さよなら、シンデレラ


その日も私は仕事を終えて部屋へと帰宅した。鍵をガチャりと回すと中は真っ暗で帝統がどこかへ出かけていることが分かった。
電気をつけてお風呂を沸かし、夕飯の支度を始める。帝統がどこに行ったかは分からなかったが、大方金を取り戻しにギャンブルでもしているのだろう。
フライパンを火にかけて、菜箸でバターを遊ばせる。どうせ帝統は帰ってこないだろうし簡単な物で腹を満たそうと、冷蔵庫から卵を取り出す。牛乳と塩コショウを加えて液状になるまでとく。オムレツなんて久々だな、と思いながら熱したフライパンに卵液を流し込むとそのタイミングでバッグの中から着信音が聞こえた。
仕事先か帝統だろうか、何かあったに違いないと慌ててバッグからスマホを取り出し、応答のボタンに指をかざす。画面にでた人の名前は、職場でもなく、帝統でも無かった。時すでに遅し、かざした指に反応した電話は繋がってしまった。

『もしもし、名前…!今どこにいるんだ…!』

久しぶりの彼の声が耳に染み渡る。聞きたかった声。そして聞きたくなかった声。どこか必死なその声に目と鼻の奥がきゅぅと痛くなる。
なんて返答すればいいかも分からない。今の私には返す言葉なんてない。

「独歩……」

危険な場所にはいないんだな?と危機迫った声で彼は言う。どうして今更電話など掛けてきたのだろう。なんで。

「もう私の事なんてどうでもいいんでしょ?」

私のその言葉に電話越しに彼は必死に私に語りかける。聞こえても頭に入ってこない。思考停止とでも言えばいいか。

『なぁ名前、1度しっかり話そう、あんな終わり方したくなかっただろ、俺は…』

終わり方とはなんだろうか。別に違うやり口でも、終わることに変わりはなかったとでも言いたいのだろうか。もうそれ以上は聞きたくなかった。何を言われるのかは見当がつく。きっと私への鬱憤や別れ話を切り出されるのだ。私にとってそれはとてつもなく怖くてストレスだ。すぐにでも彼の声をシャットアウトしたくて、でもいきなり通話を切ることは出来ずに、

「また今度。悪いけど疲れてるから。それじゃあ」

それだけ言って電話を切ってしまった。
直前聞こえた切羽詰まった彼の声は都合よく聞こえなかったことにした。

自分から切った筈なのに妙にしんみりしてしまって、画面に表示される通話履歴を眺める。もう二度とかかってくる事は無いのではないか、直感でそう思った。これでいいのだ。何かを言われ傷つくよりずっといい。でも、どこか寂しくて画面からは目を離せない。ただ呆然と通話履歴の名前を見つめていると、ガチャりと部屋のドアが開いた。

「ただいまー…っ名前、火!」

現れた帝統は玄関で立ち止まり、フライパンを指さし焦ったように言う。

「煙やべぇぞ!」
「あっ…」

慌てて火を消すとフライパンから出る煙は徐々に少なくなっていった。
ふぅと息をつくと靴を脱いだ帝統が横に来てフライパンの惨状を見ながら口を開く。

「一体どうしたんだ?名前、いつもは料理うまいじゃねえか、黒焦げだぜ?」
「はは…なんでだろうね…」
「おま、泣くほどのことかよ!大丈夫だから泣くなって!名前はリビングでゆっくりしてろよ、今日は俺が作ってやるから」
「うん…」

キッチンの後始末を帝統に任せて、私はリビングの座布団の上で膝を抱えた。手からはスマホを離せずにいて、我ながら彼への未練があることに呆れてしまった。自分から離れたくせに、彼の話も聞かないくせに。
帝統のおかげで一時的に忘れていた記憶。忘れてはいけなかったそれがどんどん蘇っていく。あの日の出来事。全てはきっと自分のせいで、何もかも上手くいかないのもきっと自業自得だった。こんなにも自身に嫌気がさすことがあっただろうか。

