3.


 二月七日になった。織古駅前のショッピングビル、その地下にあるレストラン街のとある喫茶店が、佑弥が指定した場所だった。
 チェーン店のそこはメニューも豊富で、年齢層を問わずいつも客のいるイメージがある。
 その日は日曜日だったが、時間が時間だからか、店内は比較的空いていた。
「すみません、待ってもらって」
「ううん、わたしもさっき着いたばかりだから。受験、おつかれさま」
「ありがとうございます。めちゃくちゃ難しくて、もう自信ないっす」
 祈里の向かい側の席に座った佑弥は、置かれていた水を半分ほど喉に流し込んだ。残された水が、コップの中でゆらゆらと揺れている。
「注文、どうする?」
「そうっすね……」
 数分ゆっくりと悩んで、佑弥はアメリカンコーヒーを頼むことにしたようだった。思わず既に注文済みだった、自分の手元のカフェオレを見つめる。卓上の砂糖を二杯ほど入れた、それ。この差は一体なんなのだろう。
 出会ったときは互いに中学生だったというのに、今では佑弥は大学生に、祈里は成人を迎えようとしている。時の流れというものは本当に早い。
「秀那のこと、なんですけど」
 佑弥の注文したコーヒーが届いて店員が去ってから、佑弥がそう切り出した。それに祈里は静かに目を瞬かせる。佑弥が秀那のことをそう呼ぶのは初めてのことだった。少なくとも、祈里の前では。
「すみません、メッセージで一通りは話したんすけど、やっぱり直接の方がいいかなって……」
「あれから、進展はあった?」
 祈里のその問いかけに、佑弥は沈痛な面持ちで黙って首を横に振った。そう、と祈里が俯く。
 想定はしていた。進展があったなら、佑弥はきっとそれを知らせてくれていただろう。
 秀那が失踪したあの日から、もう一週間以上が経つ。秀那の足取りも、消息も、手がかりの一つだって、未だに何も。
「あの日の晩、けっこう雪降ったじゃないすか。だから、朝にはうっすらと積もってたくらいだったのに、足跡とかもないし。指紋も、秀那のもの以外は出ないし。仮に秀那が自分の足で出ていったにしても、おかしいんです。もうお手上げだって」
 嘲るような笑いを滲ませて、佑弥はそう言った。どこか憔悴しているようにも見える。そんな佑弥に気の利いた一言も言えず、祈里は黙り込むだけだ。
「あの日、秀那、何か言ってましたか」
 やはり、祈里があの日秀那と会っていたことを佑弥は知っていたようだ。そしてやはり、秀那と最後に会っていたのは間違いなく祈里なのだ。そのことが苦しくて、祈里は思わず目を伏せる。
「……何か、っていうのは」
「なんでも良いんです。ただ、秀那が、最後に何を喋ったのか。気になって」
「……」
 祈里は俯いた。あの日、秀那と何を喋ったのか。まさに浅岸くんのことだよ、とはとても言えない。正確に言うならば、蓮からの告白を断る方法について、なのだが。
「……神隠しの話を、した」
「神隠し?」
 秀那と話した内容の、大半を覚えている自信がある。
 一言一句そのままを思い出せる自信はさすがにない。だが、秀那が消えたと聞いたその日、祈里は中途半端にページの余った昔のノートを引っ張り出してきて、覚えている全ての秀那の言葉を書き殴ったのだ。
 消えてしまった可愛い後輩。たった一行の手紙だけを遺して、どこへ行ったのかも分からない秀那。その痕跡を、少しでも覚えていたかった。
「あの日……二十九日、流星群が見えた日だったの。それで、織古に昔、星が降ってきたとき、神様も一緒に降りて来たんだって。そういう話が残ってるって、教えてくれた」
「神隠し……。大昔の誘拐事件とかって、神隠しとして処理されてたんすかね」
「今でも言われてるみたい。もちろん公式ではないけど、未解決の誘拐事件のこと、神隠しって」
「……じゃあ、秀那も」
 神隠しに遭ったんですね。そう言う佑弥が泣き出しそうに見えて、祈里は思わず目を逸らした。とても、見ていられなかった。
「秀那、あんなんじゃないすか。だから、本当に、友達とかいなくて」
 佑弥のアメリカンから、湯気が出なくなっていた。まだ口のつけられていないそれに、同情する。秀那の存在に比べたら、どう足掻いても安いし、軽い。そして、ぬるい。
