関祈里は、鷲宮秀那のことを彼女が入学してきた当初から知っていた。
その理由はもはや説明するまでもないだろう。ただでさえ整っている容姿に、車椅子。ビジュアルがとにかく目立つのだ。しかも在籍しているのが進学クラスときたら、噂にならない方がおかしい。
そして、そんなW目立つ新入生Wの情報を最初に祈里にもたらしたのは、やはり塩谷蓮だった。
「なあ関、聞いたか? なんか今年の新入生に、車椅子のやつがいるらしいぜ」
二年の初め頃、蓮の祈里に対する呼称はまだ名字のままだったと祈里は記憶している。そしてこれは、四月のなんでもない日の昼休みのことだったはずだ。
祈里はそれを聞いて、「車椅子?」と首を傾げた。そして納得した。確かにこの高校の校舎は、私立だということもあってかバリアフリー設備が充実していた。
五階建ての新校舎にはエレベーターが設置されているし――ただし、生徒は特別な事情がない限り原則使用禁止だ――、校内のちょっとした段差の隣にはスロープがあるし、教室の出入口も、祈里の気のせいでなければ小中学校のものと比べるとゆとりがあるように感じる。
そんなこともあるのだな、と納得したところで、「で?」と祈里は尋ねた。一体それがなんだというのだ。
ともすれば冷淡にも思える祈里の態度に気にした様子を見せず、蓮は言った。
「いやさ、ただでさえ目立つじゃん、車椅子って。なのにさらに美少女、しかも一組ときた」
一学年につき八クラスある祈里たちの学校で、一組と二組は進学クラスと呼ばれている。三組以下の普通クラスとは、カリキュラムも多少変わってくるのだ。
「へえ……それは、大変だろうね」
障害とか、やっかみとか、それらをひっくるめた周りの好奇心による視線とか。そんなことを思って、まだ名前も顔も知らない新入生に同情する。
とはいえ他人事だ。さして興味はないなと、祈里は読んでいた文庫本に視線を戻した。祈里にとっては進学クラスの車椅子美少女よりも、ここ数年思いを寄せている後輩が同じ学校に入学してきたことの方が問題だった。
祈里の考えていることが透けていたのか、どこかにやにやとした蓮がめげずに祈里に話しかけ続ける。
「いま浅岸とやらのこと考えてるんだろ? そいつ何組なんだ?」
「四組だって」
「ふーん。俺らと一緒か」
「そうだね」
祈里と蓮が一年のときも、クラスは四組だった。佑弥と同じ数字だ。ちなみに二年になった今は文理選択もあって六組に在籍している。
この学校のシステムから考えてクラスの大きな変動は起こらないため──白旦高校では基本的に学力順に上からクラスを割り振られる──おそらく来年も同じだろう。とはいえ油断したら落とされる。運が良ければ上のクラスに上がれるやもしれない。
「また覗きに行こうぜ、一年四組。浅岸くんとやら、紹介してくれよ」
「嫌だよ。浅岸くんにも迷惑じゃん」
「そいつの顔を知ってたら、なんか協力できるかもしんねーだろ?」
「いやそういうの大丈夫なんで……」
祈里は別に、佑弥と付き合いたいとか、どうこうしたいとか、そういった願望を持っているわけではない。だから祈里に言わせてみれば、蓮のそれは完全にお節介で、余計なお世話に過ぎなかった。
迷惑です、と表情で主張しながら、祈里はひたすら文庫本に目をやっていた。そこまでするなら返事もせず、完全に無視を決め込んでしまえばいいものを、そうはできないのが祈里の性格であった。
そもそも年頃の男女を詰め合わせた学校というこの環境で、こうして男女が仲良く――本人たち、特に祈里の心情は置いておいて――休み時間に話をしているというのは、周りから見るとそれこそ祈里たちをカップルであると認識してしまうものではないのか。
