたしは…ずるいね…
ほんの少し…本当にわずかでも、今ホッとしたんだもの。

「まるで余裕のねぇガキだな」
「父ちゃん…」

バーダックさんはあたしの目に悟空のことを映さないようにしているかのよう…
あたしの後頭部に手を当てて、まるで自分の胸に押し当てるみたいに強く強く抱き締めている。
何だか…バーダックさんと悟空が睨み合っている様子が見てもいないのに想像できる気がする。
…こんなことがしたい訳じゃないのに。
今から違う…って言えば、まだ間に合うかもしれないのに。

「ひ、っく…う…」

なのに、しゃべろうとして口を開いたあたしから漏れたのは…嗚咽だけだった。
ねぇ、悟空。
どうして、来たの?
何を言いに来たの??
“その時”の訪れがこんなに怖いとは思わなかった。

「父ちゃん、名前を離せよ」
「俺には名前自身がそれを拒んでるみてぇに見えるがな?」
「…そんなの、オラにだってわかってるさ」

悟空の声が、いつもより低く聞こえる。

「でも、ちゃんと聞いてもらわねぇとダメなんだ」
「…だとよ。どうする、名前?」

そう問いかけられたあたしが顔を上げると、バーダックさんが真剣な…でも優しい瞳でじっと見降ろしていた。
まるであたしを安心させようとしているみたいに、髪をそっと撫でられる。
一度俯いてから、悟空へと目を向けたあたし。

「……………」

見たこともないような…悟空の顔。
でもね…悟空。

「…あたし、いやだ」
「名前っ…」

大きな声であたしの名前を呼ぶ悟空のことを宥めるバーダックさんの声がすぐに近くで聞こえて…
そして、またそっと髪を撫でられる。

「名前、何が“いや”なんだ?」
「……………」
「カカロットの話を聞くことか?」

…違う。
フルフルと首を振るあたし。

「じゃあ、何が“いや”なのかはっきり言ってみろ」

…そんなの決まってる。
顔を上げたあたしの顔は、もうぐしゃぐしゃだったと思う。

「悟空が…離れて、いくのが………いや…」



初めて出会った貴方は、本の中にいた。
夢中になって…追いかけて…



「依存してるって、わかってる…でもっ」



初めて会話をしたのは、夢の中だった。
他愛のない話をするのが楽しくて…みるみる成長する貴方に何度も驚いて…



「でも、あたしっ…」



初めて抱き締められた時は、時間が止まった気がした。
見上げた先にいた貴方は…どこか照れくさそうに笑っていて…



「どこが、どれくらい好きなのかっ、わからない、くらいっ…悟空のこと、がっ…好き…っ…」



初めて『好きだ』と言われた日から、全てが変わった。
恐れを振り払ってくれたのも…迷いを取り去ってくれたのも…



「…悟空ぅっ…」



誰よりも愛してくれたのも…



「どうして…」



全部、全部…貴方だった。



「どうして来たのっ!?人づてに聞かされるなら、受け止められるって…どんな答えも受け止めなきゃって思ってたのに…どうして、悟空が直接来たの…?」
「名前…」
「悟空の口から、“さよなら”を聞くのは…怖いよ…」

後から後から涙が溢れてきて、正面にいるはずの悟空の姿ももうぼんやりとしか見えなかった。
思えば、こんなに一生懸命誰かを好きになったことなんて…今まで一度もなかったかもしれない。
嗚咽が止まらないあたし。

「名前、オラのこと…ちゃんと見てくれ」
「…ふ、っく…」

肩を震わせながら顔をあげると、頬を両手でそっと包まれる。
すぐ近くにある悟空の顔を見ていられなくて、また後ろに下がろうとしたあたしをまるで行かせまいとしているみたいに…悟空に抱き締められた。

「悟っ…」
「誰が、“さよなら”なんて言うかよ」
「っ…」
「オラ、そんなこと言いに来たんじゃねぇ」

真剣だった悟空の表情が…悲しそうに笑う。

「悪ぃな…」
「え…?」

そこからはもう悟空の表情は見えなかった。
悟空がぎゅっと抱き締めるようにして、あたしの肩口に顔を埋めてきたから。
わずかに悟空の胸を押し返していたあたしの手も震えて…力が入らない。

「おめぇがそんな風に、自分の思ってることを話すなんて初めてだな…そんだけ、不安にさせてたってことなんだよな」
「…悟、空?」
「オラも、名前がいてくれねぇとダメだ。おめぇがどっか行っちまうなんて耐えられねぇ」

言葉を失って、ただ鼻をすするあたしの頭を悟空の大きな手がゆっくりと撫でた。

「オラがチチと一緒にいたって過去は消えねぇ。でもよ、オラ本当に名前が好きだ…」

その時、初めて悟空の声が、震えていることに気が付いた。

「過去は変えらんねぇけど…名前と一緒にいてぇって今の気持ちも変わらねぇ」
「…ん…」
「オラのこと、信じてくんねぇか」

…ずるいよ、悟空。
そんな風に言われたら、あたしの答えは一つしかない。
悟空が顔を上げて、また間近でじっと見詰められる。

「チチにも、ちゃんと言ってきた…名前が大ぇ好きだって」

流れる涙を何度も何度も…指で拭ってくれる悟空。
その悟空が本当に小さく笑った。

「だから、オラのこと…信じてくれ」

声も出ないまま、小さく頷くあたし。
…あぁ、あたしはなんて馬鹿だったんだろう。
悟空のことを信じていない訳じゃないのに…
こんな顔をさせたかった訳じゃないのに…

「…あ、たしも…ごめんね…」

どの感情よりも怖さが勝って、悟空のことを信じられなくなっていた自分を責めた。
そして、それと同時に…
そんなあたしのことも全部受け止めて、愛してくれる悟空に心の底から感謝した。
心の中にある何かが…変わった気がした。