09


そこは個室の居酒屋だった。
プライベートな話をするのであれば、と安室が提案して名前がそれに同意しただけのことだった。

名前はバイク事故をした筈が交通事故に巻き込まれたことになっていた事や、自分の情報がひとつも出てこないこと、帰る家も知り合いも家族も失ったことを打ち明けた。

「そんな過去があったんですね……」
「はい……、施設に居座るのも解決にはならない気がして…というよりは引きこもって行動しない訳にはいかなくて」
「それでホステスをやられていたと」
「信じられませんよね」
「にわかには信じ難い話ではありますね」

そう言い安室は顎に手を当ててなにか思案しだした。名前は訪れた沈黙を裂く様に店員を呼び出した。すぐに来た店員に日本酒を注文する。

「意外と好みが渋いんですね」
「ええ。だってこんなの1番私が信じられませんから。飲まないと、やっていけない…」
「すみません。先程は不躾な反応をしてしまいましたね」
「いえ、話を聞いてそれも協力してくださるのに私こそ意地の悪いことを…!」

そこで扉がノックされた。どうやら注文した酒が届いたようで安室の前に日本酒が置かれた。失礼します、とさがる店員を安室も名前も何も言わず見送る。
名前が少し隙間の出来た扉を完全に閉めると、今度は安室が日本酒を名前の目の前に置き直し、言った。

「こういうこと、差別だと思いますか?」
「無自覚の差別か、或いは統計論だと…」
「あなたとは気が合いそうです」
「それは、ありがとうございます…?」

そう答えながら名前は升に入ったグラスに口をつけた。舌に日本酒が染み渡り、嚥下すれば喉が焼けるように熱くなる。嫌なことを忘れるにはもってこいだった。

「あっ、ちゃんと自分で飲み食いした分は支払いますので、好きなだけ飲ませてください…」
「ええ、大丈夫ですよ」
「良かった…考えたら運転が待ってる人の前で飲むなんて無神経でしたね…」
「あなたが気にすることではありませんよ、元より緊張をほぐす為にも飲んでリラックスして頂きたかったので」
「ありがとうございます」

名前がそう返事をすれば、安室はあなたはやはり素直な人ですね、と言った。
その言葉の真意が分からなかった名前は思考を巡らすが分からないものは分からず、結局、そうでしょうか、と当たり障りのない返答をした。

「今日は"わん"とは言わないんですね」

クスリと笑いながら安室は言った。
名前は少し口を尖らせながら、そういう時もあるんですと反論する。
グラスが空になりメニュー表を開き、呼び出しボタンを押す。

「あっ、安室さんはなにか頼みますか」
「考える前に行動するタイプなんですね」
「えっ」
「ボタンを押してから相手に注文を聞く人はそうだと思いますよ?」
「あっ、す、すみません…こういうの考え無しって言うんですよね」
「そういうタイプ、嫌いじゃないですよ」
「じゃあ良かったです…」

程なくして店員が注文を聞きに来ると、名前は焼酎を安室はウーロン茶を注文した。

「コーヒーじゃないんですね」
「なんでも摂りすぎは体に毒ですからね」
「なるほど」
「では、そろそろ本題に入りましょうか」

さっき本題入ってなかったっけ…?
心の中で名前はそう思った。
名前が疑問符を浮かべている最中、安室はさも当たり前のことを言うような表情で言う。

「単刀直入に言います。僕の家に住んで働きませんか?」

思考回路が停止する音がしたのは初めてのことだった。