祈里としてはそれは本意ではない。当たり前だ、祈里にはきちんと想い人がいるのだから。
蓮は友人も多いはずなのに、どうしてこう一日一回は律儀に話しかけてくるのか。文庫本の小さな文字に目を滑らせながら、祈里は内心で頭を抱えていた。
移動教室のとき、特に行動を共にする友人のいない祈里は一人で移動をする──つもりではいるのだが、それは最初の十数秒だけで、そうは蓮がさせない。祈里の隣に走って寄ってきて、そして堂々と歩いてみせる。
ここまでしてクラスメイトたちに『関祈里と塩谷蓮が付き合っている』と噂されないのは、裏で蓮がしっかりと根回しをしているから、らしい。繰り返すが、祈里には友人らしい友人がいないのでそれらの情報を確かめる術がない。
ともかく、この日も祈里と蓮は並んで次の授業のために教材を抱えて教室を移動していた。
次の時間、別棟にある目的の教室へ行くためには一年生たちの使うフロアを通る必要があった。それもピンポイントで、四組の前を。
蓮はそれに期待をしているようで、その教室の近くを通る前から「なあ浅岸どれ? どこだよ? なあ浅岸は?」とガムテープのようにねちねちとしつこく祈里の耳元で言い続けている。それに祈里は辟易として、頑として無視を決め込んでいた。
ついにその教室が目の前に来てしまったというところで、「あ、車椅子美少女」と蓮がぽつりと呟いた。思わず祈里はその視線の先を追う。そして蓮と同じように呟いた。
「……え、浅岸くん?」
祈里と蓮の視線の先、一年四組の教室の前で、車椅子の女子生徒と、それからその目の前に浅岸佑弥がいた。
「は? 付き合ってんのかよ、あの二人」
「いや、え? あ、そういう……?」
祈里も蓮もすっかり足を止め、戸惑いながら不躾に二人の下級生を見やる。その視線に気付いたのか、女子生徒の方がこちらを向いた。さらりと髪が揺れて、その顔がはっきりと見える。なるほどあれは美少女だ、と祈里は思った。
次いで佑弥もそれにつられてかこちらを見る。祈里に気が付いて、にこっと人好きのする笑みを浮かべるとぺこりと祈里に向かって会釈をした。そしてまた女子生徒と何か言葉を交わす。
もう一度、今度は女子生徒も一緒に佑弥は祈里たちに向かって頭を下げて、それから一組の教室のある方へ連れ立って移動していった。
思っていたよりも、胸は痛まなかった。嫉妬とか、そんな感情は欠片も湧いてこない。
ただ、彼が誰かのものになってしまう可能性を改めて突きつけられたことに、背中がすっと寒くなったように感じただけだった。この感情はなんだろう。強いて言うなら寂しさ、だろうか。それとも。
祈里と蓮の間に沈黙が下りて、それは一足先に我に返った蓮が「おい、急ごうぜ」と祈里の腕を引くまで続いた。
その日の放課後に、珍しく佑弥から連絡が来た。
内容を要約すると、今日会ったときに一緒にいたのはただの幼馴染みで、恋人ではありません、というものだった。
その通知を確認してそれに安心してしまったのは、仕方のないことだろう。しかし何故それをわざわざそちらから伝えようと思ったのか。そう尋ねる前に、やはり向こうから教えてくれた。
『あいつが、俺たちがカップルだって誤解されてると嫌だから連絡しとけってうるさくて。自意識過剰だし興味ないですよね! すみません』
──やるじゃん、車椅子美少女。
次の日にこのことを蓮に報告すると、「ふーん……」と興味なさげに返事をされたあと、「良かったじゃん」と親指を立てられた。ついでに下手くそなウインクを寄越してくる。妙に腹が立ったが、祈里はそれを口にすることはせず、ただ黙って頷いてみせた。
さて、あの時感じた感情は、なんという名前だったのだろう。