その日も私は仕事に出かけた。
気をつけて行ってこいよと私を送り出した帝統はいつもと変わらなかった。私はこんなにも辛いというのになんで、と思ってしまったが結局悪いのは自身である。無理やりにでも納得させた。
仕事をこなし、いつの間にやら昼休憩の時間だ。お客様の予約も入っていないしゆっくりとランチに洒落こめる。もっともそういう気分にはなれないが。
私はバックヤードに戻り、弁当を広げた。すると、少しニヤついた後輩がドアからひょこりと顔を出した。
「名字さん、名字さんにお客様がいらっしゃってますよー」
「なんだろ。指名無しのお客様だったら頼むね」
そう言って店先へと向かう。
大事な昼休憩の時間が短くなるくらいだったら居留守を使った方が良かったかもしれないと思ったが、大事なお客様だ。もしかしたら指名がしたいのかもしれないしちゃんと接客せねば、そう思いながらレジ前まで来て目を疑った。
この時ほど居留守を使うべきだったと思ったことは無いだろう。
「名前……ちょっと外に出よう。いいよな?」
「………うん」
赤みがかった茶髪にミントグリーンのメッシュ。それは私がすすめて私が担当した髪色だった。
私はバックヤードにいる後輩に昼休憩は外でとると言い、広げた弁当を包み直してバッグに入れる。そのままバッグを手に外へ出た。
外で待っていた彼は何故か微笑んで、少し歩こう、と言った。店のすぐ側で話をするのも嫌なので、断る理由もなく頷く。
歩き出して少し経った頃、意を決して口を開く。
「独歩、怒ってないの」
「…少し怒ってるよ」
声色は怒っているようには聞こえなかった。横を歩く彼の顔を見ることが出来ずにただ足元を見つめながら歩く。スニーカーの靴紐が揺れるのを目で追う。そうでもしなければ息が詰まりそうだった。
私は依然としてあちらの顔色を伺わずに意を決して言葉を紡ぐ。
「私が、勝手に出ていったから…?」
「それもあるけどすぐ電話したのに出ないし、後を追ったのに見つからないし、朝には帰ってくると思ったら帰ってこないし…、すごく心配した」
小さくごめんと呟けば彼は過ぎたことだから構わないと言った。構わないなら何故仕事中に押し掛けてきたのだろう。
「そういえば独歩は今日仕事じゃないの?」
「有給をとったんだ」
「……一緒に住んでた時は有給取ってくれなかったのに?」
「正直、今までは仕事を優先してた」
「私のこと優先して欲しかった」
「ごめんな」
ゆっくりと歩幅を進める。私に歩くスピードを合わせている独歩はそれ以降何も言わない。私も何も言わない。
何を言っていいのかダメなのか、ひとつも分かりやしない。こんな時帝統だったらどうするのだろうか?彼だったら話にかたがつくまで話し合うのだろうか。自分から納得いかないことを相手に問うのだろうか。じゃあ昨日はなんで私が納得いくまで説明してくれなかったのだろうか。
「名前」
「…えっ、あっ」
独歩に腕をひかれる。対向から人が来ていたようで、気づかない間にぶつかりそうになっていたようだった。
隣に独歩がいるのに、頭の中は昨日の帝統とのことでいっぱいで私はなんてダメなやつなんだと思ってしまった。
沈黙が続く中、口火を切ったのは独歩だった。
「……名前は今どこにいるんだ?実家は遠いだろ?ビジネスホテルに泊まってるぐらいならとりあえず帰って来て欲しい」
「知り合いの家に居候してるから、大丈夫…」
「大丈夫じゃないだろ。その人にも迷惑がかかるし、名前だってストレスがたまるし、何より俺が帰ってきて欲しいって思ってる」
「でももう何も持って無いから帰れないよ…貯蓄も無いし、それに…」
「それに?」
「……あ、えっと、もう戻らないと間に合わないから仕事戻る」
そう言って踵を返した瞬間、また腕を引かれる。そのまま今度は彼に抱きしめられる。腕の中でぎゅっと抱きしめられる。耳元で消え入りそうな声が聞こえた。
「行くな、もう二度と離したくない」
「そんな…」
「自分の過ちにも気付いた。反省してる。後悔だってあの時からずっとだ。お願いだから行くなよ、名前…」
声が出ない。突然のことだから、じゃない。
私は、帝統に抱かれようとした女だ。一時は帝統に有り金全てを賭ける大博打もした。橋から落下死だってしようとした。そんな女が簡単にヨリを戻していいものだろうか。悩みの種はそこにあった。もし私がただヨリを戻したいだけなのであれば、ひた隠す。それだけだ。
時間が経った今どうだろう。私はまた独歩と共に歩きたいと思うか。私は共に歩んではいけないのではないか。
「私のせい。全部私が悪かったんだよね。ごめんね、私独歩のこと好き。だけど、独歩から離れてからの間に色々あって、まだ戻っちゃ行けないと思う」
「色々って何があったんだ」
「………」
「……分かった、待つよ。だけど絶対だからな。あと、俺からの電話も絶対に出てくれ、心配だから」
私はその言葉にこくりと頷いた。
なんと愚かだろうか。男の部屋に居候しているというのにそれも打ち明けることが出来なかった。
独歩は待ってると言った。だけど、そのことを知ったらどうなるかは目に見えている。ただひとりぼっちになるのを先送りにしただけだった。
会話も一区切りつき、なんでもない会話をしながら仕事場へと戻った。去り際の悲しそうな、どこか嬉しそうな独歩の顔が脳裏に焼き付いて離れてくれない。
私は残りの休憩時間で急いでお弁当を食べた。味なんか感じなくて、まるで砂を食べているかのようで半分残してしまった。テーブルの上を片付け、午後の仕事の準備に取り掛かると突然目頭が熱くなった。何故か出そうになる涙を我慢して、私は事に取り掛かったのだった。