学校の裏手に、小高い丘のような小さな山がある。
その山の頂上には同じく小さな神社があるのだが、そこへたどり着くまでには軽く煩悩二人分以上の階段を上らなければならない。
生半可な気持ちでは行こうと思えないその立地だが、しかしその神社は不思議とすっきりとした空気で満ちており、夏は涼しく冬は暖かく、境内の植物たちは四季折々で美しい顔を見せ、またそこから一望できる街の風景は清々しい。
その神社の存在を知っているのは地元住民や白旦高校の関係者くらいのものだが、いざ足を踏み入れると少し長居をしてしまいたくなるような、そんなちょっとした穴場のようなものになっている。残念ながら、観光スポットと呼べるほどの面白みはない。
それから、境内の奥、本殿の裏にある祠の周囲には誰が植えたのか、数十本もの桔梗が生えていて、それが咲き誇る秋の日はまた独特の雰囲気がある──とはいえ、祈里はそれを見たことがなく、あくまで又聞きなのだが。
弁解ではないが、神社に行ったことはある。曲がりなりにも地元住民であるため、その神社の名前くらいは知っているし、散歩のついでに階段の下まで歩きに出た回数だって数えきれない。
だが、あの数の階段だ。特に信心深いわけでもなく、地元住民であるために行こうと思いさえすればいつでも行ける環境にある祈里が、なんでもない日にあの階段を上ってまで神社に行こうとは、思えないのであった。しかし。今回だけは、特別だった。
「……いや、帰りたい」
「卒業して以来だけど、相変わらず上る気失せるなーこれ」
「もっと拝みやすい場所に作れよ、集まる信仰も集まらないでしょ」
「お口が悪いぞー」
ついつい本音を零す祈里に蓮が笑う。ふんと鼻を鳴らす祈里を後目に、蓮が数段の階段を先に上って振り返った。
「ほら、早く行こうぜ」
後期も終わり、春が来るまですっかり手持ち無沙汰になってしまった祈里の元に、秀那からメッセージが届いたのが一昨日のことである。曰く、『白旦神社の奥の、祠周辺の写真を撮ってきてもらえませんか』と。
可愛い後輩からの頼みであると、二つ返事で祈里はそれを了承した。もちろんそれ自体に後悔はない。しかし、やはり目の前のこの階段を上らなければならないとなると気も滅入るものだ。
「しかし、なんでまた撮影を祈里に任せるんだ? ここの学生なら学校帰りにでも自分で行けば良いだろ。あー、受験生とかか?」
「うん。それもあるし、あの子は、ほら……歩けないから」
「あ、あー……。鷲宮秀那か……」
鷲宮秀那。白旦高校に通っていて、かつ彼女と代の被った生徒なら大多数がその名前を、もしくは顔を知っているだろう。それくらいに彼女は目立つ存在だった。
それが彼女の才色兼備なところからだけでなく、車椅子生活を送っているからなのは言うまでもない。分かってはいる、当たり前のことなのだろうがやはり悔しい。本人はきっと、気にしませんよと笑うのだろうが。
「そうだよな。祈里に後輩って言ったら、あの子くらいか」
「ねえ、一言余計なんだけど」
一段二段と階段を上りながらそんな会話を交わす。冬だからまだ良いが、夏になると虫や汗が酷そうだ。
それにしても、本殿ではなく祠の写真を、とは。この時期に祠に行ったところで桔梗はもう咲いていないと思うのだが、彼女は祈里に依頼をしてまで何を見たいのだろうか。
「待って、休憩……」
「いや体力なさすぎねえ? まあいいけど」
手すりに体重を預けながら、祈里は切れる息を整える。それを蓮が呆れたように見ていた。これでまだ半分にも到達していないのだから先が思いやられる。
祈里は元々運動が得意な方ではない。それにしたってまさか自分にここまで体力がなかったとは、とショックを受けざるを得なかった。もう少し筋トレ等を普段からやってみるべきかもしれない──どうせ三日坊主になるだろうけれど。
