一月二十五日。その日、昼過ぎまでたっぷりと睡眠を取った祈里は、パートに出ている母親が祈里のために作っておいてくれた、とっくに冷えてしまったオムライスを冷たいまま完食した。
チンして食べてね、とオムライスに添えられていた書き置きは、面倒だからという理由で儚く無視された。
そしてその食器を洗い終えた祈里は、すっかり時間を持て余してしまっていた。
今まで時間がなくて読めていなかった本は昨日までに全て消化してしまった。特に観たいテレビもない。一緒に遊ぶような友人もいない。
ならば仕方ない、かくなる上は駅前に出て本屋に赴くしかあるまい。
趣味と呼べるようなものが読書くらいしかない祈里には、その選択肢しかなかった。運動ついでにも良いだろう、帰りには好きなパン屋さんでマフィンでも買って帰るとしよう。
完璧だ、とそんな一日の予定を思い描きながらクローゼットを開ける。そこで、まだスマートフォンの通知を確認していなかったことに気が付いた。
充電のために繋いでいたケーブルを引っこ抜く。どうせ寂しくロック画面が表示されるだけだろうと思っていたそこに、蓮からのメッセージがあったことを知らせる通知が表示されていた。
こいつも暇だな、と祈里はメッセージを確認する。『起きてるか?』というそれと共に、妙に腹の立つスタンプが送られてきていた。
『さっき起きた』
そう返信すれば、すぐに既読が付いた。かと思えば、スマートフォンが震える。着信だった。祈里は面食らいながらも応答ボタンを押す。
「……はい」
「暇なんだよ」
「……切っていい?」
わたしじゃないんだから、あんたには友達くらいいるでしょう。そう言ってやりたい気持ちもあったが、寝起きのせいもあって上手く口が回る自信がなくて、やめた。
スマートフォンの向こうで「まあまあ、そう言うなって」と蓮が言う。
「いや、今から出掛けるから準備したいんだけど」
「は? 誰かと予定あったのかよ」
「一人だけど文句ある?」
少々強い声でそう言えば、返ってきたのはけらけらと楽しそうな笑い声だった。何が面白いのかさっぱり分からない。それに怒ることすら面倒に感じられた。諦めとも言う。
「俺も連れてってくれよ。どうせ織古だろ?」
「勝手にすれば……」
断る理由もなければ、気力もなかった。
食べたばかりで空いていない腹に、正月の残りの餅をゆっくり詰めながら準備を済ませ――悪くなる前に食べておいてと昨晩母に頼まれていた――、蓮に『今から家出る』と簡潔なメッセージを送信する。
既読が付くのを待たずに、着ていたコートのポケットの中にスマートフォンを突っ込んだ。
織古駅に着いて改札を抜けると、蓮はすでにそこにいた。「おっせーよ」と言う蓮に、「いや、知らないし……」と祈里はじとりとした目で返す。
勝手に着いてくると言ったのはあんたなんだから、それくらいで文句を言うな、そうでないなら今すぐ帰れ、というのが祈里の言い分だった。ただし、内心で吐き出すのみだが。
織古駅に隣接するショッピングビルに入ると、その瞬間に暖房の温風が祈里たちを包み込んだ。
「あったか……」
小さくそう言えば、「だな!」と明るく蓮が相槌を打った。
やはり男は元気だな、と偏見に塗れた感想を抱きながら、新作の並ぶアパレルショップを横目で眺める。わたしには似合いそうにないが、ヒナちゃんが着たならきっと映えるだろう。そう思った。いつもこうだ。
平日とはいえそろそろ夕方になる時間だからか、制服姿の学生たちがそこかしこに見受けられた。ほんの一年前に自分も同じものを着ていたというのに、その実感はほとんど薄れてしまっている。
「ていうか塩谷、バイトは? クビにでもなったの?」
いつだったかに、そんな話をしていたことがあったはずだ。具体的にどこで働いていると言っていたかは思い出せない。もしまだアルバイトを続けているのなら、祈里に構っているような時間なんてとてもないと思うのだが。
「失礼だな、ちゃんと入ってるよ。今日はオフなんだよ」
「ああ、シフト削られたんだ」
「たまたまだよ!」
はいはい、と適当にあしらえば、「昨日まで三連勤だったっつーの」と蓮が小さな声で言うのが聞こえた。面倒なので、それには返事をしない。自分から話題を振ったというのに、あまりに雑な対応だ。
「そういや、祈里は? バイトしねーの? 暇だろ、毎日」
「……前期も後期も、授業詰め込みすぎてそれどころじゃなかったの。あんたと違って」
「いや、祈里が五限六限まで授業入れまくるのが悪いんだろ」