「死にたい…」

言の葉が無意識に出る。かつて死にたいと言ったあの頃より余裕はなかった。
キッチンから帝統の声が聞こえる。

「あんま暗くなんなよー」

どうして帝統は私の心を癒してくれるのだろうか。帝統はいつだって私の味方であるかのように言葉を重ねて、そして行動でもそれを見せる。彼への執着や未練に決着がつかないというのに、私の荒んだ心は帝統の甘さを求めていた。

欲のままに、動かされるがままに立ち上がる。帝統はこちらのことを気にも止めずにフライパンとにらめっこをしている。広い背中を見て息を飲む。包み込むようにお腹に手を回してぎゅっと抱きしめる。帝統はぴたりと動きを止めたが、何事も無かったかのようにそのまま作業に戻った。

「帝統……」

名を呟くも返答はない。今までの帝統だったら、やめろよとか寂しいのか?とか、何かしらの言葉を返すはずなのに。何も言わない。けれど、手を振り払うこともしない。

「帝統」
「……名前、どうしたんだよ、その、なんだ、変な気起こしたら大変だろ?一旦、離れようぜ?」
「ここ最近人のこと抱き枕にしておいてその発言?」
「それとこれとは別なんだよ」
「私、いいよ」
「おい、名前なんか様子おかしいぞ?」

「変な気起こされてもいいよ」

私の言葉で一瞬時が止まったような気がした。
帝統は私の腕を半ば無理やりに解き、私と向き合い、そのまま私を叱責した。女の子が自ら付き合ってもいない男を誘うんじゃない、今のお前は自暴自棄の塊だ、そんなことを言われた。帝統の顔を見れずに私は俯いて床を見つめる。

「だって、だって、だって…、私悪いの?帝統はいつも抱きしめたりしてくるじゃん…逆はダメなの?」

喉から出た声は震えていて、所々嗚咽が混じってしまった。床にはポタリポタリと水滴が一直線に落ちていく。

「な、泣くなって…!」
「だって…嫌なんだもん…」

何をとは言えなかった。
嫌なこと全て。寂しさ全て。それを上塗りして欲しいだなんて言えなくて、言葉になるのはあやふやで有耶無耶で何を言っているのかさっぱりなもので。
彼は誰のせいで私がこうなっているのか知らないだろう。きっと帝統だって自身のせいだと思っているに違いない。
これは、他ならぬ私自身のせいなのに。それを彼のせいにして、そして帝統のせいにして物事を飲み込む。嫌なことは全て他人のせいにする自分の悪い癖だった。

「名前」
「……何?」

悪いことばかりする私には、きっとバチが当たる。そんな嫌な予感がした。きっと帝統にすら見捨てられてしまうのだろう。この居場所もなくなってしまうのだろう。ゴクリと唾を飲んで、彼の言葉を待った。

「不容易にスキンシップをとる俺も悪かった。ごめんな。これからは控える。だから自暴自棄にはなるな」

静かに諌められ、何も言えなかった。怒った表情ではなかった。可哀想なものを見る目であろうか。天邪鬼な私の目にはそうとしか映らなかった。
帝統なら私のことを甘やかしてくれると心のどこかで思っていたのに、帝統の言葉は今の私にとっては残酷そのもので、何も言い返せない。
目の奥がまた熱くなっていく。涙は堪えきれずにぼろぼろと落ちて、2人で選んだカーペットを濡らす。
温もりがただ欲しかった、それだけだった。私は甘えているだけ。自身のダメさ加減に気付かされたというのに、私は納得がいかず、何も答えずにリビングを後にして寝室へと逃げた。

「抱きしめてよ…寂しいよ…」

着替えもしていない、風呂にも入っていない。こんな状態ではそのどちらもをする余裕はなく、私はただスマホの電源ボタンを押す。
そこに頼れる人がいるのなら誰にだって縋り付く、惨めで自分勝手。私はスマホの着信履歴を見つめながらそのまま眠りに落ちていった。