3.


 それから、いつの間にか蓮からの呼称が“祈里”に変わって一年以上が経った頃。祈里は職員室前で車椅子美少女と出くわした。
 それはある日の放課後のことで、その場にいるのは先客であった車椅子美少女と、それから祈里だけだった。
 彼女は職員室の前の空間にあるテーブルで、何やらプリントをまとめているようだった。枚数の多いそれを、とんとん、とならしている。しかしその量のせいだろう、あまり上手くはいっていないようだ。
 祈里が職員室のドアをノックしようと、腕を上げたときだった。
 バサ、という質量を伴った音と同時に、「あっ」という声がその場に響いた。野次馬精神から、祈里は思わず振り返る。数枚のプリントが床の上で踊っていて、そして車椅子の彼女が片手で顔を覆っていた。
 その状況を見て何が起こったのかを察した祈里は、黙って散らばったプリントを回収するためにそちらに足を向けた。とてもではないが、彼女のあの脚ではプリントを回収するのは容易なことではないだろうと思ったからだ。
 果たして女子生徒は、自身が落としたプリントを回収する上級生という図を、「あっ、あ……すみません……」とか細い声を出しながら見ているだけだった。
 祈里が「はい、どうぞ」と嫌味のない顔で拾ったプリントを差し出せば、女子生徒は「すみません、すみません」と繰り返しながら何度も頭を下げた。そこまでされると祈里も微妙に居心地が悪い。
「いいよ、気にしないで」
「でも、お忙しいでしょうに。本当に助かりました、ありがとうございました」
 女子生徒は祈里の胸元の、最高学年の代、三年生であることを示すイエローのリボンタイを見ながら言った。
 祈里の一つ下の代、二年生である佑弥はブルーのネクタイをしていて、目の前の車椅子美少女も同じくブルーのリボンタイをしている。
 分かりやすいシステムだと思う。しかし、この色のせいで余計に彼女を萎縮させてしまっているのだと思うと、今は少しやりきれない。
「浅岸くんの、幼馴染みなんだよね?」
 何故そこで彼女に話しかけたのかは、いまいち覚えていない。彼女の緊張を解してあげようとしたのか。もしくは、佑弥と幼馴染みでもある美少女とお近付きになりたいと思ったのか。
 祈里のその問いに、女子生徒は一瞬動きを止めたあと、「……ああ」と何に納得したのかそう呟いてから、頷いた。
「そうです。鷲宮……秀那です」
 そう言った女子生徒の言葉を、祈里は脳内で反芻した。ワシミヤヒイナ。
 ワシミヤはまだ分かる。しかし、問題は下の名前、ヒイナの方だった。どんな字を書くのかさっぱり想像がつかない。あるいは単にひらがなだろうか。
 そんな祈里の考えを読んだのか、もしくはこの状況に慣れているのか。女子生徒は苦笑しながら、「こう書きます」とペンポーチからシャープペンシルを取り出した。
 プリントの隅に、秀那、とその二文字が書き込まれる。女子らしい丸さもありながら、整った字だった。そして、「できれば、あまり名前では呼ばれたくないです」と付け足した。
「それは……どうしてか、聞いても?」
 迷いながらも祈里がそう尋ねると、やはり訊かれ慣れているのか、女子生徒──秀那は即答する。
「好きじゃないんです。なんか、……主張が激しいというか……色々と」
 なるほど、と内心で祈里は頷いた。彼女の言いたいことはなんとなく分かる。確かに聞き慣れない響きの名前だ。実際、先ほどもそれを意図せず証明する形になってしまった。
 しかしその名の通り、彼女は進学クラスに在籍しているのだから、親の願いは叶ったということなのではないか。
 それに、祈里の記憶が正しければ、那という文字には美しい、といった意味もあるはずだった。名は体をあらわす、とはよく言ったものだ。
「うーん……気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
 慎重に言葉を選びながら、祈里は口を開く。