半ば呆れたようにそう言う蓮に、「仕方ないでしょ」と祈里は返した。
資格のために必要な授業なのだ。祈里が複数の資格を取得しようとしているのに対して、蓮はその類には興味はないらしい。サークルにもいくつか在籍していると言っていたし、随分と大学生活を謳歌しているようだ。祈里と違って。
それはともかく、確かにこうして長期休みの度に暇になるのは困る。
社会経験も兼ねて短期のアルバイトを探すべきなのだろうか。実家暮らしかつ親の脛をただただ齧り続ける生活にも罪悪感が芽生えはじめてきたものの、肝心の両親は祈里にアルバイトの話題を振ることさえしない。全く、放任主義な両親だ――閑話休題。
いくつかのフロアを移動し、途中の雑貨屋を冷やかす。そうしている中で、ふと祈里の目に留まるものがあった。
「あ、浅岸くんだ!」
ほんの僅かに高くなったその声に、蓮が「あ?」と小さく漏らした。祈里の視線の先には、友人だろうか、同じ制服を来た男子と連れ立って歩く佑弥がいる。
「いいね、青春って感じだね」
そう言いながら蓮の方を振り向くと、思ったよりも蓮との距離が近くて驚いた。どぎまぎとする心情に気付かれないようにぱちぱちと瞬きを繰り返していると、「そーかあ?」と蓮が首を傾げた。
「普通じゃね。それより、そんなオバサンみたいなこと言うなって。まだまだ俺ら、大学生になったばっかりですよ」
「もう次に登校するときには二年生なんだけど……」
「つーか、声かけないで良いのかよ?」
祈里の声が聞こえなかったふりをしながら蓮がそう言った。祈里も特に気にはせずに、蓮の言葉を咀嚼する。
「え……気持ち悪くない?」
「アピールだよ、アピール」
もはや聞き慣れた蓮の呆れた声に、祈里はむくれてみせた。声をかける勇気があったなら、言われなくてもとっくにやっている。
そんな会話をしている間も、祈里の視線は佑弥に奪われたままだ。そうしている内にあちらの連れが祈里の視線に気が付いたのか、佑弥の肩を叩いた。こちらに指を向けられる。佑弥と目が合った。
「わ」
笑顔と共に会釈をする佑弥に、祈里は照れたように口元を覆った。その手とは反対のそれでひらひらと佑弥に手を振っている。
それに蓮は「アイドルか何かかよ」と白い目を向けた。そしてはあ、と溜息を吐く。
「おら、行くぞ」
「あ、あー……」
「俺らが動かないと後輩のあいつらも遠慮して動かねーの! どうせ声かけるわけでもねえのに、いいだろ別に!」
聞き分けのない幼子に言って聞かせるようなそれに、しかし反論の余地のない祈里は口ではなく手が出た。パンッ、と小気味良い音を響かせながら遠慮なく肩口を叩けば「いってえ!」と蓮が唸る。それに祈里はご満悦、と笑みを深めてみせた。
当初の目的であった本屋に寄って、新刊コーナーのポップを流し見ながら数冊のハードカバーを買った。小説の類を読まないらしい蓮は早々に漫画のコーナーへ逃走していた。
会計を済ませ、蓮を回収してから本屋のフロアを出る。後は駅の裏にあるパン屋に行くだけだ、と思っていたところで、「あっ」と何かを思い出した様子の蓮が声をあげた。
「そういや俺、ルーズリーフ買わなきゃなんねーんだったわ」
なるほど、この上のフロアには某有名雑貨店が入っている。祈里は頷いた。
「買ってくる? どうせレジすっごい並んでるけど」
下りのエスカレーターに乗ろうとしていた身体の方向を変え、上りのエスカレーターの方へと足を向けながら言う。蓮が頷いた。
「おう、行ってくる」
今日も今日とてこの雑誌屋のレジは長蛇の列だ。仲良く並ぶつもりのない祈里は文具のコーナーに消える蓮を見送って、レジ近くの壁に凭れかかる。数分は待つことになるだろうか、とスマートフォンを取り出すためにコートのポケットに手を突っ込んだときだった。
「こんにちはー」
その挨拶が自分に向けられたものだと気が付くのに数秒かかった。えっと小さく呟きながら、恐る恐るその声の主を確認する。
目が合って、あ、と心の中で叫んだ。祈里の勘違いでなければ、それは先ほど佑弥と一緒にいた男子生徒だった。そんな祈里の心の内などお見通しだと言わんばかりに、目の前の彼はふっと余裕げに笑って言った。
「深川です、どーも。センパイのことは、佑弥からよーく聞いてるよ。お世話になってます」
その自己紹介で、思い出した。中学、高校と校門近くに掲げられた横断幕の、佑弥の隣に書かれたその名前。見覚えがある。そうだ、確かそんな名前だった。
