無造作に形だけ開かれた教科書と、閉じられたままのペンケース。それを机の端に寄せて、鷲宮秀那はスマートフォンを片手に窓ガラスの向こうを見つめていた。留められたカーテンの裾が、エアコンの風にほんの微かに揺られている。
薄い一枚ガラスの向こうは真っ暗い。秀那の座っている角度からでは街灯も、星も、よその家の灯りも、何も見えない。その代わりに、ガラスには明るい室内と、不愛想な秀那の顔が写っている。
手の中のスマートフォンに表示されているのは、白旦神社の祠の写真だった。今朝祈里から送られてきたもので、祠の脇にぽつりと一輪だけ、季節外れの桔梗の花が咲いている。
桔梗。古くは万葉の時代から詠まれている花。秋の七草に数えられたり、武士の家紋に用いられたりと、人々によく親しまれてきた花だ。そしてこの、織古市に縁のある花でもある。
そしてこの祠には、星が祀られている。むかし、星斗町に降ってきたという流れ星が。
そして本殿では、それに乗ってきた神様を祀っているのだそうだ。少なくともそう言い伝わっている。
この眉唾物の伝承を知っている人が、果たしてこの町にどれくらいいるだろうか。
秀那はカメラロールを閉じて、代わりにトークアプリを開いた。浅岸佑弥の名前を呼び出して、電話をかける。
事前に連絡の一つもしていないが、どうせ暇をしているだろうから、すぐに呼び出しに応じるだろう。そんな秀那の予想は、果たして当たりだった。二コール目が終わる前に、通話時間を示すカウンターが動き始める。
「もしもし? 何かあった?」
「ねえ、昨日さ、祈里先輩と会ってた?」
開口一番にそう言った秀那に、佑弥が眉を顰めたのが機械越しにも想像できた。それでも佑弥は律儀に教えてくれる。
「会ってないけど。何?」
ふーん、と秀那は抑揚のない声で呟いた。つまんないの。その言葉は、心の中だけで留めておく。
そうか、なら、あの先輩と行ったのかな。そう考えながら、秀那はいつも祈里の隣にいた男を――塩谷蓮の顔を思い出していた。
本当に、あの先輩は浅岸とどうこうしたいって思ってないんだ。お膳立てのつもりではなかったから、別にいいけど。こっそりそんなことを考える。恋というのは、難しい。
「いや、別に。祈里先輩にさ、お願い事したんだよね。神社の様子見てきてくれませんかって」
「……神社? まさか、白高の裏の? なんでまた……」
そんなところに先輩を。そう続いた佑弥の言葉に、秀那の声が重なる──だって、私が脚を取られた場所だから──ぼそぼそと早口で言われたそれが聞き取れなかった佑弥が、「え、ごめん、もう一回言って」と言った。薄く、秀那は笑う。
「いや。なんとなくね」
祈里にも、それを聞かれるだろうと思っていたのだ。
しかし予想に反して、祈里は秀那のお願い事通り、ただ写真を撮ってきてそれを送ってくるだけに留まった。
そちらの方が、秀那にとっては都合が良かったのだが。いちいちそれっぽい言い訳を考えるのは、面倒だから。それに本当に、祈里や佑弥を納得させられる理由なんて最初からなかったのだ。
鷲宮秀那は、普段から車椅子に乗って生活している。理由は単純で、脚に体重をかけられないから。すなわち、自力での歩行ができないから。だから、車椅子に頼るしか術がないのだ。
病名がつかない以上、病気ではない。怪我をしたわけでもない。おそらくは心因性のものでしょう、というのが医師の見解だった。要は匙を投げられたのだ。
一昔前の日本だったら、妖怪とか、物の怪とか、そういうものが原因だと言われて三日三晩経を読まれていたのだろうか。現代で良かったと、呑気にそう思う。ただし、ある意味それも間違いではないのだが。
自分のことなのにどこか他人事のように思えてしまうのは、それだけ現実味がないからだ。
車椅子とはもう十年ほどの付き合いになるから、その扱いはすっかり手慣れたものだったし、周囲からの視線にも何も感じなくなった。それが、秀那にとっては普通だったのだ。
周りの人間はみんな、秀那に対して腫れ物に触れるかのように接してきた。そうしているうちに、人付き合いというものが酷く億劫に思えてしまって、誰かと積極的に交流するのをやめてしまっていた。そして現在に至る。
何に対しても、やる気が出ない。気力が起こらない。翅を千切られた蝶は、あるいは翼をもがれた鳥はどんな気持ちなのだろうか。きっと、私なんかよりも深い絶望に落とされるのだろう。そう思うと気持ちが楽だった。
クラスメイトとは、事務的な会話以外ではほぼ何も喋らない。大人を除くと、まともに話をする相手といえば、幼馴染みである佑弥と、それから一つ年上の先輩である祈里くらいのものだった。
