あっさりと夜が明けた。空は何事もなかったかのように、今日も明るい。
昨日はあのまま話ができる状態ではなくて、蓮に促されるままにまっすぐ帰宅した。
祈里の方から呼び出したというのに、このようなことになってしまったことが申し訳なかった。
ごめん、と何度も謝れば、その度に「祈里のせいじゃないだろ」と笑ってくれた。
帰ったら何かしらのメッセージを寄越してくるかと思っていたが、蓮にしては珍しく、何も言ってこなかった。おそらく気を遣われている。
その日の午前中に、佑弥が渡したいものがあると言って祈里の家を訪ねてきた。見慣れない佑弥の私服姿に心を躍らせる余裕は、残念ながらない。
昨日、秀那の母から連絡を受けた佑弥は、その足で秀那の家に向かったらしい。そこであるものを預かったから、それだけ渡すのに時間をくださいと、昨晩連絡があったのだ。
上がっていく? と尋ねはしたが、すぐに帰りますよ、と引き下がられる。
確かに今日は日曜で、リビングに両親がいる。気まずい思いをさせるのも申し訳ないので、玄関で話を聞くことになった。それに、うっかり長居をさせてしまったら佑弥の受験勉強の邪魔をしてしまうことにもなりかねないだろう。
佑弥はカバンから一通の封筒を丁寧に取り出すと、「これ」と祈里に手渡した。
「鷲宮の部屋の、机の上に置いてあったそうです。先輩宛です」
それはシンプルながらに可愛らしいデザインの封筒だった。
封筒の表、その中央には秀那の字で、祈里先輩へ、と宛名書きがしてある。
「中は警察の人しか読んでないみたいです。……気持ちが落ち着いたらでいいので、読んでやってください」
すぐには何も返事ができなかった。ややあってから、一度だけ、頷く。
「……浅岸くんも、貰ったの? 手紙」
「受け取りました」
「なんて書いてたのか、聞いてもいい?」
そう尋ねると、佑弥が俯いて黙り込む。
やはり聞かない方が良かったか、と謝罪の言葉を口にしようとしたとき、佑弥が顔を上げて、へらりと力なく笑った。
「これからも馬鹿で素直な佑弥でいてねって。最後まで悪口でしたよ」
それを聞いて、そっか、と祈里も微笑む。きっと、書かれていたのはそれだけではないだろう。しかし、彼ららしいと言えばらしい。
祈里は渡されたその封筒を、まじまじと見つめた。真っ白いそれ。自然光に反射して、きらきらと紙が控えめに光っている。それから、ところどころに散る桜の花びら。まるで秀那のように、繊細なデザインだ。
「あと、これはあんまり気にしなくていいんですけど、鷲宮の両親が先輩に会いたがってました。ほら、あいつ友達が少ないから。それと、このことを気に病んでいたら申し訳ないから、謝りたいって」
「……えっと」
「伝えてくれって言われたから伝えましたけど、ほんとに気にしなくていいですよ。気まずいでしょ」
そう言って、佑弥も困ったように笑っていた。祈里も祈里で、後ろめたい気持ちからその申し出には今は頷けそうにない。
秀那は財布も、スマートフォンも、車椅子も、何もかもを置いていなくなったそうだ。本当に、何も持たずに身一つで消えたのか。
「あー、あんまり綺麗に消えたもんだから、未だに実感湧かなくて。今日にでもひょっこり帰ってきそうっていうか。でも、これで大学落ちたら、あいつのせいにできますね」
実感が湧かないのは、祈里も同じだ。もしかしたら、駅でまた会えるんじゃないか。電話に出てくれるんじゃないか。現実を受け止めきれなくて、そんな期待をしてばかりしてばかりだ。
「……ヒナちゃんのせいにするのは、だめだよ」
「あはは、だめですか?」
そう言って、佑弥は下手くそに笑った。数秒ほど、何か言葉を探していたようだったが、諦めたのか「じゃあ、そろそろ帰りますね」と言って玄関のドアに手を掛ける。
「日曜の朝からすみません、お邪魔しました。また何かあったら連絡します」
「こっちこそごめんね。ありがとう、気を付けて帰って。あと……」