「クラスでも孤立してたみたいです。だから」
 佑弥はそこで言葉を区切って、一つ深呼吸をした。
「嬉しかった、って言うと、なんか変ですけど。とにかく、ありがとうございます」
 秀那が孤立している、というのは、確か高校のときの教科担任も話していたように思う。それは、佑弥から見てもそうだったのか。
 秀那は、ずっと一人だったのだろうか。祈里には、蓮がいたけれど。秀那は、一見すると強かに見えたけれど。ずっと、寂しかったのだろうか。
 どう声をかけたものかと祈里が考え倦ねている間にも、佑弥は続ける。
「あいつ、昔から周りを頼るのが苦手なんです。一人でなんでもやろうとするし、自分が一番じゃないとすぐ拗ねる。高校で久しぶりに会ってからは、だいぶマシになってたけど」
「……ヒナちゃん、実はけっこう強情っぽいところあるよね。イメージっていうか、印象だけど」
「当たりです。脚を悪くしてからは、まあ、嫌でも周りを頼んないといけないっすからね。いいリハビリだったんじゃないですか」
「本人はたまったものじゃなかったと思うけどね」
 ふふ、と互いに笑うものの、それが空元気であると、祈里も、佑弥も気が付いていた。
 ようやく佑弥がコーヒーカップに手を伸ばした。砂糖もガムシロップも入れられない、そのまま飲み込まれるそれを眺めながら、祈里は口を開く。
「本当は、わたし、ずっと」
 あなたが、浅岸くんが、好きだった。
 そのことばを呑み込んで、その代わりに、きょとんとした顔の佑弥に向かって言った。
「ヒナちゃんが、羨ましかったんだ。わたしにないものを、たくさん持ってて」
 佑弥がコーヒーカップを持ち上げたまま首を傾げる。祈里もラテの入ったカップに手を伸ばしながら、その顔に笑みを湛えて言う。
「可愛いし、勉強もできるし。自分を持ってて、すごいなって」
「まあ、我は強いっすね」
 今日も今日とて幼馴染みに厳しい佑弥に、祈里は「そうだね」と珍しく頷いた。そしてカフェラテを一口飲み込んでから、視線を中空へと逃がした。
「わたしが、頼りないから。こんなだから、ヒナちゃんは、いなくなっちゃったのかなって」
「そんなこと」
「分かってる」
 蓮にも同じようなことを言われたばかりだったから、佑弥が言いたいことも祈里には簡単に想像できた。
「分かってる。わたしに、そんな影響力なんてない。でも」
 そこで、一度言葉を区切る。でも。こんなことを言うのは、おこがましいことなのかもしれない。そうは思いつつも、悩んだ末に、口にした。
「……引き留めてあげられなかったことが。悔しい」
 そう言った瞬間に、佑弥のカップを持っていた手と反対の手がこちらに伸びてきた。髪に触れられて、かと思えば頭を撫でられる。
 あまりに予想外のことに「え」と間抜けに口を開いていると、「あ、いや」と慌てたように佑弥が手を引っ込めた。そして、何かを言い訳するように、弁解するように、ぼそぼそと言う。
「泣きそうだなと、思って」
「……それだけ?」
 罰の悪そうな顔で、佑弥はこくりと頷いた。
 慰めてくれようとしたのだろう。別に、涙を堪えていたわけでも、泣きたくなったわけでもない。ただ勝手に何もできなかった自分に悲しくなって、我ながら頼りない先輩だったなと思って、少し目を伏せただけだ。それでも、悪い気はしなかった。
「そう。ありがとう、元気出たよ」
 ただ、可愛くないな、と思った。佑弥も佑弥で、酷い顔をしている。とても祈里のことを言えたものではない。自分だって深く傷付いているくせに、祈里の前ではそれを見せようとしない。
 可愛くない。しかし佑弥が悪いわけではないし、むしろそうされることによって、祈里に少なからず救われた部分があるのは事実だ。
 佑弥は「なら良かったです」と爽やかに笑った。そこに翳りが見られたのは、祈里だから気が付いたのかもしれないし、全く関係がないのかもしれない。
「俺の大切な人、すぐいなくなっちゃうんですよ」
 佑弥はそう言って、アメリカンの入ったカップをぼうっと見つめている。