「わたしは、そういう名前、憧れるな。個性があって羨ましい。響きも綺麗だし、親御さんの気持ちがよく伝わってくる、いい名前だと思うよ。ほら、わたしは……普通だから」
 それに、とっても似合ってると思うけど、その名前。祈里は本心からそう付け足して言った。秀那の柔らかな目元、通った鼻筋。その名前の響きも、字も、やはりよく似合っている。
 しかし口にしてからはっとした様子で、「ごめんね、わたしに言われるまでもないよね。ごめん、嫌味とか、そんなつもりじゃないの」と付け足した。そのどこか慌てた様子に、秀那が眉を下げて微笑む。
「ありがとうございます、でいいんですかね」
 秀那はそう静かに言って、それからどこか遠くを見ながら、続けた。
「ないものねだりですね。お互いに」
 それには何も返せずに、祈里は黙り込んだ。ここでその場を離れて──と言っても本来の目的通り、職員室にいるであろう教員に声をかけるだけなのだが──も良かったのだが、祈里はそうはしなかった。
 小さく息を吸い込んで、つっかえそうになる声をなんとか押し出して言う。
「じゃあ、ヒナちゃんって呼ぶね」
 突然のその言葉に、秀那は面食らったようだった。ぱちぱち、と瞬きを繰り返して、そしてこてんと首を傾げる。なんですか、急に。その瞳が雄弁に語っている。
 それでも何か口にしなければと思ったのか、「えっと……」と秀那は視線を彷徨わせた。
「その呼ばれ方は、初めてです。ひいちゃんとかは、今までにもいたんですけど」
「……この呼び方は、嫌?」
 恐る恐るそう尋ねた祈里に、いいえ、と秀那は首を横に振った。そして笑う。
「嬉しいです。新しいですね。とても新鮮で」
 どうやら嫌がっているわけではないようだ、と祈里はほっと息を吐いた。それから、「あっ」と秀那が顔を上げた。上目遣いに、祈里を見つめる。
「先輩の、名前を聞いていませんでした」
 そういえばそうだった。どこか気恥ずかしく思いながら、祈里は無意識に秀那から視線を外す。
「関祈里。普通でしょ」
 そう言ってから、しまった、と思った。言い方といい、声音といい、きっと返し方で秀那を困らせてしまう。しかし一度言った言葉は戻せない。
 いよいよ視線を戻せずにいると、「うーん」と秀那が言ったのが聞こえた。おずおずとその顔を窺う。形の良い唇に、細い指が添えられていた。
「そうですかね? かわいいじゃないですか。上手く言えないんですけど……とても、らしいな、と思いました。ええ、これ以上なく、先輩にお似合いの良い名前だと思います。ちなみに字はどう書くんですか?」
「祈る、里」
「シンプルですね。飾らない感じで、意味も分かりやすくて……良いと思います、本当に。祈里先輩、ですね」 
 何故だか誰もやって来ないフロアで祈里と秀那は二人きり、言葉を交わす。秀那は先ほどぶちまけていたプリントを今度こそまとめ終えると、「先輩、もしよかったら座ったらどうですか?」とテーブル備え付けの椅子を指さした。
 断る理由もなかったので、祈里はそれに従う。秀那が満足そうに笑った。
「ところで、祈里先輩。もしかして……浅岸のこと、好きなんですか?」
 それはどこか意地悪にも見える笑みだった。心臓が早鐘を打つようで、何故それを、と祈里は反射的に右足を半歩引く。
 スリッパと床の擦れる音と感触がした。有り得ないというのに、どこか床の無機質な冷たい温度を感じるようだった。
 しかしよく思い返してみると、佑弥に例のメッセージを入れさせたのはこの秀那だ。あのたった一瞬で、祈里の気持ちに勘づいていたのかもしれない。むしろ、だからこそだろう。
「……まあ、一応」
 どこか煮えきらないような言葉を祈里は返して、所在なさげに目を泳がせた。視界の端で、不可解そうに秀那が眉を寄せる。
「一応、ですか?」
「……好きは、好きだけど。恋愛的な意味だけど。わたしのことを、好きになってほしいとかは、思わない」