何か、声をかけてやらなければと思った。しかし咄嗟には何も浮かばず、呼び止めてしまったことを後悔しそうになる。佑弥は不思議そうな顔をして、祈里が続きを口にするのを待っていた。
「ヒナちゃんが、前に言ってたんだけど。嫌なこととか気に入らないことは、神様のせいにしたらいいって」
必死に頭を回転させて、出てきたのがそんな言葉だった。いつだったか、秀那が言っていた言葉。しかし細部が微妙に違う気がする。自信をなくしてきた祈里が内心で頭を抱えていると、佑弥が笑って言った。
「あいつらしいですね」
*
うたた寝をしていたようだった。
アラーム代わりになったのはメッセージの通知音で、ぼやぼやとピントの合わない目でなんとか時計を確認した。正午になる少し前。
確か八時頃にいったん目を覚ました記憶がある。ただどうにも無気力で、また意識を落としてしまったのだった。どちらにせよ、大した時間は寝ていない。
秀那がいなくなって一週間が経った。
あれから何度秀那にメッセージを送っても、それが既読になることはなかった。当たり前だ。
佑弥からは、秀那のことがあってから度々連絡を受けている。とは言っても、電話がかかってきたのはあの一回きりで、それ以降は全てメッセージ上でのやり取りだった。佑弥なりに気を遣っているのか、その方があちらにとっても都合が良いのか。
佑弥は今、何を思っているのだろう。あれから、泣いてはいないだろうか。きっとショックを受けただろう、落ち込んでいるだろう。受験前なのに、大丈夫だろうか。
片付いた女の子らしい部屋、開け放された窓、風に泳ぐレースのカーテン、置き去りにされた車椅子、エトセトラ、エトセトラ。
実際に目にしたわけでもないのに、はっきりとその光景が目に浮かぶ。想像力だけは逞しく、余計に祈里の心を傷付ける。
徐々にはっきりとしてきた目で通知を確認すれば、直近のものの送り主は蓮だった。ついでに、数時間前に母親から。
『今何してんの?』
それは蓮からの一週間ぶりのメッセージだった。なるほど、今日も蓮は暇をしているらしい。
本当にこいつは変わらないな、そんな感想を抱くと共に、そのことが有難いな、とも思うのだ。同時に多少の苛立ちも感じる。
『寝てた』
端的に事実のみ返信すれば、既読はすぐに付いた。
すぐに何かしらのレスポンスがあるかと思ったが、一、二分待ってみてもなかなか返事は来ない。
何か迷っているのだろうか。猪突猛進は言い過ぎにしても、勢いよく突っ走るイメージのある蓮にしては珍しいことだ。
スマートフォンの画面を閉じようかと思ったところで、それがメッセージの受信を知らせた。
『今から会えねえ?』『白旦まで行くからさ』
少し考える。とてもではないが、今はまだ人に会える気分ではない。しかし、このまま一人で悶々と過ごしていても良いことはないだろうというのは、祈里にも分かっていた。
きっと蓮も、祈里に気を遣った上で外に誘ってくれているのだろう。祈里だって、それくらいは察することができる。それに遅かれ早かれ、蓮とは話さなければならないことがあるのだ。それが今日になるのかは、不明であるが。
『一時間後でいいならいいよ』
『了解』『じゃあ白高のとこのコンビニのイートインで待ってる』
長考の末に、祈里はそう返信した。今度はすぐに蓮から返事がきて、トークルームは静かになる。
無気力なまま、祈里はベッドの隣のデスクへと手を伸ばした。指先が硬い紙に触れて、それを皺が付かない程度に引っ掴む。
この一週間で、何度も読んだ。何度も何度も読み返した。
たった一言、その文字を。たったの一文だけの、彼女からの言葉を。
『幸せになることは、罪じゃないんです』
じわりと目の奥が熱くなって視界がぼやけた。便箋の上で文字が踊っている。
たったこれだけ。これだけの言葉に、祈里はこうも心を乱されている。
結局、この件は家出として処理されることになりそうだ、と佑弥から聞いた。