 その言葉を聞いて祈里の頭に浮かんだのは、佑弥がテニスを始めるきっかけとなった人と、それから秀那だ。もしかすると、ほかにもいるのかもしれない。さすがにそこまで踏み込むつもりはない。
「先輩も……祈里先輩も、俺の前から、消えちゃいませんよね?」
 初めて名前を呼ばれたというのに、今の祈里はもうそのことを喜べそうになかった。
 やっぱり佑弥の方こそ泣きそうじゃないか。そう思いながら、祈里は黙って佑弥の話を聞くことしかできない。
「消えないよ。たぶん、しぶとくこれからも生き続けると思う。自分のことだから、なんとなく分かる」
 祈里がそう言うと、佑弥は「本当ですか?」と可笑しそうに笑った。「本当だよ」と祈里もつられて笑う。
 それに、もしわたしが消えそうになったら、浅岸くんが引き留めてよ。ほんの少し前までの祈里だったら、そう言えていたかもしれなかった。
 今日はもうお開きだろうな、と祈里はカフェラテを飲み干した。いつもは甘く感じられるその味が、どこか素っ気ない。
 席を立つ前に、祈里は佑弥に聞いてみたいことがあった。タイミングを見計らいながら、できるだけなんでもないことのように、言う。
「ねえ、あんまり深く考えずに気楽に答えてほしいんだけど」
 首を傾げる佑弥に、祈里はえっとね、と続ける。
「幸せって……なんだと思う?」
 どう言い回せば良いのかが分からず、結局こうして直接的な言い方になってしまう。困らせてしまいそうだ、と思ったが、佑弥はうーん、と少し考える素振りを見せて、言葉がまとまったのか、顔を上げた。
「大切な人が、ずっと変わりなく過ごせること。ですかね」
 眉を下げてそう言う佑弥に、祈里は「そっか、なるほどね」と微笑んだ。以前までの祈里と、ほとんど同じ考えだ。
 佑弥が、これ以上を失わずに済むといい。そうして佑弥自身も変わりなく、毎日を過ごしてほしい。しかしそれを支えるのは、どう足掻いても祈里ではない。
 祈里と佑弥は互いに目を合わせて頷くと立ち上がった。佑弥の頼んだコーヒーが中途半端に残されているのを見て、祈里は苦い気持ちになりながら、そのカップから目を背けた。
 会計は、佑弥が出してくれた。仮にも年上である祈里が払うと申し出はしたのだが、「俺も男だし、もうすぐバイトも始めるので」と言って聞かなかった。やはり可愛くない。
 白旦駅までの電車の中、祈里と佑弥の間に会話はなかった。だからと言って互いに本を読んだりスマートフォンを触ったりというわけでもなく、ただその空気をゆっくりと慎重に咀嚼するように、無言だった。
 駅に着いて、改札を抜ける。祈里は北口、佑弥は南口を出て帰路につく。だから、ここで解散だ。
 そのまま別れてしまうには惜しくて、祈里は随分と高くなった佑弥の顔を見上げた。佑弥も、祈里の方を見ていた。
「ねえ、最後に一つだけ、聞いてもいいかな。特に意味のない、ただの興味本位なんだけど」
「……なんですか?」
「ヒナちゃんのこと、昔は、なんて呼んでたの」
 思ってもみなかった質問だったのだろう、佑弥は薄く唇を開いて、そして祈里から目を逸らした。
 右の人差し指で頬を軽く掻く。心做しか、その頬が赤い。
 照れているのか、もにょ、と口を動かしたあと、意を決したように、しかし小さな声で「……ひいちゃん」と、確かにそう答えた。
 そんな佑弥が可愛らしくて自然と笑みが零れてしまったのは、きっと不可抗力だ。
 そうか、ヒナちゃんのことを考えているときは、そんな顔をするんだ。祈里には向けられたことのない顔。そうか。ヒナちゃんのことをそう呼んでいたのは、やっぱり浅岸くんだったのか。
 そこに恋愛感情の有無は関係ない。少なくとも、佑弥にとってのウェイトは祈里よりも秀那の方が大きいという、それだけだ。当然だ。だって、付き合いの長さから全く違うのだ。
「じゃあ、ゆうくんって呼ばれてた?」
「……そうです。単純ですよね」
「そうだね。素直で、可愛い呼び名」
 ふふ、と祈里が笑って、それに佑弥も緩く笑った。ほんの数秒の間。そして祈里が片手を上げた。
「じゃあね」
 そう言って手を振る祈里に、「はい、また。気を付けてください」と佑弥が笑った。
 祈里も、佑弥も、駅を出るまで振り返ることはなかった。