2.


 約束の時間の十五分以上前に、祈里はコンビニに着いた。
 駐輪スペースの隅に見覚えのある自転車が停められていて、蓮のものだろうな、と容易に思い至る。
 それを横目に店内に入って、そういえば何を買うかを全く考えていなかった、と気が付いた。
 平日の昼時を過ぎた時間帯だからか、客は祈里以外には見当たらない。店員の視線から逃げるかのように、レジからの死角にあたるチルドスイーツのコーナーへと無意識に向かう。
 そこには祈里以外の客がいた。店内でそれまで誰ともすれ違わなかったせいで、祈里は少々面食らう。見覚えのあるデザインの制服を着たその客は、祈里という別の客の存在に気が付いて顔を上げた。
「あれ、センパイじゃん。どうしたの?」
「……深川くんこそ」
「あれ? 僕のこと覚えててくれたんだ。嬉しいなー」
 それはこちらのセリフだ、と祈里は思う。そこにいたのは深川だった。
「学校帰りに新作スイーツ買いに来たの。ご褒美ってやつ?」
 そう言って深川は手に持っていたいちごのクレープを祈里に見せてくる。甘いものが好きなのだろうか。
 深川はにこにこと人懐っこい、それでいて人を寄せ付けない笑みを浮かべている。矛盾しているような、不確かな雰囲気を纏っていて、全く掴みどころのない人だなと祈里は思う。
「……授業は?」
「もう自由登校ですー。僕はもうとっくに進学先決まってるから。今日はちょっと顔出しただけ」
 そういえばそうだった。深川の持っているカバンはスカスカでどう見積もっても教材その他が入っているようには見えないし、例えば先生と少し何かを話したとか、部活に顔を出していたとか、本当にその程度の用事だったのだろう。
 そっか、と薄っぺらな返事をしたきり、会話を続けることができずにどこか気まずい空気が流れた。完全にその場を立ち去るタイミングを見失った。そしてそれは、深川も同様のようだった。
 ふと、その涼しげな目と目が合った。
「……消えたんだってね。あの子」
 小さな声だったのに、妙にはっきりと耳についた。店内が静かだからだろうか。スピーカーから絶えなく流れるBGMがやけに遠い。
「……やっぱり、学校でも噂になってるの?」
「いいや? 僕は佑弥に聞いたの。学校なんて、今は進学クラスのやつらとか、一部のやる気のあるやつしか行ってないよ。知ってる人は少ないだろうね。先生くらいじゃないの」
 時期が良かったね。深川はそう言って祈里から視線を外した。項の辺りの髪をいじりながら、何か逡巡するようにその薄い唇を開いては閉じてを繰り返している。そうして意を決したように、言った。
「センパイとあの子って、似てるよね」
 どこか真剣な面持ちで、深川はそう言った。思ってもみなかった言葉に動揺して、祈里が「えっ?」と目を瞬かせる。二の句が継げない祈里に、深川が慌てたように付け足した。
「あーいや、見た目とかじゃなくて。なんというか、二人とも……全部を諦めたような。そういう目をしてる」
 それはそうだろう、祈里と秀那では顔の系統も、纏う雰囲気も、何もかもが違う。しかし。
「……目?」
 そんなこと、一度だって思ったことはない。全部を諦めたような目。自身には、心当たりがないこともない。秀那にも指摘されていたことだ。──ならば。
 秀那は一体、何を諦めていたというのだ。
「まあこれを言い出したのは僕じゃなくて佑弥なんだけどねー。急に思い出しちゃった」
「……浅岸くんが?」
「あいつ馬鹿だけど、意外とセンパイのことちゃんと見てるよ」
 そう言う深川の表情は、とても嘘を言っているようには思えないものだった。
 ぽかんとする祈里の顔を見て深川は思わずといった様子で笑って、そしてクレープを持っていなかった左手を軽く挙げた。
「まあ、頑張って」
 そう微笑んでからレジへ向かっていった深川の背中を、祈里は数秒その場で見つめていた。

 チョコレート菓子とペットボトルのジャスミン茶を買って、二階のイートインスペースへ向かう。その一番奥、隅のスペースに、蓮がいた。ここにも客は蓮と、それから祈里の他にはいないようだった。
 遠目で見ただけでも、蓮の座るテーブルにはサンドイッチや唐揚げ、コーヒーなどが種類豊富に並べられていて、食べ盛りなのだろうか、と月並みな感想を抱いた。元気なのはいいことだ。
「おはよう。元気そうだね」
 そう言う祈里の声には覇気がない。後ろから声をかけられた蓮が顔を上げて、祈里の顔をじっと見る。何を言おうとしたのか薄く口を開いて、そして閉じてしまった。数秒思案したあと、また口を開く。
「……なんか、痩せたな。飯、ちゃんと食ってるか?」
 蓮にしては珍しく控えめな声音だった。心配されている、と祈里は強気に返すこともできなくなる。