それにしてもまさか本当に着いてくるとはな、とちらりと祈里は数段上にいる蓮の横顔を見た。
祈里が蓮をこの神社に誘ったのは昨日のことだ。どうしても一人でこの階段を上るのは心細くて、だからと言って頼れる友人もいなくて、結局蓮に声をかけることになってしまった。
突然のことで内容も内容だから駄目元だったのだが、意外にもすんなりとオッケーが返ってきて驚いたものだ。帰りには自販機で何か奢ってやろうかと、祈里はぼんやり考える。
──本当は、佑弥を誘おうかとも思ったのだ。秀那も、それを想定してこの話を持ちかけたのではないかと。
佑弥なら、学校帰りにそのままこの場所へ寄ることができる。勉強の息抜きにもなるかもしれない。それに、秀那の頼みとあれば祈里も佑弥を誘いやすいのではないかと。そうポジティブに考えてもみたのだが、やはり恥ずかしい、申し訳ない、との気持ちが勝ってこのような結果になってしまった。
これでは蓮にも失礼だなとは思うが、口にしなければ、相手にこのことが伝わらなければ問題ないだろう。そんな気持ちを空気ごと呑み込みながら、祈里は次の段へと足をかけた。お、とそれに気づいた蓮が笑う。
「塩谷は割と慣れてるの、ここ」
「ん? いや、そうでもねえかな。二桁はない」
「いや多くない……?」
つまりは九回以下ということだ。三年間でそれだけの数なのだから、決して少なくはないと思うのだが。
蓮が神社やそれらのことに興味を示しているようには見えないし、おそらくは筋トレ感覚の、友人同士でのノリによるものだろう。
男子高校生は無駄に元気だから、と祈里は遠い目をした。少なくとも祈里は二十年近くここで暮らしてきて、二、三回しかここの神社に行ったことがない。
「そういや、クラスの誰かがここはやべーみたいなこと言ってたな。誰だっけ、あの自称霊感少女」
「え、そんな子いたっけ?」
祈里と蓮は三年間同じクラスだったため、蓮のクラスメイトはつまり祈里のクラスメイトということになる。だが、いまいち思い出せない。
あまり他人に興味がないからだろうか。それにしたって、同性ならまだ覚えていてもいいはずなのだが。祈里は記憶を辿りながら、しかし何も思い出せないままに思考をやめた。とにかく今は疲れている。
「いたって。いや、まあそれは良いんだけどさ……なんだっけな、この神社はマジで出るみたいな」
「幽霊が? 神様が?」
「あ、どっちだっけ? でもすっげえイケメンだったって言ってたから、神様じゃねえか?」
「幽霊がイケメンじゃないって決め付けるのやめてあげなよ」
「イケメンだぜ? 神様だろ、多分。で、そいつが見てることに気付いたイケメンがぱっとその場から姿を消したらしい」
この神社がいつからあるのかまでは祈里の知るところではない。だが、昔と今とで美醜の基準はかなり違っているのではなかっただろうか。そうでなくても非現実的で信じ難い。
祈里はその話を胡散臭く思いつつ、「へー」と薄っぺらい返事をした。「うわ、興味なさそうな相槌打つなよ」と言う蓮に否定はできそうになかった。
そんな他愛もない会話をしながら足を無心でひたすら動かしていれば、やっと階段の終わりが見えてきた。
先に段を上りきった蓮が「がんばれー」と手を振って祈里を見下ろしている。祈里はそれに「くそ……」と悪態を吐いた。
息を切らし、手すりに掴まりながらもなんとか階段を上りきり、その場に倒れ込むように手をつく。ぱちぱちと、祈里の頭上で蓮が気の抜けた拍手をする音が聞こえた。
「よく頑張りましたー」
「馬鹿にしやがって……」
秀那や佑弥の前では一生口にしないであろう言葉を祈里が吐く。
蓮はそれに気にした様子を見せず、むしろ笑って祈里を向かって手を差し出してみせた。しかし祈里はそれを無視して立ち上がる。