 やはり突っ込まれるだろうか、と思いながら、秀那の顔色を窺う。しかし祈里の予想に反して、秀那は「へえ」とむしろどこか納得したような様子で頷いた。
「色んな形の恋愛があるんですね。勉強になります」
「……ええっと」
「すみません。私、恋って感情がよく分からなくて。不快にさせたなら、申し訳ないです」
 それは、初恋がまだとか、そういう意味合いだろうか。
 素直にそう尋ねてみても良かったが、なんだか野暮な気がして憚られた。せめてもう少し仲良くなってから踏み込むべきだろう。間違っても二度目ましてのこの日に質問することではない。
 まあ、わたしだってこれが初恋だし。というか、彼女なら告白くらい何度もされているだろうに。心の中でだけでそう呟いていると、背後でドアの開けられる音がした。反射的に振り返ると、そこには祈里が本来訪ねる予定だった教科担任がいた。そして用事を思い出す。
「なんだ、関、来てたのか」
「あ、すみません先生」
 慌てて祈里が立ち上がって、教科担任と向き合う。それから思い出したように秀那の方を振り返ると、秀那はプリントを手に、その場を去ろうとしているところだった。
 祈里の視線に気が付いて、秀那が顔を上げる。そして人懐っこい笑みを浮かべた。
「また私ともお話ししてくださいね」
 そう言うと、今度こそ背を向けて廊下の向こうへ消えていく。あの車椅子でよく器用に回転できるなと、場違いなことを考えた。
「なんだ関、鷲宮と仲良いのか?」
「……まあ、はい」
「ほお。面倒見てやってくれよ、先輩。あいつ、あんなんで、あんまりクラスに馴染めてないらしいからな……」
 適当に返事をすれば、教科担任はぽろりとそう漏らした。それはわたしなんかに話してもいいものなのか、と祈里は内心でぎょっとする。
 それはそれとして、やはり職員室でも彼女のことは話題になっているのだろうな、と祈里は感じた。教科担任の言葉に曖昧な返事をしながら、祈里は唇を固く引き結ぶ。
 ところで、祈里の恋心が秀那に知れてしまったわけだが、きっと彼女は佑弥に口外することはしないだろうなと、たった十数分話しただけの相手に祈里はそう思っていた。
 そんなことがあった後のある日の移動教室の際に、秀那とすれ違ったことがあった。
 目が合って、少し悩んだものの、軽く手を振っておいた。祈里の隣には当然のように蓮がいて、秀那はそれを一瞥すると祈里に向かって微笑む。どうやら秀那はエレベーターのある方へと向かっているようだった。
「あの子と仲良いのか? 珍しいな。祈里のくせに、いつの間に」
「……まあ、うん」
 友達が少ない、と言外に言われているのは明白だった。それが癪で、しかし全くの事実なので何も言い返せない。蓮はなおも興味津々といった様子で探りを入れてくる。
「浅岸はまあ例外として、鷲宮か。どんなやつなんだ?」
「……いい子だったよ。普通に」
 普通に、と言いながら、普通ってなんだと自分で突っ込みを入れたくなった。しかし蓮はその言葉に特に引っかかりを見せた様子はなく、「ふーん?」と変わらず興味ありげだ。
 人付き合いが、昔から苦手だった。相手のためにご機嫌を取ったり、取られたりというのがどうにも苦手で、性に合わない。だから祈里の世界には、家族の他には、蓮と佑弥と秀那、これで完結だった。
 蓮と佑弥と秀那。この三人の共通点はなんだろう。そう考えて、結論は案外すぐに出た。憧れ、だ。
 社交性のある蓮、スポーツに打ち込んで結果まで残している佑弥、勉強もできて、容姿端麗な秀那。みんな、祈里にないものを持っている。到底持ち得ないものを、持っている。
 この話を他人に話したことはない。別に解決策が欲しいわけでも、共感が欲しいわけでもなかったからだ。
 ただこの祈里の世界を形成する人たちが、変わらず幸せにそこに在ってくれれば、それだけで。
 そこに因果はない。陳腐な言い方をするのであれば、あるのはきっと、運命だった。
 今までもこの先も、全ては運命で、言うならばきっと神様の手のひらの上だった。