 体重計にはここ数か月乗っていないから自分ではよく分からないが、蓮がそう言うなら本当にそうなのかもしれない。ただし正確に言うなら、痩せたではなくやつれた、だろう。
 祈里は蓮の座る隣の椅子を引いて、買ってきたものと、それからカバンをテーブルに置いてそこに座った。
「食べてない、かも。でも、元気だよ」
「馬鹿か。どこをどう見ても元気そうには見えねーよ」
 蓮は祈里の買ったチョコレート菓子とお茶を見て顔を顰める。まだ手をつけていなかったらしいサンドイッチのもう一切れを指差して、「食うか?」と尋ねた。
 祈里は首を横に振る。それに「だろうな」と返すと、大きな口でサンドイッチを頬張った。
「あー、この一週間、何してたんだ?」
 蓮がサンドイッチを食べ終わるまで、祈里は一言も喋らずに俯いたままだった。菓子どころか、お茶にも手を付けようとしない。
「なんにも。食べて、寝て、終わり」
「……そう、か。今が春休みで良かったな」
「それは、本当にそう思う」
 この状態で授業に出てもきっと身が入らなかっただろうし、そもそも学校に行けていたかどうかすら怪しい。
 祈里たちの座るカウンターは壁に隣接するように設置されている。その壁、テーブル面より上の部分には一面にガラスが張られ、そしてその向こうには人通りのない歩道が見えた。
 たまに車が通ったり、鳥や枯葉が横切ったり、風に木々が煽られたりと、そんななんでもない風景を心の籠らない目で眺める祈里に、蓮が眉を下げた。
「今の祈里、溶けて消えそうだ」
「……何それ。塩谷って、そんな詩的なこと言うキャラだっけ? それに、それを言うなら」
 溶けるように消えていなくなってしまったのは、ヒナちゃんの方だ。
 思わず薄っぺらに笑ってしまいながら、そんな言葉の続きを心の中で呟いた。口には出さなかくても、きっと蓮には伝わっただろう。
 しばらく沈黙を挟んで、蓮が「あー、とさ」と口を開いた。
「そういやさ、鷲宮ってどこで行方不明になったんだ? 学校帰りとかか?」
 知らない相手でもないから気になるのだろう、できるだけさりげなく言ったつもりらしい蓮が、目線を不自然に彷徨わせている。
 そういえば、蓮は事の顛末を何も知らないのだ。ただ、鷲宮秀那という一人の少女が姿を消したという、その事実しか。
 ぺらぺらと他人にこのことを話してもいいものかと、祈里は悩んだ。しかし相手は長年の付き合いの蓮で、それなりの信用はある。
 それに、これを祈里のちっぽけな体で抱え込むには、無理があった。きっとこのことを話すために今日自分は彼に会っているのだと、そうとすら思った。
 祈里は少しの逡巡の後に、「ううん」と首を横に振った。ペットボトルに手を伸ばして、蓋は開けないまま、そのボトルを両手で握り込む。
「気付いたら、家からいなくなってたの。窓が開いてたんだって。部屋の鍵は内側から閉まってた」
「……鷲宮の家って、一軒家か?」
「マンションの八階」
 すかさず祈里がそう言えば、蓮が数秒黙り込んだ。それから開き直ったように言う。
「意外と普通に玄関から出たんじゃねえの? ブラフかもしれねえだろ、ほら、部屋の鍵くらいの簡単なものならよくあるトリックでなんとかなるんじゃねえ?」
「玄関だって鍵はかかってたのに? チェーンロックまでそのままだったのに? ヒナちゃんの部屋から鍵も出てきたのに?」
 またしても蓮が黙り込む。さらに祈里は続けた。
「ちなみにマンションはオートロックで、ロビーには監視カメラもある」
 つまり、少なくとも不審者がロビーから堂々と侵入したというのはあり得ないことで、同様に秀那がロビーを通って外へ出たという事実も確認ができないのだ。
 蓮が座っている椅子の背凭れに体重を預けて天井を仰いだ。ぎし、とプラスチックの軋む音がする。
「もう神隠しじゃねえか」
「逃げないで。わたしよりも先に思考を放棄しないで」
 しばらく互いに黙り込む。祈里ははあ、と蓮に気付かれないように小さく溜息を吐いて、指先でチョコレート菓子のパッケージをつついた。かさりと音を立てるそれを冷めた目で見つめながら、また口を開く。
「……いなくなったのは、深夜から明け方にかけて。それまでは、わたしと、会ってたの」
 そう言った祈里に、蓮が僅かに目を見張った。祈里が言いたいことが、蓮にも伝わったようだった。
 あの日、佑弥が祈里にわざわざ電話を寄越したのは、きっと祈里たちの仲を思ってのことではない。──否、それも多少はあったのだろうが、それ以上に──佑弥は、祈里が昨日秀那と会っていたことを知っていた。
 日曜日に聞いた話から察するに、それは秀那の親から聞いたのだろう。もしかすると秀那本人が話したのかもしれない。とにかく、秀那が失踪する直前、最後に彼女に会っていたのは十中八九、祈里だったのだ。