一歩先に鳥居へと向かう祈里を見て、やはり蓮は笑ってそれを追いかけた。
祈里が鳥居をくぐると、どこか身体が軽くなったような感覚がした。心做しか、息がしやすい。そういえば、あれだけの距離の階段を上ってきたからだろうか、寒さも感じない。
しかし勘違いの可能性もあるし、わざわざ口に出すようなことでもないと、黙って手水舎へ向かう。
冷たかったら嫌だなと覚悟を決めて水に触れたが、やはりこの季節相応の冷たさは感じなかった。ヒーターでも仕込まれているのだろうか、そんなまさか。
不思議と嫌な感じはしないんだよなと、祈里は内心で首を傾げながらも無言でカバンから財布を取り出した。
「お、賽銭投げんの?」
「まあ、一応。塩谷もやるでしょ?」
「えー、やっぱやった方がいいか……」
祈里と蓮はそれぞれ五円玉を握りしめ、賽銭箱へとそれを投げ入れた。
二礼、二拍手、ヒナちゃんと浅岸くんが第一志望に合格しますように、一礼。
祈里はそう願って、そして拝殿から離れた。その間も塩谷は何やら真剣に願いごとをしているようで、それを祈里は少し意外だと思いながら見つめていた。
しばらくして、祈里の元へ戻ってきた蓮に尋ねる。
「何お願いしたの?」
「え? あー、単位ありますようにって。祈里は?」
「こういうのは他人に言ったら叶わないって言うじゃん。教えないよ」
「は? いや待て裏切ったな!?」
必死の形相でそう言う蓮に、してやったり、と祈里はけらけらと笑う。蓮から目を逸らすように、辺りを見回した。境内には祈里たちのほかに人の姿は見当たらない。
「どうせ浅岸だろ?」
溜息混じりに、どこか投げやりになったように言う蓮に、祈里は薄い笑みを湛えてみせた。「さあ、どうかな」そう呟くように言った祈里に、ずるいな、と蓮はぼやいた。
それから、祈里と蓮はその場のノリというやつでおみくじを引いた。
祈里としては初詣のときに引いたばかりだったため、特におみくじを引きたいとは思わなかったのだが、蓮の押しに負けた。どうやら蓮はこの正月に初詣には出向かなかったらしい。
「男の人って、おみくじとかあんまり興味ないと思ってた」
「まあ……女子に比べたら、そうかもな」
蓮は曖昧に返事をしながら、その手先を紙切れを解くために忙しなく動かしている。そんなに叶えたい願いがあるのかと、祈里はそれを意外に思った。普段は何も考えていなさそうなのに、とは口にはしない。
そんな蓮を横目に、祈里も自身のおみくじを開こうと試みた。二百円と引き換えに引いたそれに、半ば胡乱げな目を向ける。
おみくじはただの娯楽で、神社への体の良い賽銭で、この中身が自分にとって利益になることはない。不利益を被ることもない。その場の雰囲気と併せて楽しむもの、つまり一種のエンターテインメントだ。
そんな捻くれた考えを持つ自分にこっそり嘲笑しながら、その際立って大きく太い一文字を心の中で読み上げた。──凶。
この紙屑、燃やしてやろうか。
ひくりと顔を引き攣らせながらそう思っていると、「おっ」と隣の蓮が明るい声をあげた。聞かずともその結果が分かって、どうにも面白くない気分になる。こんなに極端なことがあるのだろうか。それとも何か罰が当たったのか。
「大吉? おめでとう」
「さんきゅ。祈里は?」
にこにこと、普段なら毒気を抜かれるような人好きのする笑みをこちらに向けて蓮が言う。ただし、今の祈里にとってはただただ憎たらしい。
どう答えるべきか悩んで、そして事実だけを伝えようとその口を開いた。思いの外低い声が出た。
「……凶」
「……この先下がることはないだろ、安心しろよ」
「大吉に言われると説得力があるね」