部屋に荒らされた形跡がないこと、秀那が書いたと見られる手紙が数点部屋に残されていたこと、受験前のストレスの溜まりやすい時期だということ。
挙げればもう少し理由はあるが、とにかく事件性が見られないことがその理由らしかった。
何をしようとも思えず、起きたままの恰好で天井を見つめる。ぼんやりと焦点が合わない目で、ただ時間が流れていくのを待つように。
しばらくそうしていると、聞き慣れた通知音で現実に引き戻された。佑弥か、蓮か。以前までは蓮くらいのものだった選択肢が二つに増えたのは良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。問われるまでもなかった。
メッセージの送り主は佑弥で、その内容はやはり秀那のことのようだった。ただし、今回は少し毛色が違うようだった。
『鷲宮のことで話があるんですけど、会えますか?』『七日で受験が終わるんです。織古が会場なので、良かったらその後に会いたいです』
それを断る理由が、祈里にあるわけがなかった。『いいよ』と返事をして、それからスタンプを添える。
たったそれだけの動作で力尽きて、大きく溜息を吐きながら目を閉じた。
通知音が鳴った。佑弥からの返信だろうと想像はついたものの、投げ出した腕の、その手に握ったままのスマートフォンの画面をオフにする。きっとスタンプが返ってきたか、お礼の言葉を言われたのか、どちらかだ。
この後蓮と顔を合わせて、一体何を話せばいいのだろう。脳裏をちらつくのは、蓮の告白の言葉だ。
秀那と話す中で、答えは決めた。その決意が揺らがないように、蓮を待たせないために。あの日、しっかりと伝えるはずだったのに。
秀那がいなくなって、とてもではないが色恋のことを考える気分にはなれなかった。しかし秀那ひとりがいなくなったところで、祈里の世界は回り続ける。
もうこの先一生、秀那は見つからないだろうという、確信めいたものが祈里にはあった。そしてきっと、秀那は望んで姿を消したのだろうと。漠然と、そうだとも思っていた。
今にして思えば、秀那の最後の言葉は不自然だった。
『また結果、教えてくださいね』なんて。秀那が自分から約束じみたものを取り付けるなんて、考えられないことだと分かっていたはずだったのに。
「……」
思考が深みに嵌る前に、ようやく重い体を起こした。ベッドから降りて、家を出るために準備をしようと部屋を出る。
身支度に準備がかかるだろう、そう思って一時間後だと言ったのに、着替えて髪を整えて、そしてカバンに財布を入れただけで祈里の身支度は完了してしまった。ここから蓮に指定されたコンビニまでは、歩いて五分と少ししかかからない。
祈里が化粧やアクセサリーなんかに気を遣うタイプだったら、ここまで時間を持て余すこともなかっただろう。
ちなみに言うならば、リビングの食卓の上に母親からの書き置きがあって、『最近よく寝てるようだからご飯は用意していないけど、お腹が空いたらあるものを適当に食べてください』と伝言が残されていた。
さすが祈里のことをよく分かっている。祈里の食が細くなっていることにも気付いているのだろう。そんな察しの良い親だから今の今まで反抗らしい反抗もせずに済んでいるのだろうと、そっと笑った。
書き置きの下の余白に、ありがとうと書いてリビングを出る。母親がこれを見ることになるかは、分からない。――秀那は、一体どんな気持ちであの手紙を書いたのだろう。頭の端で、そんなことを考えながら。
玄関の姿見の前に立つと、そこに映る無難な服を纏った自分と目が合う。そして化粧っ気のない顔に、苦笑が滲んだ。
こんなときにいつも比較対象にするのはやはり秀那だ。憧れの女の子。つい守りたくなるような、そんな、存在だったのだ。
こんなのの、どこが良いって言うんだ。あいつは。
少なくとも、今の祈里には理解のできない感情だった。ぐちゃぐちゃの思考のまま、祈里は家を出た。