 何か手がかりが欲しかったのだろう。結局、祈里は何も知らないどころか、受け応えすらまともにしてやれなかったわけだが。
「……でも、鷲宮は確か車椅子がないと移動できないんじゃなかったか? 少なくとも、第三者の協力はあったはずだろ。それが善意からか、悪意あってのものかは別だろうけど」
 祈里の話に度々出てきていた秀那のことは、蓮だって少なからず知っている。もはや、単に他人とは思えないほどには。
 そうでなくても、祈里が秀那のことを知るきっかけを与えたのはほかでもなく蓮なのだ。車椅子のことも、秀那が自力では歩けないことも、蓮は覚えている。
「それは、そうなんだけど。でもヒナちゃんが歩けないのは原因不明で、はっきりした病名があるわけじゃなくて……だから、言い方は悪いけど……例えば、歩けないっていうのはヒナちゃんの狂言かもしれないって……」
「……は? なんだそれ。それで親御さんは納得したのかよ」
「してない。するわけない。……でも、否定をすることも、できない」
 なんだよ、それ。やりきれなさそうな声で言う蓮に、祈里は頷きすら返す気力がなかった。特に秀那と関わりのなかった蓮でこれだ。佑弥や秀那の両親のことを思うと、何を口にするのも憚られる。
 何か悩みがあったの。どうして何も言ってくれなかったの。今どこにいるの、なんで、どうして、なんで。ぐるぐると回る頭が気持ち悪くて、酔ったように視界が定まらない。
「ヒナちゃんと、結構仲良いつもりでいたんだけど。わたし、よく考えたら、ヒナちゃんのこと全然知らないんだよね」
 血液型、誕生日、好きな音楽、好きな本、嫌いな食べ物、やりたいこと。何も、知らない。
 そういえば、鷲宮秀那という少女は、多くを語ろうとしない人間だった。いつも祈里の話を聞いて、たまに佑弥の話をして、笑っていた。
「流星群の日が、もう少し遅かったら良かったのに」
 それなら、もし、そうだったなら。
「ヒナちゃんを返してくださいって、お願いしたのに……」
 涙こそ流れそうにないものの、どうしようもなく泣きたい気持ちだった。泣き叫んで、でもそうしたところで何も変わらない。
 握りこんだ手のひらに、切るのが面倒だからと伸ばしっぱなしだった爪が食い込む。祈里のスカートに皺が寄るのを見て、蓮がぽつりと呟いた。
「まさかとは思うけどさ」
 祈里が俯いていた顔を上げて蓮の方を見ると、蓮は片肘をついて、やや怪訝そうな目つきで祈里を探るように見つめていた。
「祈里さ、鷲宮が消えたのは自分のせいだなんて、思ってねえよな?」
 否定してくれよと、蓮の目が言っていた。そんなに心配しなくても、大丈夫なのに。祈里はそう思う。
 わたしに彼女の後を追いかける勇気なんて、あるはずがないのだ。
「……まさか。思ってないよ」
 絞り出すような声で、祈里はそう答えた。祈里には、自分が秀那に何か影響を与えられるようは存在だったとは思えない。
「……なら、いいんだ」
 安心したと言わんばかりの声だった。蓮は本心から祈里を心配しているのだろう、本人が言うに、仮にも想い人なのだから。
「鷲宮、どっかで元気にしてるといいな」
「……うん」
 ぼんやりと、ガラスの向こうの世界を見つめる。代わり映えのしない、なんでもない、平和な日常がそこにはある。
 あの日の夜、秀那は星に、かみさまに一体何を願ったのだろう。
 それが分かったところで祈里が代わりに秀那の願いを叶えてやれるとは限らないし、当の秀那も帰ってこない。
 鷲宮秀那は死んだ。少なくとも祈里の中では、息を止めた。
 祈里の中の秀那が生き返るのは、また祈里の目の前に秀那が姿を見せる日まで有り得ないだろう。そしてそんな日が二度と来ないだろうということを、祈里は予感していた。
「……ねえ、七日に、浅岸くんと会ってくる」
「は?」
 どうしてそれを報告しようと思ったのかは、祈里自身にも分からなかった。ただ蓮の反応を窺いたかっただけかもしれないし、ただ口をついて出ただけかもしれなかった。そしてそれに、蓮は不機嫌そうに眉を寄せた。
「何時」
「えっと、三時。午後の」
「ふーん」
 自分から聞いたというのに、蓮は興味なさそうに冷めきった唐揚げを口に入れながらそう言った。その目に祈里を映さないまま、それを咀嚼する。
 それ以上、蓮は何も言わなかった。もしかすると告白の返事を催促されるかもしれないと身構えていた祈里としては拍子抜けだった。しかしそのことに安堵している気持ちもある。祈里もこれ以上何も言えないまま、俯いた。
 結局、祈里の買ったペットボトルとチョコレート菓子は、蓮と別れてからも開けられることはなかった。