凶と書かれるだけあって、その各運勢とやらは散々も散々な言われようだった。数週間前に引いたときは小吉という面白みも何もない結果だった気がするのだが、あのときよりも運勢が下向きになっているということなのだろうか。まあ信じはしないが。
これはあくまで遊びだ、と祈里は再度自分に言い聞かせる。その中で、待ち人と恋愛の欄が嫌に目についた。潜在的な意識のせいだろうか。
──待ち人、失せむ。恋愛、成り難し。
くしゃ、と小さな音を立てて僅かにおみくじの紙に皺がついた。
蓮は気を遣ったような笑みを浮かべながら、「それ、結んでこいよ」と近くにある木を指さす。確かに、いくつかおみくじらしき紙が枝に結びつけられていた。
祈里はそれに大人しく頷いて、背の低い枝にそれをくくりつける。脳の裏にこびりつく凶の文字を忘れたい一心で、祈里は無理やり口角を上げた。
「早く目的済ませちゃおう。長居して体冷やすのも嫌だし」
相変わらず境内では寒さは感じなかったが、祈里は気持ちを切り替えるためにもそう口にした。確か拝殿の奥、決して大きいとは言えない本殿の向こうに、さらに小さい祠があるはずだった。
「あー、なんだっけ? あそこにも神様いるんだっけか?」
「いや、それはわたしも知らないけど……今度ヒナちゃんに聞いてみようかな」
本当に、神社そのものでもなく、その本殿でもなく、裏の祠に用事があるとはどういうことなのか。それともそれはただの建前で、本音としては秀那が何か分かりやすい目的を付与しようと気を利かせた結果なのか。今の時点では、分かりそうにない。
その祠は特に奥まった場所にあるわけでも、物陰にあるわけでもなく、すぐそこにあった。
「あ、あれか」
「うわ……ボッロ……」
蓮はあまりに正直すぎたが、確かにその祠の見た目は綺麗なものではなかった。手入れをあまり頻繁にされていないのか、古さやそれに由来する汚さが目立つ。大雪にでも降られたら、その風や重みで崩れてしまいそうだと思うほどに、頼りない。
「一応手合わせてくる。塩谷は待っててくれていいよ」
「……おー」
蓮は祠にあまり興味がないのか、そう気の抜けた返事をした。祈里は祠の前に立つと、軽く一礼をしてから手を合わせた。念には念をというやつだ。
ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンを取り出しながら蓮の元に引き返す。ふと蓮の視線が祈里の背後、その地面に向いていることに気が付いて、祈里は振り向いた。
「……えっ」
桔梗の花が、咲いている。
祈里も詳しくは知らないが、桔梗の開花時期というのは秋頃だったはずだ。確か、九月頃。間違っても冬ではない。目の前の状況を例えるならば、夏に桜が咲いているようなものだ。有り得ないわけではないのだろうが、珍しいことには変わりない。
祠のすぐ脇、一輪だけ、しかし凛と咲く桔梗に目を奪われていると、隣に蓮が立つのを気配で感じた。
「神社だから、こんな不思議なこともあるのかもな」
「……確かに?」
狂い咲きというのも例のない話ではないだろう。偶然が重なればこんなこともあるのかもしれない。
本当に、不思議なこともあるものだ。そう思いながら、祈里は無意識に桔梗の花の近くに屈むとスマートフォンのカメラを起動させ、カシャリとシャッター音を鳴らしていた。その音で、あっと本来の目的を思い出す。
自身の行動に首を傾げながら、祈里は気を取り直してその祠の姿をカメラに収めた。中心に古びた祠、その脇にぽつんと咲く花、それらを取り囲む、時期の終わった桔梗らしき草。
特に上手いわけでもない、ごく普通のありふれた写真を数枚撮って、これで良いかと祈里はスマートフォンを再びポケットにしまった。
家に帰ったら、秀那に写真を送ろう。それから、少し話を聞いてみよう。そう思った。