なぜ、祈里とはこうして彼女が卒業してからも交流があるのか。秀那にも分からない。強いて言うなら、似ている、と思ったからだろうか。自分と同じ、友達がいない、という境遇が。何事にも消極的だという、性格が。絶対に口にはしないし、死んでも本人には伝えないけれど。
「そういえば、この前祈里先輩に会ったんでしょ? 聞いたよ、偶然だったって。あとなに遅刻してんの?」
「たまにはいいだろー? 布団が離してくれなかったんだよ」
「あっそ……」
本当に、いつまでも小さな子供みたいな言い訳をする。祈里先輩は、これを可愛いと言うのだろうか。よく分からない。
数秒、会話が途切れた。秀那としては確認したいことは全て確認できたから、ここでじゃあおやすみ、と通話を切ってしまっても良かった。そうするより前に、「てかさ」と佑弥が言う。
「鷲宮さ、勉強は? 受ける大学、一本に絞ったんだろ? 大丈夫なの?」
すん、とガラスに写る秀那の顔から表情が抜け落ちた。やはりそういう話題になるか。そう思いながら、秀那は指で口角を無理に持ち上げながら言う。
「余計なお世話。どうとでもなるよ」
「うわ、腹立つ」
──どうせ、大学受験なんてしないんだから。
心の中でそっと呟いて、笑った。盛大なドッキリを仕掛けているようで、愉快な気分だった。そしてほんの少しだけ、罰が悪い。
これ以上受験に関する話をされては堪らない。そう思って、風呂に入るとか適当なことを言って今度こそ通話を切ってやろうと口を開いた。それでもやはり、秀那が声にするよりも早く、佑弥は話題を投げてくる。
「あとさ、なんか前からずっと思ってたことあるんだけど、言っていい?」
「やだ」
「鷲宮と関先輩ってさ、なんか似てるよね」
嫌だ、と拒否をしたはずなのに、佑弥はそれを無視して言った。その言葉があまりに予想外で、秀那のスマートフォンを握る手が強張る。自分を全て見透かされているような、そんな錯覚に陥る。
機械越しに、秀那の緊張が伝わるはずがない。佑弥はいつも通りの声音で続ける。
「悪口のつもりじゃないんだけどさ。二人とも、色々諦めちゃってる感じあるんだよね。あともう一歩頑張ればいいのにって」
「……そう、かな」
なんだか喉が渇いてきた。秀那はサイドボードの上のタンブラーに手を伸ばしながら、平静を装って言う。浅岸は馬鹿だから、対面でもない相手の些細な変化には気が付かない。そう信じて。
「そう。だからさ、あと一点で合格だったのに、なんてことになんないようにしてよ。鷲宮はそれを自覚してて、今回は背水の陣で行くのかもしれないけどさ」
「背水の陣なんて言葉、よく知ってたね」
焦る気持ちを誤魔化すように、そう口にした。佑弥は秀那のそんな軽口を、いつものことだと笑って流す。ひとくち、秀那は水を胃に流し込んだ。
「ちょっと、馬鹿にしてるだろ?」
「浅岸が悪口言ってたって、祈里先輩に告げ口してやろうかな」
「えー、やめてよ」
くすくすと、互いに笑い合う。息を吐きながらちらりと時計を見て、そろそろ本当に迷惑になるだろう、とあくまでも軽い声音でそれを口にした。
「それより、浅岸の方が勉強しないといけないんじゃない? 私の心配してる場合なの?」
「あー、耳が痛い。そう言うなら勉強教えてよ」
佑弥の言葉は、きっと冗談だ。本気じゃない。秀那に断られる前提で、そう言っている。だから秀那もその期待に応えて、しっかりとそのお願い事をお断りするのだ。
「嫌だよ。祈里先輩に教えてもらえば?」
「迷惑だろ。申し訳ないからちょっと」
「あっそ。じゃあ自分で頑張るしかないね」
じゃあね、おやすみ、と言って、佑弥の言葉を待たずに秀那は一方的に通話を切った。通話時間、十分と少し。
秀那はスマートフォンを机の上に伏せて置いて、そして深く息を吐きながら天井を仰いだ。
私のために、何人のひとが涙を流してくれるだろう。最近の秀那は、時間さえあればそんなことばかりを考えている。
それができるだけ少ない人数だといい。いつかみんな、私のことなんて忘れて生きてくれたらいい。その度にそう思って、薄く微笑む。我ながら綺麗な笑みだ。きっとどこか名前も知られていない星のように、冷たい笑みだ。
大学受験はしない。なぜなら、それが秀那には必要のないものだから。
一校分だけ受験料を支払ってもらったのは、ただのカモフラージュというやつだ。複数校志願しても良かったけれど、それでは徒にお金が消えるだけだから。それは申し訳ないと子供ながらに思ったから。
机に伏せながら、声には出さずに呟く。親不孝な娘で、ごめんね。
このことは誰にも話していない。友人は元からいないから別として――先生はもちろん、佑弥や親にも。
その理由は秀那と、それから神のみぞ知る、というやつだ。