それと同時に、二週間ほど前に佑弥が話していた、ダブルスを組んでいるという従兄弟の存在を思い出す。点と点が繋がったような感覚だった。そうか、彼が。
「どうも……」
小さな声で返しながら一人で勝手に納得して、そして佑弥は一体彼に自分のなんの話をしているのだろうと気が気でなくなってきたとき、深川がその目を細めて言った。
「……センパイ、佑弥のこと好きなの?」
「え」
年下なはずなのに敬語じゃないこととか、初めての会話で随分踏み込んでくるなとか、そんなことは不思議と気にならなかった。ただ図星を突かれたことで、祈里は全力で視線を泳がせていた。
どうして初めて顔を合わせたばかりのような人たちに、こうも祈里の恋はあっさり見破られるのだろうか。そんなに分かりやすいのだろうか、これでは本人に気持ちがばれるのも時間も問題ではないか、あるいはもう既に知られてしまっているかもしれない。
否定も肯定もせずに混乱する祈里の反応を見て、「ふーん」と深川は自身の手元に視線をやる。寒いのだろうか、指先を擦り合わせながら、そして軽い口調で言った。
「止めといた方が良いと思うよー」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。着ている無難なデザインのワンピースの裾を握りながら、祈里は声を詰まらせる。それは、一体。口にするより前に、「だって」と深川が笑った。
「あいつバカだもん。本当、テニスと……あの人のことしか考えてない」
決して馬鹿にしたような笑い方ではなかった。何かを諦めたような、どこか呆れたような、そんな、悲しい笑い方だった。深川の顔がこちらを向く。
「あいつはセンパイを幸せにはしてくれない。……ま、幸せなんて、そんなの人それぞれか?」
綺麗な顔で、にこにこと笑っている。佑弥からは従兄弟だと聞いていたが、それにしては似ていない。例えば、佑弥が犬なら目の前の深川は猫。それくらい、違う。
「気になる?」
に、と片方の口の端を持ち上げ、意地悪く笑う深川に、祈里は躊躇いながらぎこちなく頷いた。本人の知らぬところで聞いてもいい話ではないかもしれない。
だよねー、と深川が笑って、簡単に口を開いた。
「……僕とあいつがイトコだってのは知ってるでしょ? で、共通のハトコがいたんだよ」
はとこ。新たな登場人物にきょとんとしていれば、深川がすっとその笑みを消した。
「死んだよ。病気で、あっさり」
突然の展開に、思わずえっと声が出そうだった。内心では出していた。
「いい人だった。僕達より一回りくらい年上だったんだけど、よく面倒見てくれて……テニスも、元はと言えば……」
それを聞いて、はっと息を呑む。祈里にはその話に、思い当たる節があった。『そうなんすよ! すごかったんです。色んな大会に出てて』そう佑弥が目を輝かせて話していた、憧れの人。
深川はそこで言葉を濁した。
「僕はもう吹っ切れたけど、あいつは違うからさ」
これ以上は話さない方が良いと判断したらしく、曖昧に微笑みを寄越す。
圧倒的な情報量に困惑して全力で頭の上に疑問符を浮かべてみせる祈里の、その間抜けな顔を見て深川が笑った。かと思えば、上がった口角だけをそのままに、瞳が鋭くなる。
「あいつの幼馴染みだっけ、あれも病気だよね? 違うっけ? ま、興味ねーけど」
秀那のことだ。そうは思ったが、祈里も秀那の脚については詳しくない。どう返事をしたものかと思っていると、深川はちらりとどこかに視線をやりながら言った。
「とにかく、おすすめはしないよ。良いやつだよ、それは保証する。でも、それとこれとは話が違うでしょ。まあでも、そうだな……あのセンパイよりは、マシかもね」
それって、誰のこと。そう尋ねる前に、深川が動いた。
「おっそい佑弥、行くぞー」
そこでやっと気が付く。蓮が並んでいたレジの列に、偶然佑弥も並んでいたのだ。深川はそれを待っていた。その暇潰しに、祈里に声をかけていたのだ。
「ごめんって。でも俺のせいじゃなくね?」
「はいはい。ほら、センパイに挨拶しときなよ」
深川に促されて、佑弥が祈里の方を向いた。そしてぱっと笑って、「こんにちは!」とレジ袋を片手に懐っこく言う。
「最近また寒くなってきたんで、風邪とか気を付けてくださいね!」
「うっわ、媚びるなー」
「いいだろ別に! じゃあまた、先輩!」
佑弥もよく表情がころころと変わるが、深川もどうやら同じらしい。血は侮れないというやつだろうか。
そんなやり取りを感情の籠らない目で蓮が見つめていたことに気付いていたのは、深川だけだった。